日本巫女史/第一篇/第一章/第三節」を編集中

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併し斯く言うものの、私として決して我が原始神道を巫女教にあらずと主張する者ではない。その点に就いては、山路氏よりは更に幾倍して、巫女教であったことを高調する者である。畏きことながら、天照神の高きを以てしても、新嘗をなされたのは、御女性であらせられたためである〔一三〕。更に溯って言えば、我国の最高神である日神が女性であるのは、女子が神の極位を占むべき国柄であったためである〔一四〕。賀茂建角身命の<ruby><rb>女</rb><rp>(</rp><rt>ムスメ</rt><rp>)</rp></ruby>が玉依媛と称して、賀茂別雷命を生んだのは、即ち玉依媛は<ruby><rb>魂憑</rb><rp>(</rp><rt>タマヨリ</rt><rp>)</rp></ruby>姫であって〔一五〕、一般の女性が巫女としての神人生活を送られていた事を暗示しているのである。神武帝の御母后が同じく玉依姫と称された事も、亦此の事を考えさせるものがある。
併し斯く言うものの、私として決して我が原始神道を巫女教にあらずと主張する者ではない。その点に就いては、山路氏よりは更に幾倍して、巫女教であったことを高調する者である。畏きことながら、天照神の高きを以てしても、新嘗をなされたのは、御女性であらせられたためである〔一三〕。更に溯って言えば、我国の最高神である日神が女性であるのは、女子が神の極位を占むべき国柄であったためである〔一四〕。賀茂建角身命の<ruby><rb>女</rb><rp>(</rp><rt>ムスメ</rt><rp>)</rp></ruby>が玉依媛と称して、賀茂別雷命を生んだのは、即ち玉依媛は<ruby><rb>魂憑</rb><rp>(</rp><rt>タマヨリ</rt><rp>)</rp></ruby>姫であって〔一五〕、一般の女性が巫女としての神人生活を送られていた事を暗示しているのである。神武帝の御母后が同じく玉依姫と称された事も、亦此の事を考えさせるものがある。


而して崇神帝が皇女豊鍬入姫命を以て、伊勢皇大神宮の<ruby><rb>御杖代</rb><rp>(</rp><rt>ミツヱシロ</rt><rp>)</rp></ruby>となし給うて斎宮の制を立て、爾来、歴聖が御即位と共に皇親の女性を以て斎宮となし、七十余代に及んだのも、更に嵯峨帝が皇女有智子内親王を以て賀茂の斎院となして範を垂れ、同じく三十余代を続けたのも〔一五〕、共に神に仕えるは女性に限られた古代の聖規を伝えたものである。神武朝に道臣命に勅して神を祭らせし折に、特に<ruby><rb>厳媛</rb><rp>(</rp><rt>イカシヒメ</rt><rp>)</rp></ruby>の名を賜ったのもこれがためで〔一六〕、今に神社または民間に於ける祭事に、男性が女装して勤めるのも〔一七〕、亦古き教䡄を残したものである。神功皇后が、畏くも国母の身を以て、躬から神の<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>シロ</rt><rp>)</rp></ruby>となられたのも、勿論皇后が女性であらせられた為めである。
而して崇神帝が皇女豊鍬入姫命を以て、伊勢皇大神宮の<ruby><rb>御杖代</rb><rp>(</rp><rt>ミツヱシロ</rt><rp>)</rp></ruby>となし給うて斎宮の制を立て、爾来、歴聖が御即位と共に皇親の女性を以て斎宮となし、七十余代に及んだのも、更に嵯峨帝が皇女有智子内親王を以て賀茂の斎院となして範を垂れ、同じく三十余代を続けたのも〔十五〕、共に神に仕えるは女性に限られた古代の聖規を伝えたものである。神武朝に道臣命に勅して神を祭らせし折に、特に<ruby><rb>厳媛</rb><rp>(</rp><rt>イカシヒメ</rt><rp>)</rp></ruby>の名を賜ったのもこれがためで〔十六〕、今に神社または民間に於ける祭事に、男性が女装して勤めるのも〔十七〕、亦古き教䡄を残したものである。神功皇后が、畏くも国母の身を以て、躬から神の<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>シロ</rt><rp>)</rp></ruby>となられたのも、勿論皇后が女性であらせられた為めである。


山路氏も言われた如く、女祝、女禰宜こそ、我国の聖職であって、男子がこれに代ったのは、寧ろ変則であった。前掲の梁塵秘抄に『<ruby><rb>東</rb><rp>(</rp><rt>アヅマ</rt><rp>)</rp></ruby>には女はなきか<ruby><rb>男巫</rb><rp>(</rp><rt>ヲトコミコ</rt><rp>)</rp></ruby>、さればや神も男には憑く』とあるのは、その変則を詠じたものである。而して此の女性が即ち巫女であったのであるから、我国の古代は女性が祭祀の中心であり、その神道が巫女教であったことは明確なる事実である。
山路氏も言われた如く、女祝、女禰宜こそ、我国の聖職であって、男子がこれに代ったのは、寧ろ変則であった。前掲の梁塵秘抄に『<ruby><rb>東</rb><rp>(</rp><rt>アヅマ</rt><rp>)</rp></ruby>には女はなきか<ruby><rb>男巫</rb><rp>(</rp><rt>ヲトコミコ</rt><rp>)</rp></ruby>、さればや神も男には憑く』とあるのは、その変則を詠じたものである。而して此の女性が即ち巫女であったのであるから、我国の古代は女性が祭祀の中心であり、その神道が巫女教であったことは明確なる事実である。
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