日本巫女史/第二篇/第三章/第六節

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日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第三章 巫女の信仰的生活と性的生活

第六節 采女制度の崩壊と巫女の堕落[編集]

采女の制度は国初期から平安朝まで行われて来たが、藤氏繁葉の放漫政策は、漸く帝室費の窮乏を来たし、その中期以降は、采女の徴募は絶えてしまった。かくて宮中には采女の影は消えてしまったが、一部の国造や神主が、神社用として召募した所謂「神ノ采女」なる者は、猶お依然として残存していた。而して是等の神采女が、初めは神妻であったことは既述したが、平安期になると、その名は旧時のままの神采女であるが、実際は、国司、国造、または神主の婢妾に、成り下がってしまったのである。これは采女ではないが、当時、是等の支配階級に居た者が、一般の女性に対して、如何に乱暴の態度を以て莅んでいたかを証明すべきものが、「催馬楽」の一章に残っている。

挿し櫛は、十まり七つ、ありしかど、武生の椽の、朝にとり、夕さりとり、
取りしかば、挿し櫛もなしや。さきんだちや。

此の歌謡は、越前武生の椽の誅求のために、少女の挿し櫛まで失いしものと説く学者もあるが、私は橘守部説に基き、国司の漁色の亡状に苦しめる少女の叫びと信ずるのである〔一〕。当時の国司は、民衆に対しては、殆ど生殺与奪の権を有していたと同時に、苛斂の限りを尽したものであって〔二〕、万一にも農民において納租を懈るが如きことあれば、その妻や女を拉し来って、伐性の犠牲にすることさえ、珍らしくなかったのである。年貢未進のために、農民が妻や女を売ったことは、夙くも此の頃から行われていたのである。

然るに、多淫にして支配意識に燃えていた彼れ国司、国造等は、神威と権威(彼等は行政官であって神主を兼ねていた)とを笠に被て、濫りに艶容なる女性を召して枕席の塵を払わせた。弊涜の極まるところ、遂に延暦十七年十月十七日に、右の如き官符の発せらるるを見るに至った。「類聚三代格」巻一、「神主司神禰宜事」の条に、

    太政官符
    禁出雲国造託神事多娶百姓女子為妾事
右被右大臣(神主)宜偁、奉勅今聞承前国造兼帯神主、新任之日即棄嫡妻、仍多娶百姓女子号神宮采女〔三〕、便娶為妾莫知限極、此是妄託神事遂煽淫風、神道益世豈其然乎、自今以後不得更然、若娶妾供神事不得已者、宜令国司注名密封卜定一女不得多点、如違此制随事科処、筑前宗像神主准此(国史大系本)。

是等野獣の如き国造の人身御供となった神采女が、やがて紅顔褪せ、寵愛衰えた暁に、身の振り方を情海の濁流に任せて、誘う水のまにまに、巫娼と堕ちて往くことは、当時の傾向としては、極めて容易に合点されるのである。而して斯くの如き事実は、決して出雲国造や、宗像神主だけにとどまらず、他にも多く在ったものと見るべく、偶々、官符に現われたのが、此の二者であったと見るべきである。従って斯うした生活を余儀なくされた巫女の堕落は、時勢の降ると共に、益々その速度を早めたのである。既記の如く、天長年間に編纂された「和名抄」に、巫女は遊女と同視されて、乞盗部に載せられるまでに軽蔑されるようになったが、更に乞盗とは、乞食と盗賊との一字づつを採った熟語であることを知れば、如何に巫女の社会的地位が低下したかが察しられるのである。されば、当時にあっては姓氏に巫部を称することさえ忌み嫌って、これが改姓を朝廷に訴える者が続出する有様であった。その顛末を簡単に述べれば、「新撰姓氏録」和泉国神別の条に、

巫部連カムナギベノムラジ、雄略天皇、御体不予、因茲召上筑紫豊国奇巫、今真椋大連率巫仕奉、仍賜姓巫部連。

此の記事によれば、雄略帝の不予に際し、遠く九州から巫女を伴いし者が、その偉功によって此姓を賜り、然もそれは家門の名誉として、永久に誇るべき事柄であるのに、此の事あってから約三百五十年を経た巫部連の子孫は、かかる姓を冒していることは、却って不名誉なりとして、改姓のことを朝廷に訴えて允許を得た。即ち「続日本後紀」仁明帝の条に、左の如く載せてある。

承和十二年秋七月巳未、右京人中務少録正五位下巫部宿禰公成、大和国山辺郡人散位従六位下巫部宿禰諸成、和泉国大島郡正六位上巫部連継麿、従七位下巫部連継足、白丁巫部連吉継等、賜姓当世宿禰、公成等者神饒速日速命苗裔也、昔属大長谷幼武天皇{○雄/略帝}公成等始祖真椋大連奏、迎筑紫之奇巫、奉救御病之膏盲、天皇寵之賜姓巫部、後世疑謂巫覡之種、故今申改之(国史大系本)。

先祖はこれを無上の光栄とし、子孫は敢て進んで不名誉という。同じかるべき巫部の姓が斯く変遷したことは、とりも直さず、巫女その者の変遷である。雄略紀には、巫女の威望が高く、君側に仕えて御悩の平癒を祈ったものが、代を替え時を経るに随って、次第に声価が下落して来て、巫女の関係といわれる事は、大なる恥辱となってしまったのである。而して此の変遷と、下落とは、巫女の徒が、全く娼婦と化し去った為に外ならぬのである。「続日本紀」天平勝宝四年五月の条に『免官奴鎌取、賜巫部宿禰』とあるのは、官奴にせよ奴隷に賜ったものであるから、余り名誉の姓でなかった事が想われる。更に「延喜式」臨時祭の条に『凡御巫取庶女、堪事充之』とあるに至っては、愈々巫女の低下した事が知られるのである。後世においても、巫女は一般社会から嫌悪され、蔑視されていたが、これは平安期のそれとは又た事情を異にしている所があるので、第三篇において改めて記述する考えである。

〔註一〕
「催馬楽譜入文」(橘守部全集本)巻中。
〔註二〕
「今昔物語」に、信濃の国司が谷へ落ち、その序に箪を採り「国司は転んだら土でも掴め」と云う警句を吐いた有名な事件が載せてある。当時の農民は、全くの搾取機関としてのみ生活を許され、国司は誅求を以て総ての職務だと心得ていた。永祚年中に、尾張国司藤原元命が余りに苛誅に過ぎ、農民より三十余ヶ条の非政を挙げられて弾劾されたことは、これ又た有名な事件であるが、然し当時の国守にあっては、その大半までが、悉く元命の亜流と見て差支なかったのである。
〔註三〕
古代における百姓の意義は、後世のそれの如く決して農民だけを指しているのではなく、貴姓にあらざる者を広く意味していたのである。改めて言うほどの事もないのであるが敢て附記した。