日本巫女史/第一篇/第一章/第三節」を編集中

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我国の原始神道を説く者で、少しく我国と周囲民族との交渉を知る者は、殆ど言い合わせたように、アジアの北方民族の間に発生し暢達したシャーマン教との関係を言わぬ者はない。併し、我国の原始神道とシャーマン教との関係を学問的に考察して、これを早く我が学界に紹介したのは、故山路愛山氏であった〔一〇〕。これに就いて、愛山氏は実に左の如く述べている。
我国の原始神道を説く者で、少しく我国と周囲民族との交渉を知る者は、殆ど言い合わせたように、アジアの北方民族の間に発生し暢達したシャーマン教との関係を言わぬ者はない。併し、我国の原始神道とシャーマン教との関係を学問的に考察して、これを早く我が学界に紹介したのは、故山路愛山氏であった〔一〇〕。これに就いて、愛山氏は実に左の如く述べている。


[[画像:咸興巫女.gif|thumb|朝鮮咸鏡南道咸興の正装せる巫女(孫泰晋氏撮影)]]
: シャマンと云うのは、満洲の昔、即ち女真の時代に、女の<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>のことを云ったのであります。今の満洲語でも同じです。それから言葉の意味が移って、今の満洲では神を代表させる杆を矢張りシャマンと云います(中略)。斯ういう次第で、シャマン教と云うものは<ruby><rb>女巫</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の教えであって、神杆を立てて神を祭ることが特色である。然るに日本の昔でもその宗教は矢張り女巫の宗教でありました。そうして多少の変化はありますけれども、矢張り満洲のように神杆を用いたと思はれる形跡が無いではありませぬ。
: シャマンと云うのは、満洲の昔、即ち女真の時代に、女の<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>のことを云ったのであります。今の満洲語でも同じです。それから言葉の意味が移って、今の満洲では神を代表させる杆を矢張りシャマンと云います(中略)。斯ういう次第で、シャマン教と云うものは<ruby><rb>女巫</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の教えであって、神杆を立てて神を祭ることが特色である。然るに日本の昔でもその宗教は矢張り女巫の宗教でありました。そうして多少の変化はありますけれども、矢張り満洲のように神杆を用いたと思はれる形跡が無いではありませぬ。
: 今先ず日本の教えがシャマニズムと同じように、女巫の教であったと云うことを申上げます。日本では、昔は神主は多く女でありまして、男は少のう御座いました。それ故に斎主を斎姫とも云います。中頃になって、支那の文明を採用し、日本の文明が段々支那流になって来ましたが、それでも女巫の宗教であった時代の遺風として、其時代にも<ruby><rb>御巫</rb><rp>(</rp><rt>ミカンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>と云うのは女でありまして、娘で神を祭る事が出来る資格の者を採ったのであります。<ruby><rb>祝</rb><rp>(</rp><rt>ハフリ</rt><rp>)</rp></ruby>と云うのは神主のようなものであるけれども、これも中世までは女が多く、祝と<ruby><rb>禰宜</rb><rp>(</rp><rt>ネギ</rt><rp>)</rp></ruby>とを一つの社に並べて置いた時も、祝も禰宜も女の方が男よりも多う御座いました。中古でさえ此位であったから、其昔に於いて女が多く宗教に<ruby><rb>携</rb><rp>(</rp><rt>たずさ</rt><rp>)</rp></ruby>わったことは勿論のことであります。故に大昔には猿女君などと云つて、女を以て神に事えることを職とした種族もあった。天朝でも、天照大御神を祭り、大国魂神を祭るのは、<ruby><rb>皇女</rb><rp>(</rp><rt>ヒメミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の御役であった。胸肩神と云うのが九州にありますが、<ruby><rb>采女</rb><rp>(</rp><rt>ウネメ</rt><rp>)</rp></ruby>を遣って其祭を助けさせたことが、古い書物に書いてあります。神に事える女を<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、男性で神に事えるのを<ruby><rb>男巫</rb><rp>(</rp><rt>ヲカンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、始めは神に事える者は巫と云えば女性であると云うことが分り、男で神に事える者の方は後になって出来たゆえに、男と云う字を附けて男巫と云うようにして、男女を分ったと云うことを考えると、言葉の上から言っても、日本は始めは女巫の宗教の国であったと云うことが明白ではありませぬか。斯様に女性が宗教を掌るのは日本ばかりではない(中略)。地理の上から言うと、日本、朝鮮、満洲、蒙古と、地続きで何れも女巫の世界でありました。私は此事実に拠つても、斯う云う国は何れも女巫の宗教を信ずる国であったと云うことを断定するに足りると思う云々。
: 今先ず日本の教えがシャマニズムと同じように、女巫の教であったと云うことを申上げます。日本では、昔は神主は多く女でありまして、男は少のう御座いました。それ故に斎主を斎姫とも云います。中頃になって、支那の文明を採用し、日本の文明が段々支那流になって来ましたが、それでも女巫の宗教であった時代の遺風として、其時代にも<ruby><rb>御巫</rb><rp>(</rp><rt>ミカンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>と云うのは女でありまして、娘で神を祭る事が出来る資格の者を採ったのであります。<ruby><rb>祝</rb><rp>(</rp><rt>ハフリ</rt><rp>)</rp></ruby>と云うのは神主のようなものであるけれども、これも中世までは女が多く、祝と<ruby><rb>禰宜</rb><rp>(</rp><rt>ネギ</rt><rp>)</rp></ruby>とを一つの社に並べて置いた時も、祝も禰宜も女の方が男よりも多う御座いました。中古でさえ此位であったから、其昔に於いて女が多く宗教に<ruby><rb>携</rb><rp>(</rp><rt>たずさ</rt><rp>)</rp></ruby>わったことは勿論のことであります。故に大昔には猿女君などと云つて、女を以て神に事えることを職とした種族もあった。天朝でも、天照大御神を祭り、大国魂神を祭るのは、<ruby><rb>皇女</rb><rp>(</rp><rt>ヒメミコ</rt><rp>)</rp></ruby>の御役であった。胸肩神と云うのが九州にありますが、<ruby><rb>采女</rb><rp>(</rp><rt>ウネメ</rt><rp>)</rp></ruby>を遣って其祭を助けさせたことが、古い書物に書いてあります。神に事える女を<ruby><rb>巫</rb><rp>(</rp><rt>カンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、男性で神に事えるのを<ruby><rb>男巫</rb><rp>(</rp><rt>ヲカンナギ</rt><rp>)</rp></ruby>と云い、始めは神に事える者は巫と云えば女性であると云うことが分り、男で神に事える者の方は後になって出来たゆえに、男と云う字を附けて男巫と云うようにして、男女を分ったと云うことを考えると、言葉の上から言っても、日本は始めは女巫の宗教の国であったと云うことが明白ではありませぬか。斯様に女性が宗教を掌るのは日本ばかりではない(中略)。地理の上から言うと、日本、朝鮮、満洲、蒙古と、地続きで何れも女巫の世界でありました。私は此事実に拠つても、斯う云う国は何れも女巫の宗教を信ずる国であったと云うことを断定するに足りると思う云々。
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山路氏は生前野史国士を以て自ら任じ、他も許した人だけに、此の種の文化現象を専門に研究している者から見ると、論旨が大<u>まか</u>で観察も多少藪睨みのところがあるのは免れぬが、それにしても、当時にあって、専門外の同氏が早く此の点に着眼したことは、氏が凡庸の史家でなかったことを証拠立てると同時に、永く此の研究の権輿者たる光栄を荷うものである。私が長々と氏の講演を引用したのも、生前に知遇を受けていたばかりでなく、全く此の微意に外ならぬのである。而して最近になっては鳥居龍蔵氏を始め、上田万年氏、白鳥庫吉氏を重なるものとし〔一一〕、此の外にも多くの研究者を出している。
山路氏は生前野史国士を以て自ら任じ、他も許した人だけに、此の種の文化現象を専門に研究している者から見ると、論旨が大<u>まか</u>で観察も多少藪睨みのところがあるのは免れぬが、それにしても、当時にあって、専門外の同氏が早く此の点に着眼したことは、氏が凡庸の史家でなかったことを証拠立てると同時に、永く此の研究の権輿者たる光栄を荷うものである。私が長々と氏の講演を引用したのも、生前に知遇を受けていたばかりでなく、全く此の微意に外ならぬのである。而して最近になっては鳥居龍蔵氏を始め、上田万年氏、白鳥庫吉氏を重なるものとし〔一一〕、此の外にも多くの研究者を出している。


[[画像:蘇塗.gif|thumb|朝鮮にて神祭に建てる蘇塗(孫泰晋氏撮影)]]
原始神道が巫女教であったことは、山路氏の研究でその要領は尽きているのであるが、併し私は此の研究の総てを無条件で受け容れる者ではない。成る程、我国の原始神道は、山路氏の言われた如く、(一)地理的に見てシャマニズムの圏内に入るものであろうし、(二)教理的に見て共通の点が多くあるし、(三)祭儀的に見て類似の形式が尠くないことだけは異存もないが、これより一歩すすめて、原始神道は直ちにシャマニズムなりと言うに至っては、私としては如何にするにも承認することが出来ぬのである。専門外の研究ではあるが、現存の学者中にも原始神道即ちシャマニズムと考えている者も少くないようであるから、此の機会を利用して私の考えているところを述べるとする。
原始神道が巫女教であったことは、山路氏の研究でその要領は尽きているのであるが、併し私は此の研究の総てを無条件で受け容れる者ではない。成る程、我国の原始神道は、山路氏の言われた如く、(一)地理的に見てシャマニズムの圏内に入るものであろうし、(二)教理的に見て共通の点が多くあるし、(三)祭儀的に見て類似の形式が尠くないことだけは異存もないが、これより一歩すすめて、原始神道は直ちにシャマニズムなりと言うに至っては、私としては如何にするにも承認することが出来ぬのである。専門外の研究ではあるが、現存の学者中にも原始神道即ちシャマニズムと考えている者も少くないようであるから、此の機会を利用して私の考えているところを述べるとする。


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