日本巫女史/第一篇/第三章/第一節

提供:Docs
2008年8月21日 (木) 08:21時点におけるたちゃな (トーク | 投稿記録)による版 (新しいページ: '日本巫女史 第一篇 固有呪法時代 第三章 巫女の用いし呪文と呪言 ==第...')
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ナビゲーションに移動 検索に移動

日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第三章 巫女の用いし呪文と呪言

第一節 古代人の言霊信仰と其過程

言語が人類の間に発達して行くにつれ、人はこれに対して一種の威力を感ずるに至った。而して此の言語感情は、言語を善用するによって幸福を齎し、これを悪用するによって災禍を受けるものと考えさせるようになった。茲に言語の善悪が生じ、禁忌が起り、善言は祝言または寿辞となり、悪語は忌詞となり、詛言となり、遂に言語には霊あるものと信ずる所謂言霊信仰を生むようになったのである。

我が古代人が如何に言語に対して神経過敏であったか、それを証拠立てる史料は夥しきまでに存している。伊勢皇大神宮における忌詞や〔一〕、国造でありながら、用ゆべからざる言語を用いた為めに、極刑に行われんとした事件などは〔二〕、共にその一證として挙げることが出来る。殊に、民間においては、此の忌詞の禁忌は、厳重に守られていたものと見えて、旅行の留守に遣ってならぬ忌詞とか、狩猟する折に用いるを避ける去り詞などが存し、殊に男女関係にあっては離れるとか切れるとか云う語を特に嫌ったものである。「万葉集」巻十三に、『菅の根の慇懃に、吾が思へる妹によりては、言の禁も無くありこそと、斎瓮を斎ひ掘り据ゑ、竹珠を間なく貫き垂り、天地の神祇をぞ吾が祈む、いとも術なみ』とあるのは、即ちそれである。

言霊に関しては古くから説を立てた者が頗る多く、遂に原始神道を此の方面から説こうとする言霊学とも云うべきものの一派を出すようになったが、所詮は言語に霊があるものとする信仰に外ならぬのである〔三〕。而して此の言霊が文献に現われたものでは「万葉集」巻五の山上憶良の好去好来の長歌の一節に『神代より言傳てけらく、空見つ日本の國は、皇神の嚴しき國、言靈の幸ふ國と、語り繼ぎ言ひ繼がひけり』とあるのや、同集巻十三に柿本人麿の長歌の反歌に『敷島の倭の國は、言靈のたすくる國ぞ、まさきくありこそ』とあるのが、それである。併しながら、是等は一般的に、且つ消極的に、言霊の存在を信仰したまでであって、まだ此の言霊を呪術に利用すると云う積極的の思想は現われていないが、前に載せた同集第十一の『言靈の八十の衢に夕占問ふ、占まさに告れ妹に逢はんよし』とあるのは、これを呪術に用いた一例であることは既記の如くである。而して斯く言霊信仰から導かれた当然の結果として、祝言と呪言との区別を生じ、前者は吉事に用いられ、後者は凶事にもちいられるようになったのである。

〔註一〕
延暦の「皇大神宮儀式帳」は、仔細に内容を検討するとき、延暦よりは時代の降った頃の編纂と考えられるが、その詮索は本問に関係が少いので姑らく措くとするも、神宮の忌詞にあっては、「延喜式」にも載せてあることゆえ、先ず正しいものと見て差支ないようである。而してその忌詞は、「斎宮式」によれば、内七言、佛教中子、經稱染紙、塔稱阿良々岐、寺稱瓦葺、僧稱髮長、齋稱片膳、外七言、死稱奈保留、病稱夜須美、哭稱鹽垂、血稱阿世、打稱撫、宍稱菌、墓稱壤、又別忌詞、堂稱香燃、優婆塞稱角筈とある。
〔註二〕
「允恭紀」二年春二月の條に、闘鶏国造が皇后忍坂大中姫命がまだ入内せぬ以前に、マクナキの一語を発したために、昔日の罪を数えて死刑に行われんとし、国造の陳謝により、死を許し、姓を貶して、稲置としたことが載せてある。
〔註三〕
言霊語学の発生や、沿革に就いて、茲に言うている余裕を有たぬが、雑誌「芸文」第十二年第三号に載せた佐藤鶴吉氏の「ことだま考」は、それ等に及んでいるので参照を望む。