日本巫女史/第二篇/第三章/第一節
第一節 巫女を中心として見たる神々の起伏[編集]
「琉球国旧記」を読むと、同国の神々は正しい名の外に、必ず「イベ名」というのを、一つか二つほど有っている。チャンバレン氏は、此のイベ名は内地の
琉球の
然るに、茲に困難なる問題の伴うのは、神託を承くるときの
然るに、猶おここに併せ考えて見なければならぬ問題は、琉球における神々の高下ということと
それでは、斯うした問題は、独り南方の嶋々に限り存したことで、内地の古代にはこれに類似し、又は共通した信仰は無かったかと云うに、此の事たるや、特に筆端を慎しまぬと、意外の誤解を受ける虞れがあるので、流石に無遠慮に物を書くのに馴れている私でも、余り突っ込んだことは差控えなければならぬが、許された範囲内で説を試みると、これと共通した信仰が、我が古代に顕然と存していたことだけは認めねばなるまいと思う。前に引用した「日本書紀」に、神后が親しく神主とならせ給い、烏賊津臣を
然るに、私の寡聞なる、これに類した文献の他にあることを知らぬので、これ以上のことは何も言われぬのであるが、琉球の例を以て古代を推すときは、教養のない巫女の間にあっては、或は一神を他の名で称えたり、或は同じ神を降ろしながら、前の時と後の時と名を異にするようなことが、往々にして在ったのではないかと想像されるのである。「神名帳」にある出雲の神魂伊能知奴志とか、「地神本紀」にある久々紀若室葛根神とか云うのは、或は巫女によって創作された神の名ではあるまいか。而して此の伝統を承けたものか、後世の巫女は隆んに神の名を創作したようだが、誰でも知っている八幡社の出現も、欽明朝に巫女(職業的の者ではないが)に憑りて『我は誉田の八幡丸なり』と神託されたので八幡神の名が起り〔四〕、菅公も村上朝に巫女(同上)に憑りて、天満大自在天神と託宣されたので、天満神の称が起ったなどは〔五〕、その顕著なる例証として挙げることが出来るのである。
更に巫女によって神格を向上した神としては、先ず八幡神をその徴証とすることが、好適でもあり、且つ安全だと考える。前にも言うた如く、八幡社は我国第一の託宣好きの神で、これを集めた「宇佐託宣集」だけでも、十八巻の多きに達している。従って国家に有事の際には、殆んど懈怠なく託宣をされるが、殊に著聞せるは、「続日本紀」天平勝宝二年十一月(辛卯朔)の条に、
- 巳酉、八幡神託宣向京、甲寅遣参議従四位上石川朝臣年足、侍従従五位下藤原朝臣魚名等、以為迎神使、路次諸国差発兵士一百人以上、前後駆除、又所歴之国、禁断殺生(中略)。十二月戊寅(中略)、迎八幡神於平群郡、是日入京、即於宮南梨原宮造新殿以為神宮、請僧四十口、悔過七日、丁亥大神禰宜尼大神朝臣杜女{其輿紫色/一同乗輿}拝東大寺。天皇{○孝/謙帝}太上天皇太后同亦行幸、是日百官及諸氏人等咸会於寺(中略)。奉大神一品比咩神二品(中略)。左大臣橘宿禰諸兄奉詔白神曰、天皇我御命爾坐申賜止申久、去辰年河内国大県郡乃智識寺爾坐盧舍那仏遠礼奉天、則朕毛欲奉造止思登毛得不為之間爾、豊前国宇佐郡爾坐広幡乃八幡大神仁申賜閉止勅久、神我天神地祇乎率伊左奈比天必成奉旡事立不有、銅湯乎水止成、我身遠草木土爾交天、障事無久奈佐牟止勅賜奈我良成奴礼波、歓美貴美奈毛念食須、然猶止事不得為天、恐家礼登毛御剣献事乎、恐美恐美毛申賜久止申、尼杜女授従四位下主神大神朝臣田麻呂外従五位下、施東大寺封四千戸奴百人婢百人云々(国史大系本)。
の一条である。当時、孝謙女帝は、父聖武帝の宿願を継いで、盧舎那仏(即ち奈良の大仏)を鋳造せられんとしたが、鋳造術の幼稚なる、幾度か鋳損じたのを、これは仏像を鋳ることを、我国の神々が悦ばぬためだという風説があったので、殊の外に叡慮を悩まさせられた折に、真に突如として九州の一角にある八幡社が託宣して、必ず成就せしめんとの事であったので、かくは帝都に八幡神を迎えたのであるが、その盛儀の実に意外であったことは、続紀の記事に尽してある。更に「詞林采葉」巻一によれば、
- 聖武天皇(中略)正八幡大菩薩を此寺{○東/大寺}の鎮守{○手向山/八幡宮}と崇めたてまつらんとて、勅使を鎮西宇佐宮へたてまつらせ給ひければ、乗物なきよし勅答あるによて、帝のり給ふ神輿を奉らせ給ひしかば、やがて乗うつらせ給ふ、南都へ入せ給ふ、自其以来代々の御門の祖神一朝ノ宗廟四維八紘を擁護し給ふ者也。
とは、誠に以て託宣の力が如何に偉大であったか、千載の後からでも恐察されるのである。殊に、巫女である杜(社)女が、禁色の輿に乗り、主神田麻呂の外従五位下に対して、従四位下に叙せらるるなど、巫女の勢力の如何に甚大であったかが推測されるのである。従って、斯く皇室の御信仰を深く受けていたればこそ、神護景雲三年七月、僧道鏡の事件の起るに及んで、和気清麻呂を宇佐八幡に遣して、神託を仰ぎ奉らしめたのである〔六〕。然るに、此の八幡神が清和朝に僧行教によって、石清水に分霊鎮座されてより、一段と神威を加え、更に清和源氏の棟梁達の信仰を博してから、式神として朝野の崇敬を受け、九州の一地方神であったのが、天下の高位神として、全国に祭られるようになったのである。
- 〔註一〕
- 此の事に関しては、柳田国男先生が、先年、折口信夫氏の宅で、琉球見聞談を二回ほど試みられた際に、詳しく承っていたのである。
- 〔註二〕
- 琉球出身の伊波普猷氏に、此の事の教示を仰いだが、「八幡伝記」の神々の名には、琉球語は多く発見されぬとのことであった。
- 〔註三〕
- 同上伊波普猷氏の「沖縄女性史」に同国の巫女の事が詳記してあり、且つ巫女の体系や関係が図になって示してある。篤学のお方の参照を望む。
- 〔註四〕
- 「八幡愚童訓」及びその他の書にも見えている。因みに言うが、八幡はヤハタと読むのが古訓であって、然もそのヤハタなる語は地形から来ているものであることは、既に小山田与清翁も「松屋叢話」及び「松屋筆記」に述べている。而してこれをハチマンと読んだのも新しいことではないが、此の読み方は僧侶が仏教に附会せんがために、古意にするところがあったのである。
- 〔註五〕
- 「北野縁起」及び「北野天神絵巻」の詞書にも見えていたと記憶している。
- 〔註六〕
- 託宣好きであった八幡神は、或意味から云えば、余りに饒舌に過ぎて、思わぬ失敗を招かれた事すらある。「続日本紀」天平勝宝三年七月の条に「八幡大神託宣曰、神吾不願矯託神命請取、封一千四百戸田一百四十町、徒旡所用如捨山野、宜奉返朝廷唯留常神田耳、依神宣行之」とあるのは、その一例である。更に習宜阿蘇麻呂が、八幡神の託宣を矯めて、僧道鏡に媚びた顛末、及び当時の大政治家であった藤原百川が、如何に此の八幡神の神威を有効に利用して、僧道鏡を退けたかに就いては、故田口卯吉翁の「史海」に載せた藤原百川伝に尽している。八幡神に就いては、猶お記したいことが沢山あるが、深入りして誤解を受けることも如何と考えたので割愛する。