「日本巫女史/第一篇/第七章/第三節」を編集中
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: 日向の国の橘の小門の<ruby><rb>水底</rb><rp>(</rp><rt>ミナソコ</rt><rp>)</rp></ruby>にいて、水葉の<ruby><rb>稚</rb><rp>(</rp><rt>ワカヤカ</rt><rp>)</rp></ruby>に出て居る神 | : 日向の国の橘の小門の<ruby><rb>水底</rb><rp>(</rp><rt>ミナソコ</rt><rp>)</rp></ruby>にいて、水葉の<ruby><rb>稚</rb><rp>(</rp><rt>ワカヤカ</rt><rp>)</rp></ruby>に出て居る神 | ||
云々と答えられているが、かく一句を発する毎に<ruby><rb>冠辞</rb><rp>(</rp><rt>まくらことば</rt><rp>)</rp></ruby>を用い、更に語意を強め、用語を荘重にするために<ruby><rb>折句</rb><rp>(</rp><rt>おりく</rt><rp>)</rp></ruby> | 云々と答えられているが、かく一句を発する毎に<ruby><rb>冠辞</rb><rp>(</rp><rt>まくらことば</rt><rp>)</rp></ruby>を用い、更に語意を強め、用語を荘重にするために<ruby><rb>折句</rb><rp>(</rp><rt>おりく</rt><rp>)</rp></ruby>を用いているところは、立派な叙事詩として見るべきものがある。我国の誌は叙事詩に始まり、然もその叙事詩は必ず一人称を以て叙べられている。これは神の託宣に胚胎し、併せて神語に発生した為めである。而して此の事は、アイヌの<ruby><rb>叙事詩</rb><rp>(</rp><rt>ユカラ</rt><rp>)</rp></ruby>に徴するも、琉球の<ruby><rb>託宣</rb><rp>(</rp><rt>ミセセル</rt><rp>)</rp></ruby>に見るも、決して衍らぬことを証明しているのである。 | ||
私は本節を終るに際し、特に言明して置かねばならぬ事がある。それは外でもなく、私は決して神功皇后を以て、巫女なり霊媒者なりと申すものでは無く、ただ皇后が親ら行わせられた神事の形式、内容、及び結果が、偶々後世の巫女及び霊媒者の行うところと似通っていたに過ぎぬと云うことである。私の不文のため、意余って筆足らず、或は皇后を以て巫女または霊媒者と誤解させる点がありはせぬかと思うと畏きに堪えず、ここに此の事を附記して不文の罪を謝する次第である。 | 私は本節を終るに際し、特に言明して置かねばならぬ事がある。それは外でもなく、私は決して神功皇后を以て、巫女なり霊媒者なりと申すものでは無く、ただ皇后が親ら行わせられた神事の形式、内容、及び結果が、偶々後世の巫女及び霊媒者の行うところと似通っていたに過ぎぬと云うことである。私の不文のため、意余って筆足らず、或は皇后を以て巫女または霊媒者と誤解させる点がありはせぬかと思うと畏きに堪えず、ここに此の事を附記して不文の罪を謝する次第である。 |