日本巫女史/第一篇/第八章/第三節
第三節 農業に於ける巫女[編集]
豊葦原の瑞穂国といわれただけに、農業と巫女との関係は、狩猟のそれよりも、一段と明確に知ることが出来るのである。由来、我国における穀物神——即ち農業神の研究は、原始神道の上から見ると、相当に興味の深い問題たるを失わぬのである。現在では農業神といえば、直ちに稲荷神であると考えられるようになっているが、これは言うまでもなく、帰化族秦氏の祖霊神を祀ったものが、いつの間にか祭神が入れ代えられて稲荷神となってからの信仰であって、決して原始的のものでは無いのである〔一〕。「古事記」に、
- 食物を大気津比売ノ神に乞ひたまひき。ここに大気津比売、鼻、口、また尻より、種々の
味物 を取り出でて、種々作り具へて進る時に、速須佐之男命、その態を立ち窺ひて、穢汚きもの奉るとおもほして、乃ちその大気津比売神を殺したまひき。
とあるのは、有名な神話であって、然も此神の屍体から五穀その他が生じたという事になっているのである〔二〕。而して此の大気津比売神は、又の名を豊宇賀能売命と称して、我国の穀物神であり、農業神であると信仰されているのであるが、此の信仰には、少くとも二つの、疑いを挟むべき間隙が存しているのである。即ち第一は、「丹後国風土記」逸文、奈具社の条の末節に、天女が、
- 至竹野郡船木里奈具村、即謂村人等云、此処我心成奈具志久{○原/註略}乃留居此村、斯所謂竹野郡奈具社坐豊宇賀能売命也。
とある記事と、第二は祝詞の「大殿祭」の一節に「屋船豊宇気姫命」と記せる脚註に、
- 是稲霊也、俗謂宇賀能美多麻云々。
と記せる記事がそれである。これを詳言すれば、前者の奈具社の記事は、天女が穀物神となった事を意味し、後者の大殿祭の脚註は、稲の霊を神格化して穀物神としたことを説明しているのである。
それでは何故に、斯く「古事記」の神話と矛盾するような伝説が存したかと云うに、これは要するに、穀物神に仕えた巫女を、後世から直ちに穀物神とした誤解に基くものであることが知られるのである。換言すれば、元々我国の穀物神は、稲の霊を神格化して崇拝していたのであって(穀物神が斬り殺されるという神話も、これが為めに生じたもので、その事は註に述べて置いた)、稲霊以外には、別に穀物神とか、農業神とかいうべきものは、無かったのである。然るに、神に対する合理的解釈は、稲霊を神とすることを疎却して、次第に此の穀物神に奉仕した巫女(即ち大気津比売とも豊宇賀能売とも云うていた)を、穀物神そのものと信ずるようになって来て、遂に稲霊は全く忘れられて、巫女が代ってその位置を占めてしまったのである。私は此の立場から、穀物神を考えているので、豊宇賀能売命が伊勢に祭られたのは、とりも直さず、皇大神宮に対する
古代の農業には、専ら女子のみが従事して、男子は多くこれに与らなかった。それは、当時の社会生活から見て、男子は絶えず他部落との間に起る闘争に従うことが重なる役目で、その他は常に山野河海に出でて、狩猟漁撈に励まなければならなかったためである。これに反して、女子は狩猟時代から、山に野に木の芽や草の根を採って食物とした伝統的の経験を有している上に、女子の第一の使命である育児の責任があり、更に体力の関係から烈しい狩猟には堪えられぬので、自然に親しみの深い春耕秋収の農事に服するよう習慣づけられて来たのである。従って古代の農業に巫女の関係することが多かったのである。
柳田国男先生によって唱えられた我国の「をなりど」伝説なるものは、農業と巫女との交渉を考える上に閑却することの出来ぬ大問題である。私は曾て自ら揣らず柳田先生の意中を忖度して此の伝説に就いて「田植に女を殺す土俗」と題し、大要左の如き管見を発表したことがある。
一 穀神へ人身御供を捧げる
我が古代の農業は、小氏または一部落の共同耕作であって、年々輪番に田主を定めて春播秋穫し、別に田地の永代所有者は無かったのである。即ち経済学上の定期分配耕作共同制とも云うべきものである。従って此の時代における豊凶は、それが部落全体の利害休戚に影響するところが深甚であるだけに、田主となる者の責任は極めて重大なるものがあった。殊に同時代にあっては、田主及び部落民の徳不徳の行為が、直ちに農作の豊凶に影響するものと考えられていた。我国に此の事由を直接に証明する記録の欠けていることは遺憾であるが、それでも猶お間接には這般の消息を窺知すべき文献がある。即ち「神功紀」に天野・小竹の両祝がアツナヒの罪を犯したために天候が不順となり〔四〕、「允恭紀」に木軽皇子が同母妹に通じたために天候に異変を生じ、六月の酷暑に供御の羮が氷ったとあるのは、共に此の思想の在ったことを暗示するものである。加之、自然の恩寵に最も依頼することの多い農業は、旱損霖害、一朝の霜、一夜の風にも長い間の努力を徒労に帰する場合が尠くなく、然も斯かる自然現象の総てを神々の啓示であると信じた時代においては、水は広瀬神、風は龍田神、雨は丹生神に祭られ、只管に是等の神々の荒ぶることを恐れて、専らそれを和め鎮むるに祈念焦慮した。而して此の神を和め鎮むるためには、殆んど手段と方法を択ばなかった。否々、択ぶ余裕が無かったというのが適当である。かくして人身御供が起り、かくして種々なる呪術的祭儀が工夫されたのである。
オナリの民俗も、斯かる時代に人身御供の一として発明された祭儀なのである。オナリの語は世人の多くに忘られてしまったが、それでも一部の間には活きている。伊賀国名賀郡地方では、今に水仕女を此の語で呼んでいる〔五〕。琉球では、オナリの語は、姉妹の意に用いられている〔六〕。内地の神名や、地名にあるボナリ(母成と書く)ウナリ(宇成または於成とも書く)も、又このオナリの転訛である。
オナリは一にヒルマモチとも云われている〔七〕。即ち昼間持のことであって、田植に働く早乙女その他の者の昼飯を運ぶ役に当る女性である。そして此のヒルマモチが田の神の犠牲に供えられるのである。
二 オナリとしての奇稲田媛
素尊が八岐於呂智を斬って稲田媛を救う折に、尊は媛を立ちどころに櫛と化し、その御髻に挿したとあるが、これの解釈に就いては異説が多く存しているも、所詮は後世の知識を以て神話を合理的に解釈しようと企てたものであって、学問的には価値の低いことは言うまでもない。私見を簡単に云えば、稲田媛を櫛に化して挿すとは、取りも直さず媛を穀神に犠牲として供えたことで、我国の最も古いオナリの民俗が神話に反映したものだと考えている。更に詳言すれば、媛を櫛にして挿すとは、即ち串に挿すの意であって、斯く代々の語部が語り伝えていたのを、文字に記録する折には、夙くもオナリの民俗が泯びてしまったか、若しくは神を串に挿すとは、如何にするも当代の信仰では許されなかったので、かくは媛を櫛と化して髻に挿すと記したのであろうと信じている。我国には、古く神に供える人肉または鳥獣の肉を串に挿した民俗が存していた(既述の曲玉は腎臓の象徴の条参照)。而して是等の民俗から推すも、媛を櫛にして挿すとは、犠牲にした媛を串に挿すの意に解するこそ、却って学問的ではあるまいか。
三 穀神を殺す古代民族の信仰
我国の穀神である大気津比売命は、素尊のために殺された。何故に我が古代民族は穀神と云うが如き高級神を殺した神話を伝えて怪しまなかったか〔八〕。これには又た相当の理由が在ったのである。
私達の遠い祖先達は、穀物を播種すると、発芽し、繁茂し、結実し、枯死するのを、直ちに自分達の生死から類推して、これを穀物の生死であると考えたのである。結実と共に幹葉の枯れることは死であって、発芽と共に繁茂するのは生であると信じたのである。加うるに、我国にも天父地母の思想が存していた。即ち蒼天を父とし、大地を母とし、総ての自然物は、此の天父地母の交接作用によって生成すること、恰も自分達の交接作用によって子孫が生成するのと同一だと信じていた〔九〕。かくて農業の神事に、トツギ祭りというが如き、奇怪なる呪術的方法が案出されたのである。而して古代の民族にあっては穀物その物が直ちに神であった。文化のやや進んだ民族は、農作の豊凶は穀物を支配している神の左右するものと考えるようになり、穀物と穀神とを区別して認識したのであるが、古代の民族には此の区別は無かったのである。そして穀物の幹茎を刈り取る事は取りも直さず穀神を殺す事なのである。此の思想はやがてオナリ——即ち穀神の代理を殺す事までに発展したのである。
四 原始農業と女子の位置
「古事記」に雀を碓女としたことを載せ、「万葉集」に『稲舂けば
例えば、信州諏訪神社の田遊びの神事は、毎年小正月の夕刻に行われるが、その時に楽員一名が婦人に扮し、振袖の衣服を着て、頭に綿帽子を載せ、折櫃に鏡餅を盛りて神前に向いこれを供え〔一〇〕、その他種々なる式があって終る〔一一〕。山城国葛野郡七条大字西七条でも、小正月の夜に、頭座の男子一人麗しき女の小袖(この小袖はその前年に新婚せる妻女の物に限る)を着し、赤き帯を結び、顔に紅粉を粧い、大なる
又、摂州武庫郡鳴尾村大字小松の岡神社の田植の神事にも、社頭に供物を献ずる男子一名は、旧例を以てその年に村内に嫁したる新婦の衣裳を着用して、この役を勤めるのである〔一三〕。紀伊国有田郡の各村で、毎年正月に行う御田踊は、相当に大仕掛のものであるが、この踊の中心となるヒルマモチ(昼間持)は、村内で最も美男子が女衣の襲ねを着し、丸帯を太鼓に結び、頭に鬘を被り、簪を挿し、緋布の鉢巻をしている〔一四〕。奥州若松市では、正月になると近村から、田植踊という銭貰いが出て来るが、その中一人だけは、男子が女装して、太鼓を打ち、農歌を謡う〔一五〕。
而してかかる類例はまだ全国に亘って殆んど際限なきほど夥しく存しているが、是等の民俗が古く穀神を女性とした信仰の名残りであることと、併せて女性が農業——殊に田植の中心人物であったことが偲ばれるのである。更に田植に挿秧する女性を、
五 農業の神事とトツギ祭
穀物の生成結実を天父地母の交接作用の一部の現われと信じた古代の民族が、その穀神を
更に如上の信仰の一段と古いところに溯れば、田植の神事の最中で、オナリが分娩の所作を演ずるのである。そしてかかる民俗も我国には尠からず存しているが、茲には僅に二三だけを掲げるとする。出雲国簸川郡江南村大字常楽寺の安子神社の祭儀は、早乙女が早苗を植えながら安産する有様を演ずるが、今では安産の神として信仰されている〔二四〕。美作国真庭郡八束村大字下長田の長田神社では、例年正月五日に御田植祭を行う。祭具は鋤鍬鎌等の農具で、別に菖蒲で牛の角形を装い作り社前に供え、田舞を奏す。奉幣、祝詞、玉串の献上、苗代の式などがあり、終ると牛使用者が「お三昼飯」と呼ぶ。次に本殿の椽に昇るとき予め紙で拵えた人形を懐中し、焼米を三宝のまま棒持して出ずると、他の祭人御酒と御飯とを持ち、笛太鼓の拍子につれ、左右に舞い終ると、お三と称する祭人(女性の象徴)産米を舞殿の高案の上に直し、本殿に昇ろうとして曩に懐中せる人形を取り出し階段に置く。これ出産を意味するものであって、斎主はその人形を肩にのせ神前に供え、氏子安全の祈祷をする。お産の式と云い終って直会する。〔二五〕土佐国安芸郡吉良川村の八幡社では、三年に一度、五月三日に、御田植祭を行うが、その行列中には、酒絞りと称する女装の男子一人と、取揚げ婆と称する男子一人とが加わり、酒絞りは水桶につぶて杓を入れて頭上に戴き居り、酒絞るとき安産の態をする〔二六〕。豊後国東国東郡西武蔵村の氏神の歩射祭には、オナリと称する女装の男子が、田植の神事の最中に分娩する所作を演ずる。そして生れた子が男か女かによって豊凶を卜するのであるが、その人形の子供は秘かに神官が神意を問うて拵え、オナリに渡して置くのである〔二七〕。而して是等の分娩の役を勤める者が古くは巫女であったことは勿論である。
六 穀神の犠牲となるオナリ
下野国足利郡三重村大字五十部の水使神社の縁起に、この祭神は土地の富豪の水使女であって、乳呑児を抱えて奉公していた。或年の田植に早乙女に昼飯を持って田へ往った留守に、主人がその乳呑児を殺してしまったので水使女は気狂いのようになり、附近の池へ投身して死んだ。爾来、その女の怨霊が祟るので神に祭ったのが此の社である。神体は、左手で飯櫃を抱え、右手に飯匙を持って水中の岩上に立っている木像だとて、今にその御影を出している。此の神社は私の故郷に程近いので、私も幼少の折に亡姉に連れられて二度ほど参詣したことがある。而して此の縁起に後人の作為が加わっていることは勿論であるが、兎に角水使女が、(一)田植に昼飯を持参したこと、(二)乳呑児が殺され(これは必ずしも重要事ではないが、此の例も嫁殺し田伝説まで合せると多数ある)ること、(三)そして自分も死ぬという此の三点は、他のオナリ伝説と共通なものであって、然も此の三点がオナリとして穀神の犠牲となった事を語る眼目なのである。同じ足利郡御厨町大字福居字中里(私の生地の隣村)の鎮守は、飯盛飯有神社という珍らしい奇抜な社名で、古老の語る所によると、神体は飯櫃と飯匙とであったそうだが、現今では大気津比売命と入れ代えられて了った。此の祭神などもオナリに由縁あるものと思われるが、社記も伝説も残っていぬので、考覈すべき手掛りさえ無くなって了った。阿波国板野郡撫養町大字桑島の於加神社の神体も、水使神社と同じように、右手に飯を高盛りにしたお椀を持ち、右手に飯匙を握っているそうだが〔二八〕、これなども詮議したらオナリ系の神であるかも知れぬ。陸中国上閉伊郡松崎村大字矢崎に灌漑用の大堰がある。往古、此の堰が年々洪水のために崩壊するので巫女を人身御供として水底に沈めた。堰口はそれ以来崩壊せぬようになったが、巫女の祟りを恐れて、ボナリ(母成と書く)神として祭り、今に毎年初春壬辰の日に醴酒と煮豆を供えてお祭りをする。殊に田植の水揚げするときは、村民団子を作り神に供える〔二九〕。此の伝説こそは巫女がオナリであって、農業に深い関係を有し、然も穀神の犠牲となったことを克明に語っているのである。下総国印旛郡宗像村大字師戸の某の小娘が、同郡船穂村大字船尾の農家に子守奉公していると、或年、田植に働く人々に昼飯を運べと言いつけられ、子を背負うたまま持参すると、小供と一緒に持ってくるとは不都合だと叱られ、遂にその小娘は小供を負うて金比羅淵に投身して死んだ。然るに小娘の怨霊が大蛇となって村に祟るので、村民は鎮守宗像社に併せ祭り、今に七月一二日にはニヒガリとて鎮守社に集り草を刈り庭を清めて、その夜に来る大蛇のために道を払ってやる〔三〇〕。此の話などは、常識から云えば、理窟に合わぬことのみであるが、然し話の基調がオナリにあることを知れば、朧げながらも吾人の腑に落ちるものが存するのである。美濃国瀬川の左岸に昼飯岩というがある。大昔、某家の下女が田植している下男達に昼飯を運ぶために此処まで来ると、突然、岩が崩れて下女が殺されたので此の名がある〔三一〕。此の話なども、是れだけ聴かされたのでは、何の事やら頭も尾もない出鱈目話のように思われるが、古いオナリの条件を備えている穀神の犠牲を語っているのである。猶お此の外に磐城国白川郡竹貫駒ヶ城趾にあるボナリ石の由来や、丹波国何鹿郡東八田村大字於成のオナル神社の縁起など、詮索すれば相当に資料もあることと思うが、大体を尽したので他は省略する。
七 穀神に対する古代人の態度
瑞穂の国と称しただけに、我が古代人の穀神に対する態度は、その敬虔さにおいて、然もその真摯さにおいて、実に涙ぐましいほどの幾多の習礼が残されている。畏くも伊勢皇大神宮を始めとして、名だたる名神大社に御田植の神事の存していることは言うまでもないが、更に世に謂う叢祠藪神にも此の祭儀の儼然として伴っているのは、全く農を国の基としたことに由来するのであるが、これが民俗は各地の田植において、今に明確に見ることが出来るのである。田植の中心となる早乙女が、月水中は田に入ることを禁ぜられるのも此の信仰であり、更に早乙女が襷や脚袢や手甲などを新調して、穀神を穢さぬように注意するのも、又此の信仰に外ならぬのである。飛騨国大野郡白川村では、早乙女は五ツ紋付の衣服を着し、襷をかけて挿秧する〔三二〕。琉球の石垣島では、田植の朝に数十人の早乙女となる妙齢の女子が盛装を凝らし、赤紐の衣笠を戴き、下衣には純白、上衣には友禅染を重ね、右肌を脱ぎ肥馬に跨り、「かたばる馬」の式を行ってから田植にかかるそうだ〔三三〕。
現時の田植は、実際ということを主眼とするために、大昔にあったような複雑した儀式は段々と泯びてしまうがそれでも中国辺(安芸、石見、伯耆など)に行くと、サンバイサン(私が前に述べた
八 オナリと嫁殺し田の関係
我国の各地に残っている嫁殺し田の伝説は、オナリの民俗の一派生として考うべきものである。反言すれば、オナリの民俗の曾て存したことが、此の嫁殺し田の伝説によって、その確実性を裏書するものと信ずるのである。陸前国宮城郡岩切村大字小鶴に小鶴ヶ池というがある。昔、多賀城下の富豪の姑が嫁の小鶴を酷遇し、何町歩とある田植を小鶴一人に一日中に済ませと命じた。小鶴は幼児を背負うたまま終日挿秧するうち、幼児は餓死し、自分も田植が済まぬので、姑に責められるのが悲しく池に投じて死んだ。それで此の池をかく呼ぶようになったのである〔三五〕。而してこれと類似した伝説が同国栗原郡尾松村大字桜田にもあると、近刊の「栗原郡誌」に、安永七年七月の書上の風土記を引用して詳記してある。下総国印旛郡船穂村大字松崎に千把ヶ池というがあり、その池畔に大きな松が一本ある。これは昔田植女が、一日千把の苗を植えよと命ぜられたが果さずして死んだのを埋め、その墓印に植えた松だと称している〔三六〕。この話は前に載せた子守の伝説と同じものが、かく二つになって語り残されたのであろう。信州更級郡更府村大字三水の泣き池は、悪心の姑が嫁を虐待し、持田を一日に植えよと無理を言われて嫁が死んで池となり、その泣き声が聞ゆるので斯く名づけたのである〔三七〕。駿河国安倍郡安東村大字北安東字柳新田に二反歩余の水田がある。嫁を憎む姑のために嫁が田植最中に死んだところで、今に田を耕作すると祟りがあるとて、今に除け地になっている〔三八〕。遠州掛川町在の嫁ヶ田も同じ頑愚な姑に挿秧の無理を強いられ、嫁が田で悶死した故地である〔三九〕。因幡国八頭郡大御門村大字西御門にも嫁殺し田というのがあって、その伝説は他のそれと全く同じである〔四〇〕。安芸国賀茂郡志和掘村にお杉畷というがある。昔お杉という女性が一人で五反余歩の田植中に死んだので、村民これを憐み、杉を栽えて記念とした〔四一〕。而して茲に注意すべきことが、是等の嫁ということは、必ずしも今日の新婦とか、花嫁とかいう意味ではなくして、古くヨメとは一般の未婚者を指していた点である。ヨメの語が、嫁の意に固定したので、意地悪の姑のことが加えられたのであるが〔四二〕、此のヨメは家族的の巫女と見るのが正しいのである。
九 田植に行う泥掛けの意義
穀神の犠牲にオナリを供えた当時の遺風と思わせるものに、田植の泥掛けの行事がある。土佐の高知市地方には現今でも田植祭の泥掛けが猖んに行われている。当日は、早乙女(いずれも処女であって妻女は加わらぬ)は、綺羅を飾り、挿秧するが、近村から若者達が手伝とて酒肴を携えて来る。早乙女は、是等の人々を見ると、「お祝い」と呼ばりながら泥を打ち掛ける。若者達は散々泥を掛けられ、帰りには早乙女から着替を借りて戻るが、早乙女は後でその衣類を洗濯し、若者の許に持参すると、饗応される例となっている。然も此の日は、誰でも通行の男子は、泥掛けされても苦情の言えぬことになっている〔四三〕。此の土俗は、後世の
此の泥掛けの行事は猶お種々なる
オナリ伝説の考察が意外に長くなってしまったので、此の上に農業と巫女の関係を記すと余りに紙幅を費すので、茲には総てを省略し、不十分の点は、第三篇において、機会があったら補足することとした。猶お巫女と人身御供との伝説に就いては、これも他の機会で記述したいと思っているので、参照を望む次第である。
- 〔註一〕
- 私は稲荷の原始神は狐を祭ったものだと考えている。それが秦氏の繁昌によって、同氏の祖先神と代るようになり更に秦氏の没落後に稲荷神——即ち大気津比売命と入れ代えられたものと信じたい。それでなければ、民間信仰における稲荷神と、狐との関係が、判然せぬのである。更に「開化記」には「日子坐王(中略)又其御母の弟袁祁津比売命に御娶ひて、生みませる御子」云々とある。これより推すと大気津比売の名は、玉依姫のそれと同じように、或は古代の貴女の通称の一ではなかったろうか。後考を俟つ。
- 〔註二〕
- 白鳥庫吉氏の研究によると、諾尊が天照神に賜ったミタナクラとは即ち稲種であるとのことである。
- 〔註三〕
- 伊勢の豊受大神宮は、皇大神宮の供御の神として祭られたものであって、神格の上からは非常なる相違があり、内宮外宮と押し並んで申上ぐべきものではない。それが殆んど同格神のように国民に考えられるようになったのは、全く外宮神官の昇格運動に由来するのである。此の事は、古く尾張の吉見幸和も極力弁じているが、思い出すままを記すとした。換言すれば、豊受神はサバ神であって、今に各地の田植歌に、サンバイサンと謡われているのは、サバの転訛である。猶おサバ神に就いての詳細は「旅と伝説」の昭和四年十二月号掲載の拙稿「さんばい考」を参照されたい。
- 〔註四〕
- アツナヒの罪に就いては異説もあるが、私は岡部東平(嬰々筆語巻一)の考証に従い、同性愛だと考えている。
- 〔註五〕
- 「名賀郡郷土資料」。
- 〔註六〕
- 此の事は前掲の「巫女の起原」の条に述べて置いた。
- 〔註七〕
- オナリと昼飯持とは別だとの説もあるが、私は姑らく同一だという旧説を支持したいと思っている。
- 〔註八〕
- フレザー氏の研究によると、穀神を殺す信仰は、殆んど世界的に存しているそうである。曾て折口信夫氏が主幹された雑誌「土俗と伝説」創刊号に此のことが記載されている。
- 〔註九〕
- 米人ホルトム氏は、諾冊二尊は天父地母の思想に由来するものだとの研究を発表された。詳細は「明治聖徳記念学会」紀要第十六巻より同二十巻に連載されている。
- 〔註一〇〕
- 折櫃は曲木細工の浅い盥のようなもので、古く神供はこれへ容れて頭上で運ぶのが常礼となっていたのである。
- 〔註一一〕
- 「好古叢誌第七編」。
- 〔註一二〕
- 「諸国年中行事大成」巻一。
- 〔註一三〕
- 「摂陽落穂集」巻二。
- 〔註一四〕
- 「日本及日本人」の臨時増刊「郷土光華号」に拠る。
- 〔註一五〕
- 「新編会津風土記」巻十五。
- 〔註一六〕
- 「遠野物語」。
- 〔註一七〕
- 「信濃奇勝録」巻五。
- 〔註一八〕
- 「越後温故ノ栞」。
- 〔註一九〕
- 「近江蒲生郡誌」巻六。
- 〔註二〇〕
- 「郷土趣味」第五巻第五号。
- 〔註二一〕
- 「敦賀郡誌」。
- 〔註二二〕
- 「美作国神社資料」。
- 〔註二三〕
- 「増訂肥後国志」巻下。
- 〔註二四〕
- 「簸川郡名勝誌」。
- 〔註二五〕
- 同神社々掌星野謹吾氏報告。
- 〔註二六〕
- 「国文論纂」所収の古謡集に拠る。
- 〔註二七〕
- 同村役場よりの回答。
- 〔註二八〕
- 「阿州奇事雑話」巻三。
- 〔註二九〕
- 「東京人類学雑誌」第三十三巻第一号。
- 〔註三〇〕
- 「郷土研究」第一巻第七号。
- 〔註三一〕
- 博文館発行の「文芸倶楽部」第八巻第十二号。
- 〔註三二〕
- 「日本週遊記」。
- 〔註三三〕
- 「ひるぎの一葉」。
- 〔註三四〕
- 文部省発行の「俚謡集」に見えているし、更に日本青年館で催した第三回郷土舞踊会で此の実演を見た事がある。
- 〔註三五〕
- 旧仙台領の地誌である「封内風土記」巻四。
- 〔註三六〕
- 高田与清の「相馬日記」に拠る。
- 〔註三七〕
- 「日本伝説叢書」本の信濃の巻。
- 〔註三八〕
- 「静岡県安倍郡誌」。
- 〔註三九〕
- 「煙霞綺談」巻二。
- 〔註四〇〕
- 「因幡志」。
- 〔註四一〕
- 「賀茂郡誌」。
- 〔註四二〕
- 古くヨメとは一般の女性を言うたもので、吉女の転だという説さえある。詳細は拙著「日本婚姻史」に記述した。
- 〔註四三〕
- 「風俗画報」第七十三号。
- 〔註四四〕
- 「郷土研究」第四巻第十一号。
- 〔註四五〕
- 折口信夫氏談。
- 〔註四六〕
- 「武蔵国総社志」巻下。
- 〔註四七〕
- 「日本及日本人」の臨時増刊「自然と人生」に拠る。