日本巫女史
総論
第四章 巫女史の材料と其採集方法
第一節 巫女の遺跡的材料[編集]
一 集団生活地たる巫女村
江戸期に編纂された地誌類を繙くと、各地に巫女村と称する部落の存したことが載せてある。就中、信濃国小県郡禰津村には、四十八戸の巫女の親分ともいうべき者が家を並べて住んでいた。俚称は此の所をノノウ小路と呼んでいた。紀伊国西牟婁郡田辺町にも巫女が多く、近郊の西ノ谷字中西の下から西へ十五六軒、港村字小泉、三栖村字岡、万呂村(以上同郡)などを数えると、四十軒以上も在ったという。壱岐国などでも、あの猫の額ほどのところで、イチジョウと称する巫女が、四十八竃あったと称している。更に大阪天王寺の巫女町や、東京亀井戸の巫女町なども、共に軒を並べて営業していたのである。こうして、巫女が集団的に生活を営んでいたことに就いては、段々と説明すべき理由も存しているが、それは後の機会に譲るとして、兎に角にかく密集していた土地は、先ず遺跡として、巫女に関する幾多の材料が残されているのである。
二 巫女が開拓した村落
漂泊を続けて来た巫女が、その生活に倦怠を感じ、背に負いたる笈を、神箱に托して土に下ろして、芝を起し、草分けとなった村落もある。更に、巫女が開墾したので、その土地を神子垣内と称する地方もあり、巫女の居所をイタコ屋敷と云う土地もあり、巫女が呪術を行うた場所を神子塚と称して保存した地方もあり、此の外に、巫女を人身御供として水底に葬った場所とか、巫女が行路に死をを遂げて祟りをするので塚を築いたとかいう種のものも、各地に渉って相当に存している。而して是等の一々が巫女史の材料として相当に役立っている事は言う迄もない。
三 巫女関係の神社と寺院
巫女の最初は神それ自身であり、降って神と人との間に立つ霊媒者となったが、何れにしても、巫女が神性を多分に有していたことは明白である。従って、これ等の巫女が、或は神妻として、又は神母として、神に祭られ、社に斎かれるのは少しも不思議はない。各地に残っている神子神、または姥神なるものは、概して巫女関係のものである。而して、巫道が仏教と習合して、巫女が比丘尼と呼ばれるようになり、呪具に珠数を用いるようになれば、自然と寺院に関係を有つようになるのは当然である。殊に、その以前から、社僧と称する者が、神前において読経するほどに神仏が混糅し、神宮寺が名神大社を支配するように神仏が合一され、法師巫という両性的の呪術者さえ出しているのであるから、巫女と寺院の交渉も、又少しも不思議ではないのである。而して是等の遺跡が、多少とも巫女史の材料を提供することは勿論である。
四 巫女の化石伝説
我国には巫女が化石したという伝説が各地にあって、然もその化石なるものが、今に残っている。巫女が多く化石したという伝説を生むに至った理由に就いては、後段に詳述する機会もあろうと思うので、ここには略すが、猶お化石せぬまでも、巫女石と称するものも、各地にある。これ等の怪石譚は、元より伝説であるから、巫女史の材料としては、必ずしも信用すべき限りではないが、併しながら、是等の伝説を生んだ時代の、民間信仰なり、又は民族心理なりを察知する上において、相当の役割を勤めている。これ私が、伝説だからとて無下に棄て去らず、好んで材料として採用した所以である。