日本巫女史/第一篇/第八章/第四節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第八章 物質文化に於ける巫女の職務

第四節 医術者としての巫女

荒木田久老の「くし考」を読むと、くしは酒の古名であって「仲哀記」に『この御酒は吾が御酒ならず、くしの神、常世にいます、石たゝす少名御神の』云々とあるくしがそれであって、病人に与えて治癒の効があったので、後にこれを薬(くすり)と云うようになり、且つ少名彦神を医薬の神として崇めたものであると云う意味が記されている。然るに、これに反して、伴信友翁は「方術原論」において、病気を禁厭マジナイ除く術を行うことをクスルと云い、その術によって食う物をクスリと云うと考証している。これを要するに、前の久老翁は、酒薬一元説を主張し、後の伴翁は、医術方術同根論を唱道しているのである。

薬の語原がその各れであるか、それを究むることは本書の埒外に出るので茲に略すが、兎に角に「迷信は科学の母なり」と西諺にもある如く、古く医術と方術(即ち呪術の意)とが同じ源流から出たことだけは疑う余地はない。そして薬の初めが酒であったことも同断のように考えられる。誰でも知っていることではあるが、「周礼」及び「説文」を見ると、醫の字は古く毉とも書いたもので、これは神々に仕えた巫覡の徒が、専ら療病のことに与っていたので、斯く殹の下に巫を加えて、毉と訓ませたのである。然るに時代が遷り、酒というものが発明されて以来は、これを薬剤として用いるようになったので、今度は殹の下を酉に作ることとなって醫の字となり、茲に呪術と医術とが分離するようになったのである。

而して此の事象は、我国の古俗にも覓めることが出来るのである。「古語拾遺」に、

大己貴神{○原/註略}与少彦名神{○同/上}共戮力一心経営天下、為蒼生畜産定療病之方、又為攘鳥獣毘蟲之災、定禁厭之法、百姓至今咸蒙恩頼皆有効験也。

とあるのが、それである。勿論、私は斯う言ったからとて、決して大少二神を男覡であると申すのでは無くして、巫覡の徒が大少二神の定められた療病の法を伝え、これに由って医術的所作を行うたものであると云うのである。それでは、是等二神の定めた医方は、如何なるものであったかというと、私の寡聞のためか判然とこれを知ることが出来ぬのである。尤も坊間に流布している「大同類聚方」と称する書物を見ると、大少二神の遣方というのが、夥しきまでに記載されているけれども、此の書が後人の偽作なることは、既に学界の定説となっているのであるから、此の書を典拠として説を試みることは不可能である。そこで私は、専ら資料を記・紀等の古文献に覓め、これを数項に分類して、巫女が医療として行った呪術に就き略述するとした。

猶おそれを記す以前に、巫女の行うた医療的呪術の概念に就いて述べて置く必要がある。それは外でもなく、巫女の医療的方面は、大別して二つとすることが出来る。即ち第一は、薬剤ともいうべき物を用いずして、単なる祈禱か又は呪術に由るものと、第二は、是等の祈禱を行うと同時に、薬剤とも称すべき物を用いたものとに区別されるのである。而して此の区別は、更に細別するときは、第一の祈禱呪術は、刺傷、封結、驚圧、呪物等に分れ、第二の薬剤は、供物を薬剤に代用せるものと、純薬剤とに分けることが出来ると考えるので、不充分ながらも姑らく此の分類に従うこととした。

因に言うが、発病以前に難病を排除する呪術を巫女が行うたことは勿論であるが、これは本節に交渉するところが尠いので除外したことである。

一 身体を刺傷する医療的呪術

「人類学雑誌」第四二巻第十号に掲載された、清野謙次、平井隆両氏の「日本石器時代の穿顱頭蓋に就いて」と題する論文は、我国にも顱頂骨を刺傷する施術の行われた事実を科学的に証明したものである。而して穿顱の目的に就いて、清野氏等は、

生前の穿顱は頭蓋骨の外傷、頭蓋内外の腫瘍、頑固なる頭痛、精神病、癩病、神経痛、憑依等の場合に施行せられ、死後の穿顱は頭蓋骨の崇拝、或は護符の宗教的観念の下に行わる。

と説かれている〔一〕。茲に憑依とは、神がかりとも云うほどの意であろう。而して更に「史苑」第二巻第一第二号に連載された岡田太郎氏の「新石器時代の穿顱術について」と題せる論文には、

此の種の外科手術が、先史時代に行われたことについては、種々なる仮説が試みられた。プロカは、癩癇患者に対する治療法として行われたもので、悪霊が頭蓋骨の穿孔から逃げるものと信じられていたと言っている。多くの場合、前頭骨に手術が行われないで、顱頂部に行われる故に、此の迷信が主要原因であったと力説している。ミュニツワ及びマック・デイは、穿顱術が呪術的起原を有するもので、本来治療的なものではないとまで極言している云々。

と説かれている。而して是等の研究に従えば、我国の古代に顱頂骨を穿つことが、医療を目的とした呪術として行われた点は先ず疑いないようであるが、それでは此の施術者は何者であったかという点になると、両論文とも少しもこれに触れていないのである。私は例の独断から、此の施術者こそ巫女であって、然も施術の場合には、神意を窺うて行ったものと想像するのである。妊婦の屍体を開腹するほどの蛮勇(勿論それは神の命ずることとして行ったのであるが)を有していた巫女にとっては、当然有り得べき事実と信じたいのである。

二 物件を封結する医療的呪術

これは或る物を封じ、又は結ぶを以て、医療の目的を達せんとする呪術である。前に引用した「貞観儀式」の鎮魂祭儀の条に、

大蔵録以安芸木綿二枚イレテ於筥中、進置伯前、御巫覆宇気槽、立其上以桙撞槽、毎一度畢伯結木綿云々

とあるのは、此の信仰に由来するものと思う。勿論、鎮魂の祭儀の所見である「天孫本紀」には斯かる手続きは記してないが、併し極めて厳粛なるべき此の祭儀は、神代以来少しも渝ることなく保存されたに相違ないので、それが初めて行われた際にも、此の手続きの存したことと拝察すべきである。而して後世になると、これを「御玉緒糸」とも「御玉結糸」とも申したようである〔二〕。「三代実録」貞観二年八月二十七日の条に、

夜偸児開神祇官西院斎戸神殿、盗取主上結御魂緒等、

とあるより推測するも、糸を結ぶことが此の祭儀の要点であったことが窺われるのである。ただ研究の余地の在るところは、由来、鎮魂祭なるものは、龍体の御健やかにおわします時に行い、御悩の折に行うことが尠いので、必ずしもこれを以て医療ということが出来ぬと論ずる者があるやも知れぬが、併し僅少の場合にせよ、御悩の場合に行わせられた例証も存している。これも前に引用したが、「天武紀」十四年冬十一月丙寅の条に、

法蔵法師金撞鐘、献白求煎、是日為天皇招魂之〔三〕。

と載せ、更に後世の記事ではあるが、「日本後紀」延暦二十三年二月の条に、桓武帝不予のために奈良より巫女を召して鎮魂された(此の全文は第二篇に載せる)事が記されているのを見ても、鎮魂に医療的の信仰が含まれていた事が窺知されるのである。

三 病魔を驚圧する医療的呪術

古代人は、総ての疾病は、病魔の(古くこれをモノというた)の襲うことが原因であると信じていたので、これを回復せんには、その病魔を駆除することが肝要とせられ、此の駆除法には種々なる呪術が行われたようである。例えば、病者の身体や、病室を殴打することや、病魔が嫌いそうな異臭のあるものを病者に食わせたり、又は室内に焚いたりするのや、その他にも様々なものが工夫されていた。而して此の駆除呪術は、斯くして病魔を驚駭させ、圧服するという信仰から出発していることは、言うまでもない。屡記を経た天鈿女命が磐戸の斎庭において「手に茅纒のホコを持ち」神がかりしたのは、葬宴に際して疎び荒び来る物の気を攘うためであったとも思われる。換言すれば、矟という武器によって、物の気を強圧する手段とも見られるのである。漢字通の後藤朝太郎氏から聴いた話に、支那の弔という字は、葬礼のときに人が弓を携えて往った民俗があったので、それの象形文字だということである。それとこれと、思想上に共通があるか否かは、断言できぬけれども、我国にも葬儀に弓を携えて往く例は、各地に行われている〔四〕。或は此の民俗なども遠くに溯ると、鈿女の矟のように物の気を攘うのが目的であったかも知れぬ。「神楽歌」の採物に、弓、剣、鉾などのあるのも、又この信仰の在ったことを想わせるものがある。

病魔の嫌う異臭を以て、医療的の呪術を行ったものとしては、「景行紀」にある倭尊の故事を例証として挙げることが出来ようと思う。即ち

日本武尊被烟凌霧、遙経大山、既逮于峯而飢之、食於山中、山神将令苦王、以化白鹿立於王前、王異之、以一箇蒜弾白鹿、則中眼而殺之(中略)。先是度信濃坂者、多得神気以瘼臥ヲヱフセリ、但従殺白鹿之後踰是山者、嚼蒜塗人及牛馬、自不中神気也。

とあるのが、それである。而して此の記事には注意すべきものが二つある。第一は、倭尊が白鹿に化した悪神の不意に出でて、蒜を弾きかけて驚駭させたことと、第二は蒜が邪気を攘う呪力を有するものと信仰されていた事である。現時でも門戸に蒜を懸けて病魔を追うのは、蓋し此の信仰に基いたものであろうが、更に一段と歩をすすめて考えるときは、此の種の信仰は東方アジヤの文化圏に共通しているものであって、古くは支那から渡来したのかも知れぬのである。そして倭尊が蒜に病魔を攘う呪力あること知られていたのは、恐らく姨であり、当時最高位の巫女であった倭媛命から教えられたものと想像される〔五〕。必ずやその頃の巫女は、蒜(蓬または毛などを焼くことも行われたものと思うが古い文献には見えぬ)を用いて此の種の呪術を行うたものと考えられる。そして此の時の呪術が、医療的であったことは、病臥の用語からも察しられるのである。

四 神霊の力で病魔を駆除する呪術

これは巫女の医療的呪術としては、極めて普通なものであって、別段に取り立てて言うほどの事も無いのであるが少しく心附けるものを記して参考に資せんに、注連縄を張ることは、その一であった。鈴を振る(神の声として)ことはその二であった。社の周囲を匝ること(寛文頃の記録を見ると、宮中では刀自と称する女官が、主上御悩のときに、お千度と称して、内侍所の周りを千度匝ると載せてある)は、その三であった。

而して猶お此の場合に考えて見たいことは、木花開耶姫命が皇子三柱を産みますときに、産室に火を放って焚き、火中において分娩されたという有名なる神話の医療学的解釈である。勿論、出産は生理的のことであって、病気では無いが、古代においてはさる区別は意識しなかったので、姑らく出産を病気として見ることとしたのである。此の神話は皇孫が妹神に対して『天神の子と雖も、いかゞ一夜に人をし娠ませんや、はた吾が児にあらざるか』と仰せられたに対して、ウケヒの考えを以て火中に入られたというのが骨子となっているのではあるが、現に琉球の各地方に行われている民俗として、妊婦が産に臨むと、室内に数個の大火鉢に火を焚き、その熱によって産婦に発汗させることを、安産の呪術と信じているのに比較すると、木花開耶媛の場合も、何か斯うした呪術的の民俗が、神話の成立要因となっていたのではあるまいか。敢て後考を俟つとする。

以上で私の謂うところの第一の祈禱及び呪術による巫女の医療的職務は大体を尽したのである。これから更に第二の薬剤を用いた医療的呪術に就いて述べるとする。

五 供物を薬用とした医療的呪術

我国でも薬の初めが酒であったことは既述した。然も此の酒が、刀自と称する巫女によって造られることは〔六〕、又た我国における古き習俗であった。神楽の「酒殿歌」に『酒どのは今朝はな掃きそうれりめの、裳ひき裾ひき今朝は掃きてき』とあるのは、その徴証である〔七〕。而して古代の造酒法は、即ち噛み酒であって、その噛む役は、主として女性がそれに当っていたのである。「大隅国風土記」逸文に、

一家水米を設け、村に告げめぐらせば、男女一所に集りて、米を噛みて酒糟へ吐き入て、ちりぢりに帰りぬ。酒香いでくる時、又集りて、噛みて吐き入れし者ども是を飲むを、名づけてくち噛みの酒と云う(大岡山書店本)。

とあるのは、よく古代の造酒法を伝えたものであって、琉球の各地方では、近年まで神に供える酒だけは、村内の処女(経水の無い者に限る)が集って噛んで造ったものである〔八〕。更に琉球では酒のことを「おくすり」と云っているが、これは即ち薬の意で、別に「むしやく」と称するのは、噛むの意であると伝えられている〔九〕。是等に由るも酒が巫女の手で作られ、専ら薬として用いられた事が知られるのである。「万葉集」に『味酒ウマザケの三輪のハフリが斎ふ杉、手触れし罪か君に逢い難き』とある短歌を始めとして、三輪の冠辞に味酒の語を撰んだのは、三輪を酒の実湧ミワく(噛んだ米が唾液中の酸素と化合して、沸々としてくこと)に思い寄せたものではあるが〔一〇〕、然もその米を噛んで酒を造ったものは、三輪社に仕えた巫女の仕事であった。

ただ此の場合に考えて見なければならぬ問題は、古代にあっては、神を祭るとき以外には、殆んど絶対的に酒を飲むことを許されていなかったということである。それは恰も、種族を異にし、民俗を別にしているアイヌでは、現在でも酒を飲むときは、如何なる場合でも、先ず神飲カムイノミと称する儀式をして、神に供えたお流れを頂戴するという信仰の下に飲酒するのを常礼としているが、我が古代人の酒に対する信仰も、又これと相択ばざるものが存していたのである。「仲哀記」に神功皇后が皇太子誉田別のために『ち酒をみて献らしき』とある待ち酒は〔一一〕、まちの語に祭ることと、占うこととの二義が含まれていて〔一二〕、酒を飲むことは、神を祭る場合に限られていたことを示唆しているのである。而して後世の記録ではあるが、延喜の「玄蕃寮式」に『凡新羅客入朝者、給神酒』と載せ、更に此の神酒の材料となるべき稲は、大和国の賀茂意富、纏向倭文、河内国の恩智、和泉国の安那志、摂津国の住道、伊佐見等の各神社より出させて是れを住道社に送り、別に大和国片岡、摂津国広田、生田、長田などの神社より出せるものは生田社に送り。共にその社の神部をして造らしめたとあるのも、又この間の消息が推知されるのである。

而して、かく酒なるものが重く扱われていたのは、その酔心地が神の作用によるものと信じていたに原因することは言うまでもないが、更に此の酒が薬剤として用いられたのは、神に供物として献げた余瀝を飲むために、一段と効験があると考えたからである。誰でも知っていることではあるが、奈良の正倉院に砂糖若干が秘蔵されている。これは奈良時代にあっては、砂糖は貴重品であったと同時に、又た大切なる薬剤なのであった。今日でこそ砂糖は苦もなく手に入れることが出来るけれども、僅に二百四五十年前の江戸期の初葉までは、甘味といえば、甘草の煎じ汁か、柿の甘みより外には無かったことを知れば、一千余年を隔てた奈良時代の砂糖の尊さが、想いやられるのである。薬用としての酒も、又この事由と同じものと見るべきである。

後世になると、神に供えた総ての物が、医療的呪術を有するように考えられているが、古代においては、その供物が果して如何なるものであったかが判然しないので、それを明確にすることが困難なのである。勿論、祝詞を見ると海の物、山の物、野の物などが供えられているが、これは単なる供物ではなくして、寧ろ神に対する礼代ヰヤジリと思われるので、茲には姑らく省略に従うとした。

六 薬剤を用いた医療的呪術

諾尊が黄泉軍に追われ、桃を投げて撃退したとき、

桃子に告りたまはく、汝吾を助けしがごと、葦原中津国に有らゆる現しき青人草の、苦き瀬に落ちて、苦しまむ時に助けてよと告りたまひて、意富加牟豆美命といふ名を賜ひき。

と「古事記」に載せてあるが、桃に避邪治病の効験ありとしたのは、支那の思想であって、諾尊の此の記事が「古事記」の編纂された折に追記されたものと思われるので、従って純粋なる我国の信仰とは考えられぬ。

これに較べると、同じ「古事記」に、大国主命が稲羽の兎の傷けるを憐み、

急くこの水門に往きて、水もて汝が身を洗ひて、即ちその水門のカマハナを取りて、敷き散して、その上にい転びてば、汝が身本の膚のごと、必ずえなむ。

と教えしものこそ、却って我が古代の民間療法をそのまま伝えたものと信じたいのである。更に此の大国主命が、兄弟の八十神たちのために伯耆の手間の山本にて遭難せることを「古事記」に、

大穴牟遅神(中略)、その石に焼き著かえて死せたまひき。こゝにその御祖命哭き患ひて、天にまゐ上りて、神産巣日之命に請したまふ時に、乃ち𧏛貝キサガヒ比売と蛤貝ウムキガヒ比売とを遣せて、作り活さしめたまふ。かれ𧏛貝比売きさげ集めて、蛤貝比売水を持ちて、オモの乳汁と塗りしかば、麗しき壮夫になりて、出で遊行あるきき。

と記したのも〔一三〕、また我が古俗の治療法であったと信ずべきである。而して蛤が永く薬剤として用いられたことは、「色葉字類抄」に此の字をクスと訓ませたのでも知られるのである。

こうして動植物を薬用としたことは猶お此の外にも相当に存している。何の事か私にもよく判然せぬが、「諏訪大明神絵詞」巻下の、十二月二十四日神長官がしんふくらを祭る折に唱うる詞に、

陸奥国せんせんつかふしのひとり姫御前、腹をやませ給ふに(中略)、東山信濃諏訪郡武居の御里に、いこもらおはします大明神の御室中にある、しんふくらと云鳥を御薬につかはせ給はゞ、御腹なほらせ給ふべし。

とあるのは、察するに諏訪社に伝えた鳥薬と思われるのである。後世の書物(延喜頃のものか)ではあるが、「本草和名」を見ると、左の記事がある。

石斛 一名林蘭(中略)。 石斛者山精云々。 和名須久奈比古乃久須禰、一名以波久須利。

是によれば、石斛を少名彦命の遺方として薬用としたことが窺われ、更に同書には、此の外に幾多の呪術から出発した民間療法薬を載せている〔一四〕。而して「医疾令」によれば、医師の外に、呪禁師と呪博士とがあって、古き医呪同根の面影を残し、未見の書ではあるが、伴信友翁の「方術原論」に引用された「医心方」には、一剤毎に一首の呪歌が添えてあるといえば、これも呪術が医薬の先駆をなしたことを示しているのである。そして是等の施術者が巫女であったことは言うまでもなく、然も永い間を——医術と呪術とが全く分離した後までも〔一五〕、此の事に関係を有していたのである。

〔註一〕
清野氏等の報告によると、穿顱頭蓋は、広島、岡山、愛知の三県から発掘され、男女の遺骨ともあるとの事である。
〔註二〕
御玉緒糸は「深山御記」に御玉結糸は「宮主秘事口伝」にあると、伴翁の「鎮魂伝」に載せてある。
〔註三〕
「天武紀」の招魂が、鎮魂と同じものであることは既述を経た。そして此の事が天武帝の不予のために行われたことは此の翌年に崩御されたことからも拝察されると伴翁も「鎮魂伝」において述べている。
〔註四〕
葬儀に、弓を携えて往く民俗は各地に在るが、殊に奇抜なのは、土佐群書類従本「豊永郷葬事略記」にあるものである。即ち同国長岡郡豊永郷では、死人があると、弓持と称する者、竹の弓矢を携えて、棺の後に附添うて往き、墓穴に棺を納めるとき、弓持は棺を覆いし衣物を、弓の先にて取り退け、穴の内に納め、それより弓持は直ちに喪家に立帰り、大音にて「宿かり申そう」と言えば、留守居の者内より「三日跡に人質を取られて宿かすことは出来申さぬ」と答えると、又弓持「然らば艮鬼門の方へ世直り中直りの弓を引く」と云いつつ、矢を番いて、家の棟を射越し、弓も踏み折り、投げ越すとある。更に「年中故事」巻三に肥後米良山の「栃木県河内郡豊郷村郷土誌」に同村の、共に弓を携えて葬礼に行くことが載せてある。
〔註五〕
神話と民俗との関係に就いては、前にも一度記したことがあるも、これは神話に在る事実が先に行われて、後に民俗が生じたのでは無くして、既に民俗が存していたのが神話に反映したのであると解すべきである。
〔註六〕
従来、酒を造る者をとうじと云い、これに杜司の字を当てていたので、とうじは支那を学んだものであろうなどと、江戸時代の好事家なる者は気楽な考証をしたものであるが、これは橘守屋が「神楽歌入文」で創説した如く、刀自即ち巫女である。延喜の「神名式」に「造酒司坐神六座(大四座小二座)大宮売神社四座」とあるのも、更に「文徳実録」斉衡三年九月辛亥の条に「造酒司酒甕神従五位下大邑刀自、小邑刀自等、並預春秋祭」とあるなど、咸な古代の巫女が造酒していることを証明しているのである。
猶お刀自を巫女という証拠は、宮中の内侍所に仕える女官を、古くおさい(御斎)うねめ(采女)、とじ(刀自)、めうぶ(命婦)等に区別しているが、是等の女官が古き御巫の末であることは勿論である。
〔註七〕
僧顕昭の「袖中抄」によると、賀茂社のうれりめは酒殿に仕えた造酒の巫女である。猶お各地の名神大社の酒殿の巫女に就いては「民族」第四巻第二号に掲載した拙稿「御左口神考」が、多少とも此の問題に触れているので参照を望む。
〔註八〕
此の事は琉球の古い事を書いた「遺老説伝」等にも見え、又た同地出身の伊波普猷氏からも聴いている。更に同国石垣島の皿浜出身で、横浜高等女学校の教職に在る前泊克子女史の談によると、同地では酒を「んさく」というが、是れも噛み酒の意だということである。
〔註九〕
伊波普猷氏の「古琉球」第□版の附録「混効験集」にある。因に同集は古い同国の辞書である。
〔註一〇〕
碩学南方熊楠氏の談に、大和の三輪が酒の□所として知られたのは、酒を容れる樽材として、三輪杉が理想的であったばかりでなく、更に古く同地の杉の脂から、酒を製したことがあったためではないかとのことであった。附記して参考に資するとする。
〔註一一〕
待ち酒は「万葉集」巻四にも「君が為めかみし待ち酒安の野に、独りや飲まむ友なしにして」とある。
〔註一二〕
祭をマチと云うているところは、今に各地にある。待ち酒のまちは、祭のマチであって、これに待つ人の来るか来ぬかを占う意も含まれていると、折口信夫氏から教えられたことがある。
〔註一三〕
此の一条は、我国における神の復活の信仰を記したものにして見るとき、一段の意義がある。併しそれは姑らく措くとするも、ここに𧏛や蛤を人格と見たのは、その効験から来た事で、古く此の種の貝類や母乳を薬用としたことを暗示していると見るも又た意味が深い。
〔註一四〕
私の見た「本草和名」は「日本古典全集」本であるが、その底本となったのは、解題によると、森枳園の書入れ本である。そして此の書入れを見ても、「医心方」を引いたところがあるが、これ等によると、我が古代に種々な動植物及びその他の庶物まで薬用としたことが窺われるのである。
〔註一五〕
琉球に関する書物を読むと、同地には近年まで「医者ユタ」と称するものがあった。これはユタと称する下級の巫女が医者を兼ねていたので、此の語が生じたのである。更に伊豆七島の事を記した写本類には、八丈、三宅、大島などの島名主は、一人で名主という行政者の外に、神官と医者とを兼ねるのが普通であったと載せている。是等は共に古俗をそのままに保存したものである。