トーク:日本巫女史/第一篇/第四章/第四節
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修正箇所[編集]
- 底本 p.181
- 本文中「あとる如く、神憑りと、」は「とある如く、神憑りと、」の誤植であろうと思われるので改めた。--たちゃな 2008年9月3日 (水) 13:38 (JST)
- 底本 p.185
- 底本 p.190
- 底本 p.193
- 「古語拾遺」の引用に、「今俗謂之掃守者彼詞之転也。」とあるが、正は「今俗謂之借守者彼詞之転也。」であるので改めた。従って、「蟹守(カニモリ)」から「借守(カリモリ)」へ、「借守(カリモリ)」から「掃守(カモリ)」になったようです。どころで、直ちに「掃蟹」から「蟹守」と言っても構わない気がするけど、やっぱり「蟹」の呪力を強調するのでしょう。--浦木裕 2008年9月17日 (水) 16:54 (JST)
- 底本 p.196
- 底本 p.197
- 本文中「悉く省略し〔五〇〕」直後の読点は、正しくは句点であろうと思われるので改めた。--たちゃな 2008年9月3日 (水) 13:38 (JST)
- 底本 p.201
- 底本 p.201-202
- 註一二中「これに就いては」の直前に句点が欠けていると思われるので補った。--たちゃな 2008年8月24日 (日) 11:25 (JST)
未修正箇所[編集]
- 底本 p.183
- 樺の條、「信濃国樺ノ皮四囲、上野国樺ノ皮四囲」とあるが、原文では「信濃國、筆一百管・零羊角六具・木賊二圍・樺皮二圍。上野國、筆一百管・零羊角六具・杏仁三斗・膠十二斤・樺皮四張。」であり。正しくは「信濃国樺ノ皮二囲、上野国樺ノ皮四張」ではないか。
- 底本 p.188
- 橘守部「鐘のひびき」巻一の引用中、「磨(中山曰、守部自身を指す。)」とあるが、「磨」は「麿」の誤植ではないだろうか。--浦木裕 2008年9月16日 (火) 23:35 (JST)
- 底本 p.193, 198
- 「四 蟹」の條、及び「一 石」の條に「新選姓氏録」とあるのは、正しくは「新撰姓氏録」であろう。--たちゃな 2008年8月24日 (日) 11:25 (JST)
- 底本 p.199
- 「崇神紀」十年秋九月の條の引用中「褁」の字は、本文中では{果下衣}となっている。--たちゃな 2008年8月24日 (日) 11:25 (JST)
- 底本 p.200
- 「播磨風土記」引用中「御舟裳」は「御丹裳」ではないのか。--たちゃな 2008年8月24日 (日) 11:25 (JST)
メモ[編集]
- 底本 p.180
- 湯立をおこなう巫女のことを、伊智(イチ)という。--たちゃな 2008年8月24日 (日) 11:25 (JST)
- 底本 p.181, 201
- 「尸坐(よりまし)」と「戸座(へざ)」には何か関聯あり?--たちゃな 2008年8月24日 (日) 11:25 (JST)
- 底本 p.182
- 「物部守屋が衣摺の榎を利用して、聖徳太子の軍兵を三度迄撃退したのを始めとして」について、原文では「於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨。其軍強盛、填家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三廻却還。」であって、その榎は朴とも書く、大辞林によれば「えのき [0]【▼ 榎・▽ 朴】 ニレ科の落葉高木。」となります。--浦木裕 2008年9月15日 (月) 03:30 (JST)
- 底本 p.183
- 底本 p.187
- 「<宍>串呂 黄泉尓将待跡 隠沼乃 下延置而 打歎 妹之去者」(万葉集 9-1809)--たちゃな 2008年8月24日 (日) 11:25 (JST)
- 底本 p.191
- 底本 p.198
- 底本 p.199
- 底本 p.199-200
- 美作国久米郡久米村大字久米川南の蟹八幡
- 佐藤芳範氏によると、久米町史下巻に「仮八幡」からの転訛説が記載されているらしい。
- さて蟹八幡であるが、自分の家で語り伝えられているところによると時代はわからないが自分の祖先は(古くは貞広と言っていた)は宇佐八幡宮の分霊をいただいて久米上村の自宅に帰りついた。宅には庭に現在もある「鈴の御前」と称する祖霊社があってこのお社に二,三日の御休憩を願ったものである。しかし、自家の祖霊社にそう長くお留り願う事は恐れ多いことなので、幸い自宅の近くの谷尻(たんじり 地名)にお森様と称する荒神様の小祠があった。このお宮は後のことであるが大正7年ごろには一間四方の拝殿もあり,神輿庫もあり、太鼓もある程度のお宮であるが、当時は規模も小さかったろうが、此の「お森様」に御神体を移し奉って、宮尾村の地に新しく八幡神社の社殿が出来上がるまで仮に「お森様」に鎮座ましましたのである。「お森様」のましますところの地名が「谷尻」と言われるように谷の端にあたり、小さな溝川も流れているので付近に蟹もいる事は居たにはちがいないが、八幡様とは何の関係もなく、「仮八幡」と称したもので、これが転化して「蟹八幡」となり、なにか蟹に関する縁起でもありそうなことになったものであろう。とのことであった。
- http://townweb.e-okayamacity.jp/minan-r/spot/kanihachiman.htm
- 佐藤芳範氏によると、久米町史下巻に「仮八幡」からの転訛説が記載されているらしい。