日本巫女史/第一篇/第八章/第六節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第八章 物質文化に於ける巫女の職務

第六節 航海の守護者としての巫女[編集]

「魏志」の倭人伝の一節に、

其行来渡海詣中国、恒使一人、不梳頭、不去蟻蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰云々。

とある。此の持衰と称する者の民俗学的研究は、相当に興味の多い問題ではあるが、それは茲には預るとして、此の記事の『不近婦人』とは、船中に居る婦人を近づけぬという意味か、それとも陸上に在っても婦人を遠ざけるほどに慎んでいるのかに就いて異説がある〔一〕。併し、その異説も、直接本問には交渉するところが尠いので、深く言うことを避けるが、ただ我が古代の遠洋航海の船中に、婦人が乗組んでいたことだけは、明白なる事実である。倭武尊のヲウナメであった橘媛が、走水ノ海を渡るとき入水されたことは、有力に此のことを証示している。更に前に挙げた「欽明紀」にある河辺臣瓊缶が婦甘美媛を、調吉士伊企儺が妻子葉子を、共に帯同して渡韓せることも、此の事実の存在を物語っているのである。迥かに後世の記録ではあるが、紀貫之の「土佐日記」などを見ても、女性が同船していたことは疑うべくもない。

それでは、此の女性は、既述した如く単なる御陣女臈としての任務に服すだけであったかというに、その条でも言った如く、実際は巫女の聖職に遵い、航海の安全を守護すべき大役が負わされていたのである。我国でも、後世になると、血忌みの信仰から、女性を穢れた者として、乗船を拒んだり、又は乗客の数の奇偶によって吉凶を云うような習俗を生むようになったが〔二〕、古代にあっては、此の反対に、遠路の航海には、必ず女性を同船させる慣習となっていたようである。而して此の事を間接的にも示唆しているものは、(一)焼火明神の由来、(二)各地の御船の神事に巫女が主役を勤めること、(三)俚俗に船霊と称する信仰の民俗がそれである。私はこれに就いて記述したいと思う。

一 焼火明神の由来と巫女

我国の各地にある龍燈ノ松の正体は、柳田国男先生によって、燈台の代用として、火を焚きしことが伝説化されたものと判然した〔三〕。更に航海中暴風雨に遇い、難船を免がるるために神に祈り、空中に火光を認めて救われた物語は、聖火セントエルナ系の説話として、世界的に分布されていることも判然した〔四〕。既に此の二つの問題が解決されている以上は、隠岐国知夫郡黒木村大字美田に鎮座する焼火神社(祭神は神名帳にある比奈麻治比売命)の由来も、簡単に説明することが出来るのである。而して茲に先ず焼火の神名を負える事由を載せ、その後に祭神の正体を突き留めたいと思う。即ち「類聚国史」巻十延喜十八年五月丙辰の条に、

前遣渤海使外従五位下内蔵宿禰賀茂麻呂等、言帰郷之日、海中夜暗東西掣曳不識所著、于時遠有火光、尋逐其光、忽到島浜訪之(中略)。或云比奈麻治比売神常有霊験、商売之輩漂宕海中必揚火光、頼之得全者不可勝数、神之祐助良可嘉報、伏望奉預幣例、許之。

と載せてあり、更に「諸社一覧」第七に、

此社を離火タクヒ社と称し奉る事、往還の船、闇夜の比悪風にあひ、或は潮に蕩ふに、船人身を清めて、此神社の方に向ひて離火を祈念すれば、忽然と火起て大なる炬火の如くなり、其時東西をわきまへ、船を直して岸に着ることを得るなり、誠に奇異の神功なり(続々群書類従本)。

とあるので、神名の由来は明瞭となった。然らば此の神火は何物かと云うに、これは「神名帳考証」四十四に『此地辺号大山腰、此山上焼火之神歟』とあるように、日本海に臨める山上で、火を焚いて灯台の代用をしたもので〔五〕然も古く此の焼火の役を勤めたものが即ち比奈麻治比売命と呼ばれた巫女なのである。猶お知夫の郡名も、僧顕昭の「袖中抄」によれば、知夫利ノ神——即ち海中の道振の神に由るものである。

二 御船の神事と巫女

紀州熊野社の諸手船に乗る女裝の航海者(民俗芸術)創刊号所載

神社の恒例となっている御船の神事に、巫女が中心となって祭儀を行う習礼は夥しきまで存しているが、茲には重なるもの二三だけを挙げ、以て古代における巫女が航海の守護者であったことを証明する。而して是れが代表的とも思わるるものは、紀伊国新宮町の熊野速玉神社に行われるハリハリ踊の神事である。此の祭は、毎年十月の十五日を宵宮とし、翌十六日を本祭とするが、その十六日に神霊を龍頭鷁首の朱塗船(国宝)に遷して、熊野川を溯航し、河心の御舟島という小島を巡幸する儀式あり、此の神船を曳航するのが有名な熊野の諸手船である。此の船は、大昔から同国南牟婁郡鵜殿村の廻船組合から出すことになっていて、然も諸手船は赤い衣服に赤い頭巾を被った老媼に扮した男子(挿入の写真参照)が操るのであるが、その際に、女装の者が一本の櫂を持って船を漕ぐような舞踏をなし、船中に居る他の二十余人は囃し詞を合唱する〔六〕。そして此の女装の者が、古く巫女であったことは言うまでもない。斯うして一方においては神霊に祈って加護を仰ぎ、一方においては舞踏して水手の勇気を励ましたのである。

安芸の厳島神社の延年祭は、昔は七月十四日の夜に執行された。地盤(船型)と称する台の中に、三尺余の人形を装束美しく飾り、人形の頭は例年七月二日に座主が拵える。台の四方には、梅松桜などを造り、幣を切りかける。薄幕に社役が鳴らす鐘を合図に、東町西町両方より男子皆裸体散髪にて鬨ノ声を挙げ、我れ先にと釣り上げたる地盤の下に集り、伶官の曲が終ると地盤を下ろす。裸体の者、争って彼の人形を取らんとて、大混雑を極む。人形の首を取ると式を終るが、此の首を取った者は福があると云っている〔七〕。此の神事は他にも類例の多い年占の一種と見るまでに民俗化されてしまったが、それでもその船型した地盤に飾られる人形が、巫女(厳島社ではこれを内侍と云いし事は既述した)の面影を残していることが偲ばれる。恐らく古い時代にあっては、巫女が関与した船祭であったに相違ない。

出雲の美保神社の青柴垣神事は事代主命の故事を伝えたものだけに、祭儀も厳粛を極めている。今に頭人を定めて四月一日から六日夜まで前義を営み、愈々七日の祭日になると朝から神事があり、やがて奏者番が御船が着いたと知らせがあると、猿田彦、鈿女命に扮せる者が船迎に出て、続いて巫女二人(綾笠を被る)が八乙女を従え、編札ササラ、笛等の役向の者も御船に分乗して、古式の巫女舞をする。それが終ると、総員御船より上陸し、初列は編札の田楽舞を先頭に、鼓笛の音につれて、徐々に巫女八乙女が進み、当屋の妻は屈竟の男の背に懸けた負棒モリギを踏まえ、負われながらに参社し、此の外にも種々なる祭儀があって終るのである〔八〕。そして此の神事は頭屋の妻が古代の巫女の名残りを留めているのであろうと思うが、それを言い出すと長文になるのと、且つそれまで言わなくとも、航海と巫女の関係が克明に存しているので、今は略すとした。

三 船霊信仰と巫女

現に我国に行われている船霊フナダマ信仰は、支那において発達した天妃信仰が、かなり濃密に織り込まれているようである〔九〕。それで茲には、出来るだけ我国固有の信仰をたずねて見たのであるが、それでも幾分か、天妃信仰の匂いがするような気がしてならぬ。私の学問の力では、これ以上は及ばぬ所ゆえ、敢て陳呉となって後考を俟つとする。

船霊——即ち船舶を守護する神に就いては、昔から学者の間に異説があるも、よく是等の異説を挙げて考証したものは、高田与清翁の「松屋筆記」巻九に載せた「船霊神記」と思うので、左に摘録し、その後に私見を加えることとする。曰く、

船霊の神は、いづれの神にますと云ふこと定かならず、神名帳に津の国住吉郡船玉神社を載す、これ船玉命とまうす神なりといへど、たしかなる書には見ゆることなし。続日本紀(中山曰。天平宝字七年八月壬午の条)に能登といふ船の船霊に従五位のかうぶりを授けられしよし(中山曰。これは船その者を神格化したのである)あり日本紀の神功皇后の巻には、住吉の和魂往来の船を見んとのりごち給ひ。延喜式の使を唐に遣さるる時の祝詞には、船路の平かならんことを住吉の神に祈るよし見え。万葉集には「墨吉の吾大御神船のへに、うしはきいまし船ともにみたたしまして」と詠みたるなど思ひわたすに、舟の守りの神は住吉の大神にて(中略)神功皇后の御魂をまうすなるべし。また廿二社注式の異本には、豊玉姫を申すとも海童を申すとも見え(中略)甲斐国吉田の神官たち注式の異本の説をむべないて、豊玉姫を船霊の神とし斎きまつること久しく、この祈りのしるしをかうふれるもの多かりとなん。豊玉姫は海神の女にて彦火々出見尊の御妃也。こたびその御かたを画き、余にこと書そへてとこふままに、文政の初めの年十二月朔日(中略)高田与清しるす(以上。国書刊行会本。但し句読点を加え仮名を真字に書き改めたところがある)。

これに拠ると、与清翁自身は、船霊神とは住吉三社に神后の御魂を添えたるものと信じているのであるが、依頼せる者は豊玉姫の御姿を画いて持参したので、姑らく此の姫を船霊神としたという結論に達するのである。かく船霊神は大昔から一定せぬ上に、仏家では「元亨釈書」にある如く、華厳経の守夜神を船神とし、叡山では新羅明神が僧最澄の船を守護したので、これを船ノ神となし。更に俗神道家は猿田彦命を船霊と称し、これに加うるに支那の道家の天妃が持ち込まれたのであるから、その混雑は一通りや二通りでは無いのである。併しながら、此の混雑中にも、やや一貫している信仰は、豊玉姫と云い、神后と云い、畏きことながら、兎に角に女性がその中心となっていることは関心すべき点である。

「松屋筆記」巻六九に引用せる「船長日記」巻上に、

船玉とは船のぬし也、帆柱を立る筒の下に納め置くこと也、神雛一対、その船主の妻の髪毛少し、双六の賽二(原註。サイノ目の置方あり)此三品を納め置くを船玉といふ也。

と記し。更に同書の他の一節とて同巻に引用せるものには、

紙鬮を以て大神宮の神勅を伺て事を図る也、此の紙鬮といふは、一升桝に米八合ほど入れ、紙を一寸四方に切て思ふ事を書付け、丸めて其上に置き、扨大神宮を念じて一万度の御祓を其上にかざさば、丸めたる紙の中一つ飛びあがりて御祓へ付也。それを見て知る事也、此の御告はいささかも違ふ事なし。されば日本の船頭は、大神宮の神託のみにて、船を乗り侍る也。

とあるのは〔一〇〕、これ又畏きことながら、大神宮が女性であらせられるために、こうした信仰が生れたものと察しられるのである。而して更に一段と想いを潜めるとき、かく女性である神々が船を守護し、延いて船霊とまで崇拝されるようになった根本的の理由は、古く巫女が船に乗っていたことを示唆したものと考えるのである〔一一〕。

船霊の象徴である賽の置き方に就いては、「天野政徳随筆」巻一に載せてあるが、これは左程に必要のこととも思われぬので省略するが、同書に「秉穂録」を引用して、

船中に祭る船霊は十一面観音也、女人の白髪数茎と双六の采二つ(中略)。大観通宝四五銭、同じく箱に入れて檣の下に納め置く、大観は観音に象るといふ(随筆大観本)。

とあるのは、少しく注意すべき記事である。女人の白髪と共に、十一面観音を併せ信じたのは、此の観音が女性であったからで、仏教の渡来などよりはずっと以前から船霊は女性であると考えられているので、後に観音が附会されたのである。但し大観通宝を観音を象るものと見たのは「秉穂録」の筆者の思い過しで、これは単に、銭には除魔の呪力あるものと信じたと見るべきである〔一二〕。

而して此の信仰が、民俗として現存しているかというに、「民族」第二巻第五号に、

陸中大槌地方船(櫓船でも発動機船でも)を新造すると、必ずお船霊様を奉祀する。船霊には無邪気で健康な女の子(十五歳以上はない七八歳位が多い)を申請ける。そしてその子の髪の毛を貰うて来て、人形(紙製三四寸位)と銭(以前は天保銭一枚位であったが、今は五十銭銀貨位を用いる)と共に、船霊座(船の中央龍骨に張れる横木に帆柱を立てる基底をなすところ)に納めて奉祀する。そして漁に出てしけ(荒天)でもすると、船霊に祈願をこめる。漁があると、先ず船霊へ捧物をする。たとえば、鰹であると、そのホツキ(心臓)二つを捧げる。船霊様に申請けた女の子には、船おろし(進水祝)の時は、反物位、漁ある毎に魚の付け届をする。

とあるので、その大体を知ることが出来る〔一三〕。猶お筏乗りの信仰にも女性を考えさせる習俗があるも、それには及ぶまいと思い、総てを省略した。

かくの如く、船の守護神であった巫女も、後には時勢の変遷によって船から下りるようになったが、猶おそれでも津口埠頭において、航海者の安全を祈ることを忘れなかった。やや後世の記事ではあるが、平安朝に編纂された「本朝無題詩」巻七(群書類従本)に、左の如き詠詩が載せてある。

 於室積泊即事   釈 蓮禅
扁艇東行隋汎乎 此津波泊悉名区
煙郊寺裡転経声{○原/註略} 水市社前売卜巫{此泊有古社、称八幡、別当止住、老巫叩皷/売卜、往反之船問安否仍与糧、故云}
潮潟暮松青滉瀁 嶺銜暁月白崎嶇
可憐漁釣罪根重 千介万鱗民戸租

室積は周防の一要津であって、然も瀬戸内海における殷賑の地であった。されば古代より、巫娼の定住所として聞え、彼の有名な播州書写山の僧性空が、生身の普賢を拝まんとて神崎に赴き、遊女普賢を見しとき長者が唱えた今様にも『周防むろづみの中なるみたら井に、風は吹かねどもさざら波たつ』とあるほどで、此処に巫女の落伍者が、卜を売って渡海の平安を祈ったのは、当然、有り得べき事象なのであった。


固有呪法時代における巫女について、その全体を尽すには、まだ幾多の問題が残っていることと思うが、以上でその概略を述べたと信ずるので、ここに第一篇を終ることとした。猶お、欠けたるところは、第二篇以下で補うことは言うまでもない。

〔註一〕
昭和四年三月発行の「考古学雑誌」において、橋本増吉氏は、倭人伝中の生口(中山平次郎氏の論文を反駁せるもの)に就いて論じた際に、此の「不近女」の一句に対して、船中に婦人は居ぬという意味のことを述べられたが、併し倭人伝の記事から云えば、船中に女は居ても、近づけぬと見る方が穏当のようである。
〔註二〕
後世になると、乗客以外の女性を船に置くことは絶対に禁じられ、稀には乗客でも女性なるが故に謝絶されることすらあった。室町末期に書かれたと思う「奇異雑談集」には、乗客の奇数を忌んだことすら載せてある。
〔註三〕
柳田国男先生の「郷土研究」第三巻第四号に掲載した「龍燈松伝説」の考覈は、古く臨時灯台として、山頂または水辺で柱松を焚いたことを明確にされた有益なる記事である。
〔註四〕
航海中の船が暗夜暴風雨に遇い、金毘羅神を祈ったところが、空中に火を認めて助かったという説は、屡々耳にするところであるが、此の事は殆んど世界的に存していて、科学上では空中電気の発光だと説明し、今ではセントエルナ系の伝説として取り扱われている。
〔註五〕
隠岐の焼火明神は、その祭神が女神であることから、此の神が古く巫女として船舶を守護したので、かかる信仰を生じたことと思うが、更に想像を逞うすれば、此の地の山上で火を焚くことの起原は、或は対韓関係から発火を以て信号とした古俗の残ったものかも知れぬ。
〔註六〕
雑誌「民俗芸術」創刊号の口絵説明及びその他。
〔註七〕
「芸藩通志」巻一四。及びその他。
〔註八〕
前掲「民俗芸術」第一巻第四号。
〔註九〕
天妃信仰に就いては、各地の地誌類に見えているが、支那と内地との物を併せ記したものでは「松屋筆記」巻六九「船霊」の条が詳細を尽している。
〔註一〇〕
「船長日記」は、私は未見の書であるが、「松屋筆記」巻六〇に記すところによれば、文化十年十月に尾張の船頭重吉が航海中難風に遇い、異国に漂いし始末を、文政五年十一月に池田寛親が聞書した上中下の三巻本とのことである。
〔註一一〕
女子の性器から連想して、船は女性であると、外国では言っているそうだが、我が古代には、此の思想の存在は積極的には発見されぬ。性器崇拝としても、船を女陰の象徴としたことは、私の寡聞のためか、日本の古代には見出されぬのである。
〔註一二〕
通貨に除魔の呪力あるものと信仰したことは、古くもあり、且つ広く行われていた。寺社の建築に絵銭を撒いたり銭を持っていれば邪気を防ぐとか言うたのは、皆これがためである。従って大観通宝を観音と考えるのは、観の連想以外には根拠の弱い説である。
〔註一三〕
喜多村信節翁は其著「嬉遊笑覧」巻二器用部船玉の脚註において「本邦にて今俗に船玉を女とするは非なり」と言い、此の俗は、支那の天妃信仰を受け容れたるものにて、古くは住吉神が船玉なりとの意を述べているが、私には承認出来ぬ。その理由は本文に述べた如くである。