日本巫女史/巻頭小言

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日本巫女史

巻頭小言[編集]

実を言えば「日本巫女史」の著述は、私には荷が勝ち過ぎていた。私は長い間を油断なく材料を集めて来て、もう大丈夫だろうと思うて、今春から起稿したが、さて実際に当って見ると、あれも足らぬ、これも足らぬと云う有様で、自分ながらも、その軽率に臍を噬む次第であった。

それに私の悪い癖は、研究の対象を何年でも育てている事が出来ぬ点である。常に発表にのみ急がれて、その研究を練る事が出来ぬ点である。之は学者としては此上もない欠点であって、私は自分ながら学者の素質すら有していぬ者だと考えている。

併し、十年越しの宿痾である糖尿病が一進一退している上に、前後二十二年間の記者生活に労れた身の神経の衰弱は、私をして常に余命の長くない事を考えさせるのである。こうした事情は今のうちにウンと書いて置け、良いとか悪いとか云う事は別問題だ、先ず書く事が第一だと、巧遅よりも拙速を択ばせずには措かぬのであった。こんな慌しい気分に追い懸けられながら筆を執る。資料の整理も字句の洗練も思うに任せぬのである。

殊に本年は気象台創設以来三回目という暑熱で、実に応えた。私は前々年に「売笑三千年史」を、前年に「日本結婚史」を、本年は「日本巫女史」をと、三年続けて小著の執筆は、常に盛夏の交であったが、本年の暑気には遂に兜を脱がざるを得なかった。陋屋でペンを執っていると、流汗雨の如くで、強情にも我慢にも書き続ける事が出来ぬのである。加之、私の学問の力に余る難解な問題が続出する。私はすっかり悲観して了って、これは筆を折って出直すより外に致し方がないと、観念の眼を閉ずるに至ったのである。

然るに、その観念の眼の底に映ったのは亡妹の世に在りしときの幼い姿であった。私が明治三十年一月七日(私が特に此の日を選んだのは、父が崇拝した平田篤胤翁が此の日に郷関を辞して江戸に出たもので、昔から此の日に村を出る者は、再び家に帰えらぬという俗信があると父から聴いていたので、新旧の相違こそあれ、私も此の日に村を離れた)に、所謂、志を立てて上京する際に、一番頭を悩した問題は、当年九歳になる季妹梅子の身の処置であった。私は三男に生れ、他家を興したにも拘らず、父が働き残してくれた遺産のうちから、現在の金に換算すれば、約五万円ほどの分前を貰ったので、学資に事欠く憂いはなかったが、五歳にして父を失い、七歳にして母に別れた季妹は、数年間家を外に放浪生活を送っていて、馴染の薄い私が家に帰ったのを、子供心にも頼りとして、兄として仰がねばならぬ気持を察してやると、涙もろい私には可愛くもあり、且つ臨終まで「梅が梅が」と妹の身の上を案じて死んだ母の心根を思うと此の妹だけは私が養育して、不幸を重ねた両親への追孝を尽さなければならぬと考えざるを得なかった。そこで私は、妹の戸籍を私の方へ移し養女とした。——私は此の季妹を家に残して上京することになったのである。

当時、私の一番上の姉婿が、私の生家の留守居をしてくれる事となり、それに本家を相続した弟——即ち季妹の小兄も附近に居るし、大字こそ違うが同村内に二人の兄もいるし、其他に親族や故旧も沢山あるので、相談の結果、姉婿の許に季妹を託す事として私は単身で上京した。

季妹は夙く両親に先立たれる程の薄倖の者であっただけに、健康も恵まれていず、いずれかと云えば、蒲柳の質であった。それに子供心にも両親に別れ、更に兄である私とも離れなければならぬこととなり、兄婿とは云え兎に角に多少の気苦労をせねばならぬ境遇に置かれ、それやこれやで小さき心身を痛めたものか、間もなく不治の病気に襲われた。

私は学窓に居て此の通知に接したので、学業の閑を偸んでは帰郷し、療養の方法を尽し、慰めもし、看護もしたが、遂に明治三十二年の徂く春と共に、私の膝に抱かれたまま「兄やん、兄やん」と私の名を呼ばりながら帰らぬ旅へ赴いてしまった。私は亡くなった両親が、私が妹を愛することの足らぬのを草葉の陰から見て、自分達の手許へ迎えたもののように考えられ、自責の念と骨肉の愛とで、かなり苦しめられたものである。私は、私の学問の為に季妹を殺してしまったのであると考えざるを得ぬのである。

爾来、燕雁去来ここに三十年、季妹の小さき石碑は苔の花に蒸されて「碧雲童女」の法名さえ読みわかぬ迄になって了ったが、妹の姿は常に私の眼底に残っていて、私の下手な横好きの学問の為に犠牲となった事を憶い出すと、いつでも「可愛そうな事をした、誠に済まぬ事をした」と双頬を伝り流るる涙をどうする事も出来なかった。私は此の巻頭小言を書くにも、眼頭から熱いものが、紙の上に落ちるのを止める事が出来ぬのである。

巫女史の執筆が思うように運ばぬ折に、此の妹の事を追懐した私は「私の学問のために死んでくれた妹の為に本書を完成し、そして霊前へ手向けてやろう、これこそ妹を追善する唯一の方法である」と考えつくと、今度はそれに勇気づけられたか、暑熱も忘れ、難問も苦にならず、殆んど筆も乾かず一万言、ペンに亡妹の霊が乗り移ったのか躍るように奔って行く。斯うして書きあげたのが即ち本書である。不出来であろうが、不詮索であろうが、私としては是れまでの著述のうちで、一番努力を尽したものであると同時に、一番、思い出の深い執筆である。私情を巻頭に記すのは慎まねばならぬが、私としては本書の完成が、この私情に負うことの大なるため、実に止むを得ぬことと諒察を乞う次第である。

此の小著を出すために恩師柳田国男先生始め、先学同好の方々の深い学恩に対して、衷心からの感謝と敬意とを捧げるものである。殊に大橋図書館の大藤時彦氏が劇務の傍ら私のために諸書を渉猟して、貴重なる史料を提供してくれた厚誼に対しては、格別の恩義を感じた。鳴謝に堪えぬ次第である。

最後に一言附記せねばならぬ事がある。私は従来著述に故人の名を引用する場合に、一切の敬称を廃して、悉く呼び棄てにした。然るに私の父は、平田翁を狂的に崇拝し、これを神に祭って朝夕奉仕していた。その子である私が学問のためとは云え呼び棄てにするのは非道だと、郷里の者から忠告された。それで故人に対しては翁と云うこととした。私も案外気が弱くなったものだと思わざるを得ぬのである。これを以て自序に代える。

昭和四年八月二十日 Z伯号帝都訪問の日
           本郷弓街の書屋に於て

                     中山太郎 識