日本巫女史/第一篇/第七章/第三節」を編集中

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我が古代人が、高天原に在す神々を地上に<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>オ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>オロ</rt><rp>)</rp></ruby>すに就いて、如何なる方法が最も原始的かというに、私の考えたところでは、神の<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>シロ</rt><rp>)</rp></ruby>として樹てたる御柱(故愛山氏が韓国の神桿と似たものと論じたものである)の周囲を<ruby><rb>匝</rb><rp>(</rp><rt>メグ</rt><rp>)</rp></ruby>ることであったと信じている〔一〕、諾冊二尊が天ノ御柱を行き廻られたのは即ちそれであって、今に信仰に篤き者が神社に詣でた折に社殿を匝るのは、此の面影を伝えているものと考えるのである。併しながら、是れは単に高きに在す神を地上に降すだけであって、その<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>オロ</rt><rp>)</rp></ruby>した神を身に<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>らしめ、然も神の意を人に告げる所謂「霊媒者」又は「託宣者」となるには、如何なる方法が用いられたであろうか。而して私は是れに就いては、二つの方法が存したと考えている。即ち第一は、既述した鈿女命の場合に見えし如く、空槽伏せて踏み轟かし、跳躍して<ruby><rb>顕神明之憑談</rb><rp>(</rp><rt>カムガカリ</rt><rp>)</rp></ruby>の状態に入るのと、第二は畏くも神功皇后が行わせられた方法である。「日本書紀」巻九神功皇后九年の条に、左の如き記事が載せてある。
我が古代人が、高天原に在す神々を地上に<ruby><rb>招</rb><rp>(</rp><rt>オ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>オロ</rt><rp>)</rp></ruby>すに就いて、如何なる方法が最も原始的かというに、私の考えたところでは、神の<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>代</rb><rp>(</rp><rt>シロ</rt><rp>)</rp></ruby>として樹てたる御柱(故愛山氏が韓国の神桿と似たものと論じたものである)の周囲を<ruby><rb>匝</rb><rp>(</rp><rt>メグ</rt><rp>)</rp></ruby>ることであったと信じている〔一〕、諾冊二尊が天ノ御柱を行き廻られたのは即ちそれであって、今に信仰に篤き者が神社に詣でた折に社殿を匝るのは、此の面影を伝えているものと考えるのである。併しながら、是れは単に高きに在す神を地上に降すだけであって、その<ruby><rb>降</rb><rp>(</rp><rt>オロ</rt><rp>)</rp></ruby>した神を身に<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>らしめ、然も神の意を人に告げる所謂「霊媒者」又は「託宣者」となるには、如何なる方法が用いられたであろうか。而して私は是れに就いては、二つの方法が存したと考えている。即ち第一は、既述した鈿女命の場合に見えし如く、空槽伏せて踏み轟かし、跳躍して<ruby><rb>顕神明之憑談</rb><rp>(</rp><rt>カムガカリ</rt><rp>)</rp></ruby>の状態に入るのと、第二は畏くも神功皇后が行わせられた方法である。「日本書紀」巻九神功皇后九年の条に、左の如き記事が載せてある。


: 三月壬申朔、皇后選吉日入斎宮、親為神主、則命武内宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主、為<ruby><rb>審神者</rb><rp>(</rp><rt>サニハ</rt><rp>)</rp></ruby>、因以千繒高繒置琴頭尾、而請曰、先日教天皇(中山曰。仲哀天皇)者誰神也、願欲知其名、逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢国之、百伝度逢県之、拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木厳之御魂天疎向津姫命焉。亦問之、除是神有神乎、答曰、幡荻穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也、問亦有耶、答曰、於天事代、於虚事代、玉籤入彦厳之事代主神有之也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。於是審神者曰、今不答而更後有言乎、則対曰、於日向国橘小門之水底所居而、水葉稚之出居神、名表筒男、中筒男、底筒男神之有也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。遂不言且神矣。時得神語、随教而祭云々。(国史大系本)
: 三月壬申朔、皇后選吉日入斎宮、親為神主、則命武内宿禰令撫琴、喚中臣烏賊津使主、為<ruby><rb>審神者</rb><rp>(</rp><rt>サニハ</rt><rp>)</rp></ruby>、因以千桧高桧置琴頭尾、而請曰、先日教天皇(中山曰。仲哀天皇)者誰神也、願欲知其名、逮于七日七夜、乃答曰、神風伊勢国之、百伝度逢県之、拆鈴五十鈴宮所居神、名撞賢木厳之御魂天疎向津姫命焉。亦問之、除是神有神乎、答曰、幡荻穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也、問亦有耶、答曰、於天事代、於虚事代、玉籤入彦厳之事代主神有之也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。於是審神者曰、今不答而更後有言乎、則対曰、於日向国橘小門之水底所居而、水葉稚之出居神、名表筒男、中筒男、底筒男神之有也。問亦有耶、答曰、有無之不知焉。遂不言且神矣。時得神語、随教而祭云々。(国史大系本)


神功皇后の征韓の大事業は、我が国家の発展上に一時代を劃した偉勲であった。従って、これを遂行せらるるに就いては、当時の習礼となっていた神々の加護を仰ぐため、神意に聴くこととなっていたので、皇后の尊き御身でありながら、此の神事を行わせられたのである。それ故に、その儀式において荘重を極め、その精神において原始神道の古義を遵び、我が三千年の歴史を通じて、寔に一例しか見ることの出来ぬ聖範を貽されているのである。「日本書紀」によれば、皇后は、一年の間に三度までも神に<ruby><rb>託</rb><rp>(</rp><rt>ツカ</rt><rp>)</rp></ruby>れていて、全く神人としての生活を送られていたのである。本居翁が『此の大后にかく神の<ruby><rb>託</rb><rp>(</rp><rt>ヨラ</rt><rp>)</rp></ruby>し賜へりしは、尋常の細事には非ず、永く財宝国を言向定め賜へる起本にしあれば、甚も重き事ぞかし』と説かれし如く〔二〕、国運を賭しての出征を神慮に聴くのであるから、皇后の御心尽し拝察するだに畏きことである。而して此の大事を決定すべき神意が、如何にして伝えられたか、それを前掲の「日本書紀」の記事に徴すると、
神功皇后の征韓の大事業は、我が国家の発展上に一時代を劃した偉勲であった。従って、これを遂行せらるるに就いては、当時の習礼となっていた神々の加護を仰ぐため、神意に聴くこととなっていたので、皇后の尊き御身でありながら、此の神事を行わせられたのである。それ故に、その儀式において荘重を極め、その精神において原始神道の古義を遵び、我が三千年の歴史を通じて、寔に一例しか見ることの出来ぬ聖範を貽されているのである。「日本書紀」によれば、皇后は、一年の間に三度までも神に<ruby><rb>託</rb><rp>(</rp><rt>ツカ</rt><rp>)</rp></ruby>れていて、全く神人としての生活を送られていたのである。本居翁が『此の大后にかく神の<ruby><rb>託</rb><rp>(</rp><rt>ヨラ</rt><rp>)</rp></ruby>し賜へりしは、尋常の細事には非ず、永く財宝国を言向定め賜へる起本にしあれば、甚も重き事ぞかし』と説かれし如く〔二〕、国運を賭しての出征を神慮に聴くのであるから、皇后の御心尽し拝察するだに畏きことである。而して此の大事を決定すべき神意が、如何にして伝えられたか、それを前掲の「日本書紀」の記事に徴すると、
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: 一、吉日を選んで斎宮に入られたこと
: 一、吉日を選んで斎宮に入られたこと
: 二、皇后親らが神主となられたこと
: 二、皇后親らが神主となられたこと
: 三、武内宿禰に琴を弾かせ、然もその琴の頭尾に千繒高繒を置かれたこと
: 三、武内宿禰に琴を弾かせ、然もその琴の頭尾に千桧高桧を置かれたこと
: 四、<ruby><rb>烏賊津使主</rb><rp>(</rp><rt>イカツノオミ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となし、問答体を以て託宣せられたこと
: 四、<ruby><rb>烏賊津使主</rb><rp>(</rp><rt>イカツノオミ</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となし、問答体を以て託宣せられたこと
: 五、七日七夜に逮んで祈念せられたこと
: 五、七日七夜に逮んで祈念せられたこと
58行目: 58行目:
然るに、後世の巫女(私の所謂口寄系の市子)が降神の際に、大弓小弓をたたき、此の弓の起原は、古代天鈿女命が琴の代りに六張の弓を並べて弦を叩きしに由るなどと言うているのは、これは何事にも無理勿体をつけたがる陋劣なる心理から出たもので、我が古代の正しい記録には、かかる事は全く見えず、且つ神を降すに弓を用いることは、我が固有の呪術では無いと考えているので、此の事は巫女の徒が弓を用い始めた支那の呪術の輸入された習合時代に詳述することとする。
然るに、後世の巫女(私の所謂口寄系の市子)が降神の際に、大弓小弓をたたき、此の弓の起原は、古代天鈿女命が琴の代りに六張の弓を並べて弦を叩きしに由るなどと言うているのは、これは何事にも無理勿体をつけたがる陋劣なる心理から出たもので、我が古代の正しい記録には、かかる事は全く見えず、且つ神を降すに弓を用いることは、我が固有の呪術では無いと考えているので、此の事は巫女の徒が弓を用い始めた支那の呪術の輸入された習合時代に詳述することとする。


更に<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しする琴の頭尾に、千<ruby><rb>繒</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>高<ruby><rb>繒</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>を置いたと云う事に就いては、古くから学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬのであるが、私の専攻している民俗神道学の方面から見ると、繒は即ち旛の意であって、細長い小旛を幾本か立てたのを、かく千繒高繒と形容したものと考えている。而して此の小旛を立てる目的は、琴の音につれて降りし神が歩んで来る道しるべに外ならぬものであって、賀茂の<ruby><rb>御阿礼</rb><rp>(</rp><rt>ミアレ</rt><rp>)</rp></ruby>の神事の折に、阿礼木に附ける<ruby><rb>阿礼旛</rb><rp>(</rp><rt>アレハタ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じものであると信じている。更に民俗学的に言えば、蒙古のハタツクと称する、一本の箭の頭の所へ一面の鏡と、長さ二三尺ほどの色の布とを結びつけた〔一八〕その布と、同じ<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はた</rt><rp>)</rp></ruby>らきを持つものと考えている。更に一段と手近の例を示せば、三河国北設楽郡の山村に残っている花祭の踊りの庭に、ボテ(梵天の意か)から湯蓋(湯立釜を覆えるもの)まで、中空に曳き架ける縄と同じく〔一九〕、神の来る道のしるべと見るのが穏当であろうと考えるのである。
更に<ruby><rb>神降</rb><rp>(</rp><rt>カミオロ</rt><rp>)</rp></ruby>しする琴の頭尾に、千<ruby><rb>繒</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>高<ruby><rb>繒</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>を置いたと云う事に就いては、古くから学者の間に異説があって、今に定説を聞かぬのであるが、私の専攻している民俗神道学の方面から見ると、繒は即ち旛の意であって、細長い小旛を幾本か立てたのを、かく千桧高桧と形容したものと考えている。而して此の小旛を立てる目的は、琴の音につれて降りし神が歩んで来る道しるべに外ならぬものであって、賀茂の<ruby><rb>御阿礼</rb><rp>(</rp><rt>ミアレ</rt><rp>)</rp></ruby>の神事の折に、阿礼木に附ける<ruby><rb>阿礼旛</rb><rp>(</rp><rt>アレハタ</rt><rp>)</rp></ruby>と同じものであると信じている。更に民俗学的に言えば、蒙古のハタツクと称する、一本の箭の頭の所へ一面の鏡と、長さ二三尺ほどの色の布とを結びつけた〔一八〕その布と、同じ<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はた</rt><rp>)</rp></ruby>らきを持つものと考えている。更に一段と手近の例を示せば、三河国北設楽郡の山村に残っている花祭の踊りの庭に、ボテ(梵天の意か)から湯蓋(湯立釜を覆えるもの)まで、中空に曳き架ける縄と同じく〔一九〕、神の来る道のしるべと見るのが穏当であろうと考えるのである。


第四は、烏賊津使主(中山曰。「新撰姓氏録」には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である)を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となされたことであるが、此の審神とは「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に、神后紀を引き、その分注に『審神者、言審察神明託宣之語也』云々とあり〔二〇〕、更に「釈日本紀」巻十一述義の条に『兼方案之、審神者也、分明請知所案之神之人也』とある〔二一〕。此の両説で、審神の解釈は、要を尽しているのであるが、猶これを平易に言えば、審神とは神の憑り代となれる者に問いかけ、答えを得て、その託宣の精細と諒解とを図るものである。後世の修験道の間に行われた<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り祈祷の場合には、神の憑り代となる者を中座(又は御幣持ち、ヨリキとも云う)と称し、審神の役に当る者を<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したものである。口寄の市子にも又た此の種の役割があって、信濃巫女では荷持と称する者が是れに当った。詳細は後章に記すので、茲では概要を述べるにとどめる。
第四は、烏賊津使主(中山曰。「新撰姓氏録」には雷大臣に作る。宗源神事の中臣系の人で卜部である)を<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>サニワ</rt><rp>)</rp></ruby>となされたことであるが、此の審神とは「政事要略」第二十八賀茂臨時祭の条に、神后紀を引き、その分注に『審神者、言審察神明託宣之語也』云々とあり〔二〇〕、更に「釈日本紀」巻十一述義の条に『兼方案之、審神者也、分明請知所案之神之人也』とある〔二一〕。此の両説で、審神の解釈は、要を尽しているのであるが、猶これを平易に言えば、審神とは神の憑り代となれる者に問いかけ、答えを得て、その託宣の精細と諒解とを図るものである。後世の修験道の間に行われた<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り祈祷の場合には、神の憑り代となる者を中座(又は御幣持ち、ヨリキとも云う)と称し、審神の役に当る者を<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したものである。口寄の市子にも又た此の種の役割があって、信濃巫女では荷持と称する者が是れに当った。詳細は後章に記すので、茲では概要を述べるにとどめる。
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