日本巫女史/第一篇/第六章/第一節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第六章 巫女の性格変換と其生活

第一節 神人生活と性格の變換

伊勢の皇太神宮に奉仕した御子良オコラ、及び母等モラの神人生活に就いて、明治の終り頃に神宮司廳で紀錄に留めて置きたいと企て、是等の生活を送つた生殘りの人人に對して、其の狀態を調べようとしたが、「神宮內の事は申上げられぬ。」との事で、遂に其の計劃は目的を達する事が出來無かつたと傳聞してゐる。此れ程嚴祕されてゐる神人の生活、其の詳細を知る事は、思ひも寄らぬ事であるが、鎌倉期に書かれた『坂上佛大神宮參詣記』に據ると

當宮には巫女無し。﹝中山曰、齋宮を御杖代とした為めである。﹞子良とて幼稚の未通女の未だ夫婦の業も知らぬが、御膳を備ふる器用ぶて召仕はるるばかり也。神慮に叶ひぬれば二・三十﹝歲﹞迄も月事無し、冥鑒に背きぬれば十一・二より觸る、觸れば則ち職を辭す。

と有る。此の二・三十歲に及ぶも通經が無いと云ふ事は、即ち巫女の性格の變換を指してゐるのである。而して斯かる類例は、他の神社に仕へた巫女の上にも、發見する事の出來る事態なのである。『延喜式』臨時祭の條に、「凡座摩巫,取都下國造氏童女七歲已上者充之。若及嫁時,申辨官充替。」と有るのも、此の一例である。更に、『觀惠交話』卷上に、

常陸鹿嶋の社人從五位上東長門守胤長物語に、當社には長門守の家より代代齋宮の如く女を神に仕へしむ、此れを御物忌と謂ふ。三百石を領す。一家中より二人を選び、百日の神事にて社家ども殘らず著座して、神前にて龜二るを灼く。生龜の甲に二人の女の名を書附け、火を活活と起して灼くに、其任に備るはべき女の名は少しも灼けず。其れを證據にして備ふる也。備はりて後は長門守より外の人には一生逢はず。其者の使ふ女も皆少女・老女の經水無き者也。一年三百六十日の內神事にて、平日は神殿の中に居り、社へ行くに我齋屋より輿にて祝詞の屋迄行き、社內の事社人の為ぬ事をも勤む。皆長壽にして百歲より百二十歲に至る。﹝摘要。﹞

と記し、更に『鹿島志』の卷下には、物忌なる者は、其職に在る內は、幾歲に成るも通經せぬと記したのは、性格的變換する事を證示してゐる〔一〕。筑前國の宗像神社にても、祭神三柱の中、湍津姬神に仕へる巫女は、其職を務むる間は月水無く、今にさうであると傳へてゐる〔二〕。

而して、斯かる記事が、如何なる點迄信じられる物であるかは別問題として、兔に角に古代に於いては、巫女に通經無しと考へられてゐた事だけは確かである。丹後國竹野郡竹野村大字竹野の竹野神社は舊社であるが、此れに奉仕する祠官は鄰接せる同國熊野郡市場村に住んでゐる。昔は祠官の家に女子が生まれると、飛箭來し屋上に立つ。さうすると、其子四・五歲頃から竹野社に奉り、此れを齋女と云ふ。同社は高山深谷の中に在つて、齋女は獨り禽獸と交居るも、決して危害を加へられる事が無い。斯くて天癸を見る頃に成ると、何處からとも無く大蛇が出て來て、眼を瞋らして、齋女を見る。此れを機會に宮を致して生家に歸る事と成つてゐた〔三〕。かうした類例も詮索したら未だ澤山有る事と思ふが省略する。

さて、是等の記事は、性格變換と言つても、月水の未通だけで、事事しく取立てて言ふ程の物では無いが、唯此の裏面に潛む事象を考へる時、更に後世の巫女の事を思ふ時、其れは紀錄にこそ殘つてゐぬが、殆ど男性化した巫女の多かつた事が偲ばれるのである。天鈿女命の勇氣に就いて『古事記』に、「汝者雖手弱女人,射向神與面勝神也。」とあるのは、此女神の男性化を示唆してゐる物と信じたい。

〔註一〕
『鹽尻』卷四五に、「伊勢の子良、鹿島の齋は月の觸り知らぬ少女也。嚴島の內侍は年老迄も仕へ侍るにや。」と、同じく巫女は通經無きを原則とする記事を載せてゐる。
〔註二〕
貝原益軒著の『筑前續風土記』卷一六。
〔註三〕
『丹後國竹野郡誌』に『神社啟蒙』を引用して記してある。