日本巫女史/第一篇/第六章/第二節
第六章 巫女の性格変換と其生活
第二節 人身御供となった巫女
我が古代に、人身御供というが如き野蛮事が、民俗として行われたか、否かに就いては、先輩の間に異論もあったが、現在では此の民俗の存したことは、単なる文献や伝説ばかりでなく、考古学的に遺物の上からも証明されるまでに研究が進んで来た〔一〕。私は茲にこれが詳説を試みることは、勿論差控えるとするが、此の人身御供に上げられる女性のうちに、巫女がその多数を占めているのは、抑々如何なる理由に因るのであろうか、それに就いて例の独断を記すとする。
併しながら、是れに関する私の資料は、誠に恥しいほどの貧弱さであるが、先ずその乏しきものの中から、明確に巫女が人身御供となったものを挙げる。駿河国富士郡吉原町の瀬古川の上流に深い淵があり、ここに悪龍棲み年々所の祭りとて人身御供を上げた。或る年関東の巫女七人が京都へ往く途中で、此の祭礼に出会い、七人のうち年若きアジという者が御鬮にあたり、人身御供となり、残り六人は柏原邊の浮島ノ池に投身して死んだのを、土地の者が取りあげて一つの墓に葬った〔二〕。旅人を人身御供にする民俗は、かなり広く行われていたが、それを言い出すと論旨が多岐になるので割愛する〔三〕。陸前国黒川郡大衡村大字大衡に巫女御前社というがある。偶伝に大昔用水堰を作ろうとしたが毎に失敗するので、偶々そこを通りがかりの巫女を捉え、堰柱として生埋めにした。その為めで堰が築かれ社を建てて彼の巫女を祀ったのである〔四〕。常陸国筑波郡菅間村大字上菅間の西北を流るる櫻川に女堰というがある。これも古え此の堰を修理しようとしたが、水勢が烈しいので押し流されて目的を果さず、村民これを神意に問うべしとて巫女に占わせたところ、人間を生杭とすれば必ず成就すべしと告げたので、それではその巫女を生杭にせよと川に投じ、その上に堰を築いたので此の名があると伝えている〔五〕。それから第八章第三節「巫女と農業」の條に載せた陸中国上閉伊郡松崎村のボナリ神社の由来も、又これと同じく巫女が人身御供に上げられた一例である。 これは明確に巫女とは記していないが、私の考えでは如何にしても巫女としか思われぬ女性の、人身御供となった話がある。尾張国東春日井郡旭村大字新居の道浄寺の前に大きな池があった。大昔に此の池水が溢れて田畑を害すので、村民が怪んで筮者に問うたところが、五月朔日に一名の女子が機織具を持って通るのを捉えて、水中に投じ、堤を築けと誨えた。村民はその日を待っていると、果して織具を持った女子が来たので、水に投じ築堤した。然るに、池水は溢れぬようになったが、村の女達が五月に機を織ると暴死するので、彼女の怨霊を恐れ、道浄寺を建立して冥福を祈った。此の村では今に至るも五月には機を織らぬこととなっている〔六〕。
これに似た話は、讃岐国香川郡佛生町の榺宮(祭神若日女)の由来である。社伝に治承二年平清盛が、阿波民部に命じて、淺野という処へ貯水池を掘らせたが、度々堤が崩れるので、陰陽師に占わせしに、人を以て埋めれば成就するとのことで、或る朝路上に出でて行人を候うと、会々柚(中山曰。機織具)を持ち、筬(中山曰。同上)を懐にした婦人が来たので、これを人柱に立てた。然るに、その柚が化して松樹となり、筬が化して竹林となり、殃いするので祠を立て神と祀った〔七〕。此の話の筋は池中において機を織る音がするという「機織池伝説」と共通している点が存しているが〔八〕。茲にはその詮索よりは、何処にかく機具――殊に筬を持った女性が人柱に立ったのであるかの考覈を試みねばならぬ。
これに就いても、先輩の研究が発表されているが〔九〕、私の信ずるところを簡単に言えば、これはオサメと通称する巫女が〔一〇〕、人身御供となったのを、オサと筬の国音の通ずるところから、機具を持てる女とまで転訛したものだと考えている。若狭国三方郡東村大字阪尻の国吉山の北麓の水田は、往昔は一面の池であったが、或年の冬の日に、一人の女が機具を持って池の氷の上を通る折に、氷が破れて落ちて死んだ。それ以後は水中に機の音を聞くことがある。村民憐んで祠を建ててその霊を祀り、これを機織池と云い、池を機織池と名づけたとあるのは〔一一〕、オサメの人身御供伝説に、機織池伝説が付会されたものと考えている。而して斯く巫女が人身御供となったのは、それが神を和める聖職に居った為めであることは言うまでもない。
まだ此の外に、巫女が他人の子を人柱とした話や、巫女で無くして普通の女性が人身御供になった話も夥しく存しているが、今は大体を言うにとどめて、他は省略した。説いて詳しからず、論じて盡さざるものがあるも、此の問題にばかり屈托していられないので、遍えに諒察を乞う次第である。
- 〔註一〕
- 此の事は閑があったら起稿して見たいと材料を集めて置いた。動物を犠牲にする民俗に就いては「中央史壇」第十一巻第二号に、駒込林二の匿名で発表したことがある。此の記事中でも多少この事に触れて置いた。御参照をねがわれると仕合せである。
- 〔註二〕
- 山中共古翁の所蔵本「田子の古道」に拠る。
- 〔註三〕
- 旅人を人身御供とした神事は、尾張国府宮の直会祭を始めとして、各地に夥しきまでに存していた。此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免れんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕えることになったのであるが、それも国府宮の如く有名になると、同じく旅人が相警めて通行せぬようになるので尾張藩では藩令を以てこれを制止したことさえある。旅行者も最初の者か第三者の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた。
- 〔註四〕
- 仙台領の地誌である「封内風土記」第九。
- 〔註五〕
- 「筑波郡案内記」
- 〔註六〕
- 「張州府志」巻一一。
- 〔註七〕
- 「全讃史」巻五。及び「讃州府志」巻七。
- 〔註八〕
- 池中に機を織る音を聞くという話は、全国的に分布されているが、此の話はアイヌ語で池のことをパタと云うので、それから思いついた伝説だろうと云われている。私はこれに就いて異説を有しているが、それを述べると長くなるので略した。
- 〔註九〕
- 「郷土研究」第一巻第十一号に柳田国男先生(誌上匿名)が掲載された「筬を持てる女」を参照せられたい。
- 〔註一〇〕
- 香取神宮第一の摂社である娍社は、何と訓むのか昔から問題とされているが、K先生によるとオサメと訓むのが正しいとのことである。それで此の娍社が、巫女を祀ったことは疑いなく、且つそれがオサメと通称していた巫女であると考えたのである。誠に未熟な妄断な嫌いはあるが、敢て記して後考を俟つとする。
- 〔註一一〕
- 日本地誌体系本の「若狭郡縣史」巻三。