「日本巫女史/第一篇/第七章/第三節」を編集中
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が知られるのである。私は此の記事こそ、古代の巫女の作法を考覈する上に全く唯一無二の重要なるものと信ずるので、これに関する先覚の研究を参酌し、私見を併せ加えて、やや詳細に記述したいと思うのである。 | が知られるのである。私は此の記事こそ、古代の巫女の作法を考覈する上に全く唯一無二の重要なるものと信ずるので、これに関する先覚の研究を参酌し、私見を併せ加えて、やや詳細に記述したいと思うのである。 | ||
第一は、皇后が吉日を選んで斎宮に入られた事であるが、当時、我国には<ruby><rb>日奉部</rb><rp>(</rp><rt>ヒマツリベ</rt><rp>)</rp></ruby>と称して、日の吉凶を判定する部曲があった〔三〕。これが後に<ruby><rb>日置部</rb><rp>(</rp><rt>ヘキベ</rt><rp>)</rp></ruby>となり、国々に土着して、専ら天文道の暦日の事を掌っていたのである。祝詞などにも『八十日<small>波</small>在<small>止毛</small>今日<small>能</small>生日<small>能</small>足日<small>爾</small> | 第一は、皇后が吉日を選んで斎宮に入られた事であるが、当時、我国には<ruby><rb>日奉部</rb><rp>(</rp><rt>ヒマツリベ</rt><rp>)</rp></ruby>と称して、日の吉凶を判定する部曲があった〔三〕。これが後に<ruby><rb>日置部</rb><rp>(</rp><rt>ヘキベ</rt><rp>)</rp></ruby>となり、国々に土着して、専ら天文道の暦日の事を掌っていたのである。祝詞などにも『八十日<small>波</small>在<small>止毛</small>今日<small>能</small>生日<small>能</small>足日<small>爾</small>』と見えているから、古くから日の吉凶を定める信仰と、方法とが存していたに違いない。斎宮は、皇后が此の神事を行わせたもうに就き、新に設けられたもので、今にその故址が筑前国糟屋郡山田村大字猪野に在るということである〔四〕。かく吉日を選んで斎宮に入り、神事を行われたのは、此の神事の目的が、前に述べたように国家の運命にも関するほどの重大事であったので、かく荘厳を極めたものと考える。「神武紀」などにも、戦前または戦争中に、神慮を問わせられたこともあるが、これ程に重く取り扱わなかったのは、その事件の軽重によられたことと思われる。 | ||
第二に、皇后が専ら神主となられたことであるが、これには先ず神主という語義から考えて見る必要がある。我国で神主の語の所見は、「古事記」崇神朝に、 | |||
: 以意富多々泥古命為神主、而於御諸山拝祭意富美和之大神云々。 | : 以意富多々泥古命為神主、而於御諸山拝祭意富美和之大神云々。 | ||
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とあるのが、それである。而して此の語義に就いて、本居翁は『神主は神に奉仕る<ruby><rb>主人</rb><rp>(</rp><rt>ヌシ</rt><rp>)</rp></ruby>たる人を云ふ称なり』と先ず定義を下し、更に、 | とあるのが、それである。而して此の語義に就いて、本居翁は『神主は神に奉仕る<ruby><rb>主人</rb><rp>(</rp><rt>ヌシ</rt><rp>)</rp></ruby>たる人を云ふ称なり』と先ず定義を下し、更に、 | ||
: | : 思フに、神主と云う称は、もと此ノ段(中山曰。神功紀)の如く、神の命を請奉る時に、其神の託て命のりあるべき人を、初メより定め設くる其人を云ふ称にぞありけむ、かくてまた神に奉仕る人を云ふ称と為れるも、<ruby><rb>神託</rb><rp>(</rp><rt>カムガカリ</rt><rp>)</rp></ruby>のために設くる人よりうつれるなるべし。 | ||
と説明している〔五〕。これに従うと、神主とは、神の託宣を人に<ruby><rb>中言</rb><rp>(</rp><rt>ナカコト</rt><rp>)</rp></ruby>する者という狭義のものとなってしまうのである。飯田武郷翁は本居説を認めながらも、猶お | と説明している〔五〕。これに従うと、神主とは、神の託宣を人に<ruby><rb>中言</rb><rp>(</rp><rt>ナカコト</rt><rp>)</rp></ruby>する者という狭義のものとなってしまうのである。飯田武郷翁は本居説を認めながらも、猶お |