日本巫女史/第二篇/第三章/第七節

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日本巫女史

第二篇 習合呪法時代

第三章 巫女の信仰的生活と性的生活

第七節 女系相続制と巫女堕落の関係

平安期を境界線として、巫女の堕落が殊に著しくなったのは、勿論、幾多の原因が在って存したことは言うまでもない。想い出すままを数えて見ても、(一)時勢と環境とが淫蕩靡爛であったこと、(二)彼等に対する信仰が全く衰えたこと、(三)給分を失い、収入の減損したことが、重なるものであるが、他に併せ考うべきことは、(四)巫女は原則として女系相続制度を強いられていたことも、又た大なる原因であると見るべきである。

元来、巫女が好んで独身生活を送ったことは、屡記の如く「神に占められた」古き信仰を墨守した為であるが、此の結果として当然、二つの事象が随伴していたのである。即ち第一は、独身なるがゆえに(後世になると神妻とも成り得られぬため)実子のあるべき筈がないので、その遺跡は、自分の兄弟の子(それは必ず姪に限られていた)に譲った女系相続制度であって、第二は、巫女の行う呪術は択まれた女性以外には相伝することの出来ぬものであって、且つ此の継承者は、自分の血統に属する者に限るという——一種の血液の迷信に囚われていたのである。大和の葛城山麓の、前鬼・後鬼の家は、修験道の開祖といわれる役小角が初めて峯入りした折に、これを助けた所謂「鬼筋」として有名の子孫であるが、この家などでも、血筋の混濁するのを恐れて、幾十代となく、血族結婚のみを(後世になると却って一般人から通婚を忌まれ、拠ろなく血族結婚をしたのである)続けていたが、近世になり他氏族の血液を加えてから、祖先に比して、飛行・隠形等の呪術が衰えたと云うていた〔一〕。而して此の心理状態は、等しく神に仕え、呪術を生命とした巫女にあっても、全く同一であらねばならぬのである。血液を濁すまい、呪術を堕すまいとの志願から、古き信仰に引きずられて、女系制度を厳守して来たのである。然るに、平安期になって、此の制度が漸く崩壊を見るようになった。「朝野群載」巻九に左の如き文書が載せてある。

  丹後国司解 申請 官裁事
    請被殊蒙官裁依采女従五位下丹波勝子辞譲姪同姓徳子補任采女職状
右得勝子解状偁、謹検案内、去天慶七年被補当職、従事之後、未闕職掌、依其労効、安和二年初預栄爵、永延元年更叙内階、計其年労、三十五個年于今遺命不幾、且暮難期、方今以所帯職、譲与同姓姪之例、継踵不絶、近則紀伊国采女寛子、譲於同安子、備前国采女壬生平子、譲於同貞子等是也、以往之例、不可勝計者、国加覆審、所申有実、仍言上如件、望請、官裁以件徳子、被替神采女職、将令勤譜第之業、仍録事状謹言
 永祚二年二月二十三日 正六位上行□□(紙魚不明、以下同じ)坂上□□(史籍集覧本)。

此の国司解を仔細に検討すると〔二〕、巫女(神采女とあるが、その実質の同じものである事は既述した)が、その職を姪に譲るに、他の類例を挙げて、証左とするところは、既に此の制度の崩壊期にあることを物語るものである。何となれば、若し従来の如く姪に譲ることが当然であったとすれば、別段に他の類例などを挙げる必要がないからである。而して世襲の職務と給分とを有する神采女までが、斯くの如き地位に置かれたのは、一般の神社に奉仕する巫女が堕落したので〔三〕、官憲としては出来るだけこれを取締り、併せて女系制度を廃止する計画が存していたのであろう。さなぎだに艶聞の伴いやすい巫女にあって、殊にそれが女系制度のために、人道に反した独身生活を強いられては、耳に余り眼を掩うような醜態が頻出したであろうから、官憲は彼等の信仰が落ち、神事の形式も漸く女子の手を離れて男子に移ろうとした変革期を機会に、此の不自然な制度を根絶せんために、特に厳重に相続を監督したのであろう。前に記した京都の桂女が古くから女系相続を固守して明治期まで伝え〔四〕、更に紀伊国海草郡加太町の淡嶋神社の祠官前田氏が、同じく女系のみで相続したとあるのは〔五〕、共に特別なる事例であると言わねばならぬ。

併しながら、巫女の独身生活は、極めて形式的ではあったが、その後とても続けられていたのである。世が変っても、巫女は神と結婚すべきもの、常人の男を良人としたのでは信仰に反くものであるという潜在意識は代々相続されて来て、内縁の夫は持ちながらも、猶お表面だけは、独身を装うことを忘れなかった。畏き事ではあるが「古事談」第一に『前斎院、斎院は、人の妻となっても、無子息』とあるのも、蓋し此事を言うたのではあるまいか。而して単に良人を持たぬばかりでなく、稀には親子の縁まで切って巫女に出る習わしさえあった。「和歌童蒙抄」巻二塩竃の条に左の如き記事がある。

   ミチノク陸奥チカ千賀シホガマ塩竃チカナガラ、カラキハキミハヌナリケリ
ミチノク陸奥カミシホガマ塩竃ノ明神ニチカヒ申コトアリテ、ヒトリムスメ独女ヲヰテマヰリテ、カノ神ノ宝殿ノウチオシイ押入レテカヘリケリ、ムスメカナシビテ、神殿ヨリサシイデタリ、チチコレヲケルニ、心マドヒニケリ、ソレヨリコノ神ノ命婦(中山曰。巫女の意)ハ、ミヤヅカサ宮司ノカザムカキリハ、オヤコタガ親子互ヒニユマジトチカヘリ、年ニヒトタビ一度マツリナラヌカギリハ、ヒトアヒミ合見エズ、件ノムスメノ子孫イマツギテ、ソノ命婦タリ(中山曰。傍訓の漢字は私に加えたもの)。

如何にも簡古の記述ではあるが、これによって、巫女は親子の俗縁を断って神に仕え、併も神に占められて子孫を挙げることを如実に伝えている。筆路が多少脱線するが、「源平盛衰記」巻十一金剛力士兄弟事の条、静憲法印熊野参詣の次に、

皆石皆鶴兄弟を請出て見参し(中略)、此児童兄弟はいかなる人ぞと尋給えば、祐金答申て云、母にて侍し者は、夕霧ユウギリイタ(中山曰。熊野で巫女をイタと称したとは、奥州のイタコと対照して関心すべきことである)とて山上無双の御子ミコ、一生不犯の女にて候し程に、不知者夜々通事有て、儲けたる子どもとぞ申侍し、其御子ミコ離山して今は行方を不知とぞ申す。

とあるのは、神を夫とする信仰の残れるを証示すると同時に、寔に畏きことながら、古き百襲媛の故事まで想い出され、更に「処女受胎」の古俗が偲ばれるのである。

斯うした生活は、近世まで続けられていて、琉球では巫女ノロは原則として亭主を持つことが出来ず、内地にても内縁関係以上にすすむことは憚っていた。「新編常陸国志」巻十二に、大略次の如くある。

近き世までも神主を宮市子と云ひて、女子の勤めしがままありしなり。夫はあれど奴僕の如し。然るに近き頃に至り、夫たる者吉田家の仮官など授かりて、自ら主人の如くなれり。当地辺にも此類まま有るなり。当国の内さるべき神社には、大市小市又は市子と呼ばれて、祭事に預る婦女あり。又神主をも、市とも市子とも云ふ村々あり。これは女の名いつと無く男子の方に移れるなるべし云々。

更に柳田国男先生の記すところによれば、

近頃、越前のテテと称する、或神官の家の系図を見たが、十数代の間婦女から婦女に相続の朱線を引き、夫の名は女の右に傍註してあった。処女の間ばかり神職を勤めたものならば、直系で続く筈が無いから、これは疑いも無く不処女になっても神子をして居たのである云々〔六〕。

巫女の性生活も又た幾多の変遷を経て、以て堕落期に到達したのであるが、此の問題こそ巫女自身にとっても、更に巫女史にとっても、一番複雑していて、然も一番困難な問題なのである。

巫女が娼婦と化した事象に就いては、猶お熊野比丘尼及び此の後身なる売り比丘尼のことを記さねばならぬが、それを言う以前に一言して置くべきことがある。それは外でもなく、古代から平安朝の末頃までは、遊女というものの社会的地位は、必ずしも後世の如く低劣ではなかったという一事である。勿論、いつの時代でも高下のあることは言うまでもないが、平安朝までは高級の遊女は畏くも宮中にも召され、又た仙洞にも聘せられ、更に金枝玉葉の身近く招かれた例さえ、史上に少からず存しているのである。而してかく遊女が社会から卑められなかった理由は、ここに詳細を尽すことは埒外に出るので、省筆するのが当然と考えるので〔七〕、これ以上は何事も言わぬとするが、此の理由は、或る程度までは、巫女から出た巫娼の上にも適用されることであって、後代の成心を以て当代を推すには、そこに相当の手心を要することが必要なのである。

〔註一〕
享保頃に書かれた「諸州採薬記」に拠る。猶お「大阪毎日新聞」(大正四年七月廿四日)によると、大和国吉野郡天川村大字洞川が後鬼のいた所で、同郡下北山村大字前鬼が前鬼の住んだ所で、極端なる血族結婚の事情が載せてある。又「紀伊続風土記」巻三十三には、前鬼より分れたる子孫が、同国那賀郡粉河町大字中津川に居住し、同じく家族相婚した事が記してある。
〔註二〕
これと同じ国司解が「類聚三代格」にも載せてある。更に物忌(巫女と同じ)の補任に就いては「類聚符宜抄」巻一「太政官符神祇官」の条に左の如きものがある。
  応補坐河内国平岡神社物忌大中臣時于事
右得官去正月十三日解称、彼社物忌大中臣吉子、長体之替撰定件時子、言上如件、望請官裁、彼補物忌、将会勤職掌者、中納言従三位兼行左衛門督源朝臣高明宣、依請者、官宣承知依宣行之、符到奉行、
  防鴨河使位 右大史位
 天暦六年五月十一日
初めは本文に採録する考えでいたが、余りに同じようなものと思うたので略し、ここに参考までに附載した。
〔註三〕
巫女の堕落には、制度とか環境とか云う以外に、巫女の内的衝動から来るものが多いことも注意せねばならぬ。前に挙げた平田篤胤翁が「古今妖魅考」三巻に集めた比丘尼の性的苦悩の事情は、当然、巫女の身の上であらねばならぬ。茲には詳細を尽すことが出来ぬが、特に此の種の問題に興味を有さるるお方は、同書に就いて知られたい。
〔註四〕
桂女が時勢の推移に頓着せず、古きままの女系相続を墨守したために、思わぬ悲劇まで惹起したことがある。詳細は前掲の柳田国男先生の「桂女由来記」に載せてある。
〔註五〕
「和歌山県海草郡誌」。
〔註六〕
「郷土研究」第一巻第十号。
〔註七〕
是等の事情に就いては、拙著「売笑三千年史」に詳記して置いた。参照がねがわれると仕合せである。