日本巫女史/第一篇/第七章/第二節」を編集中

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[[画像:出雲巫女舞.gif|thumb|出雲大社における巫女舞]]
[[画像:出雲巫女舞.gif|thumb|出雲大社における巫女舞]]
神に対して行うた祭祀の起原が墓前であったか、社前祭であったかに就いては、昔から相当に異説が存している。それと同時に、世の謂ゆる官僚神道家なる者は、兎角に社前祭説を主張して、墓前祭説を排斥する傾きがある。勿論これは神道の発生的方面を故意に閑却して、無理勿体を付けたがる手段なのである〔一〕。併し、我国の祭祀は、文献的に見るも、民俗的に見るも、墓前祭に始まっていることは明確なる事実である。「日本書紀」の一書に、
神に対して行うた祭祀の起原が墓前であったか、社前祭であったかに就いては、昔から相当に異説が存している。それと同時に、世の謂ゆる官僚神道家なる者は、兎角に社前祭説を主張して、墓前祭説を排斥する傾きがある。勿論これは神道の発生的方面を故意にに閑却して、無理勿体を付けたがる手段なのである〔一〕。併し、我国の祭祀は、文献的に見るも、民俗的に見るも、墓前祭に始まっていることは明確なる事実である。「日本書紀」の一書に、


: 伊弉冉尊火神生みます時に、灼かれて神退去りましき。<ruby><rb>故</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>れ紀伊国の有馬村に葬りまつる。<ruby><rb>土俗</rb><rp>(</rp><rt>クニビト</rt><rp>)</rp></ruby>此の神の魂を祭るに、花ある時には、亦花を以て祭り、又鼓、<ruby><rb>吹</rb><rp>(</rp><rt>フエ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>幡旗</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>を用て歌ひ舞ひて祭る云々。
: 伊弉冉尊火神生みます時に、灼かれて神退去りましき。<ruby><rb>故</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>れ紀伊国の有馬村に葬りまつる。<ruby><rb>土俗</rb><rp>(</rp><rt>クニビト</rt><rp>)</rp></ruby>此の神の魂を祭るに、花ある時には、亦花を以て祭り、又鼓、<ruby><rb>吹</rb><rp>(</rp><rt>フエ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>幡旗</rb><rp>(</rp><rt>ハタ</rt><rp>)</rp></ruby>を用て歌ひ舞ひて祭る云々。
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更にこれを、民俗学的に見るも、墓前祭が社前祭より古いことが知られるのである。由来、太古の民族は、人は死ぬとその霊魂は黄泉国へ往く(霊魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考えるようになったのは、やや進歩した信仰である)ものと信じていたが、茲に考慮して見なければならぬ問題は、その霊魂は何者の導きも待たずに、自然と其処へ往ったものであるか、それとも何者か其処へ往けるように導きをしたのであるかと云う事である。それと同時に霊魂が果して黄泉国へ往ったか否かという事を、何者がこれを証明したかと云う点である。而して此の問題たるや、原始神道における霊魂観として、相当に関心しなければならぬ事であるにもかかわらず、従来の国学者とか、神道家とか云う者で、遂にこれに触れたことのあるのを耳にせぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此の問題を説明し得るとは信じていぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考えを極めて端的に言えば、それ等の事を行うた者は、即ち巫女であったと信じている。
更にこれを、民俗学的に見るも、墓前祭が社前祭より古いことが知られるのである。由来、太古の民族は、人は死ぬとその霊魂は黄泉国へ往く(霊魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考えるようになったのは、やや進歩した信仰である)ものと信じていたが、茲に考慮して見なければならぬ問題は、その霊魂は何者の導きも待たずに、自然と其処へ往ったものであるか、それとも何者か其処へ往けるように導きをしたのであるかと云う事である。それと同時に霊魂が果して黄泉国へ往ったか否かという事を、何者がこれを証明したかと云う点である。而して此の問題たるや、原始神道における霊魂観として、相当に関心しなければならぬ事であるにもかかわらず、従来の国学者とか、神道家とか云う者で、遂にこれに触れたことのあるのを耳にせぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此の問題を説明し得るとは信じていぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考えを極めて端的に言えば、それ等の事を行うた者は、即ち巫女であったと信じている。


私が改めて言うまでもなく、我が古代における屍体の始末は、素尊の言われた如く「<ruby><rb>顕見蒼生</rb><rp>(</rp><rt>アオヒドグサ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>奥津棄戸</rb><rp>(</rp><rt>オキツスタヘ</rt><rp>)</rp></ruby>」で、野外に放棄するほどの原始的のものであって、まだ葬儀とか、葬礼とかいうものが、厳かに執り行われていなかったのである〔二〕。かく屍体が無造作に取り扱われたのに就いては、二つの理由がある。第一は屍体は霊魂の抜け殻と考えたことで、第二は屍体の腐敗を嫌ったためである。而して此の屍体を放棄することが、巫女の職務なのである。我国で、祝——即ち巫祝の徒をハフリと称することに就いては、羽振りの義であって、神官が着た浄衣の袖を鳥の羽の如く振るので、此の名ありと云う説もあるが〔三〕、元より<ruby><rb>民間語原説</rb><rp>(</rp><rt>エティモロジー</rt><rp>)</rp></ruby>であって採るに足らぬ。これに較べると、ハフリは<ruby><rb>投</rb><rp>(</rp><rt>ハウ</rt><rp>)</rp></ruby>るの意で、古く屍体を投げ棄てる役を勤めていたので、遂に此名を負うに至ったものと解すべきである〔四〕。而して葬をハフリと訓んだことも、又この意であって、「万葉集」巻二に、高市皇子の殯宮のとき、柿本人麿が詠じた長歌の一節に、
私が改めて言うまでもなく、我が古代における屍体の始末は、素尊の言われた如く「<ruby><rb>顕見蒼生</rb><rp>(</rp><rt>アオヒドグサ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>奥津棄戸</rb><rp>(</rp><rt>オキツスタヘ</rt><rp>)</rp></ruby>」で、野外に放棄するほどの原始的のものであって、まだ葬儀とか、葬礼とかいうものが、厳かに執り行われはいなかったのである〔二〕。かく屍体が無造作に取り扱われたのに就いては、二つの理由がある。第一は屍体は霊魂の抜け殻と考えたことで、第二は屍体の腐敗を嫌ったためである。而して此の屍体を放棄することが、巫女の職務なのである。我国で、祝——即ち巫祝の徒をハフリと称することに就いては、羽振りの義であって、神官が着た浄衣の袖を鳥の羽の如く振るので、此の名ありと云う説もあるが〔三〕、元より<ruby><rb>民間語原説</rb><rp>(</rp><rt>エスモロギー</rt><rp>)</rp></ruby>であって採るに足らぬ。これに較べると、ハフリは<ruby><rb>投</rb><rp>(</rp><rt>ハウ</rt><rp>)</rp></ruby>るの意で、古く屍体を投げ棄てる役を勤めていたので、遂に此名を負うに至ったものと解すべきである〔四〕。而して葬をハフリと訓んだことも、又この意であって、「万葉集」巻二に、高市皇子の殯宮のとき、柿本人麿が詠じた長歌の一節に、


: 言いさへぐ百済の原ゆ、<ruby><rb>神葬</rb><rp>(</rp><rt>カミハフ</rt><rp>)</rp></ruby>り葬り座して、朝もよし城の上に宮を、常宮と定め奉りて、神ながら鎮りましぬ……
: 言いさへぐ百済の原ゆ、<ruby><rb>神葬</rb><rp>(</rp><rt>カミハフ</rt><rp>)</rp></ruby>り葬り座して、朝もよし城の上に宮を、常宮と定め奉りて、神ながら鎮りましめ……


とあるのや、同集巻一三の長歌の一節に、
とあるのや、同集巻一三の長歌の一節に、
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とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。
とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。


然るに、古代においては、物を斬り断つことも同じくハフリと言うていた。「崇神記」に、大毘古命が建波邇安王の兵と戦い『其の軍士を斬屠りし故に、其地の号を<ruby><rb>波布理曾能</rb><rp>(</rp><rt>ハフリソノ</rt><rp>)</rp></ruby>となも謂ふ』とあるのや、「万葉集」巻十三の長歌の一節に『剣太刀磨きし心を、天雲に思ひ<ruby><rb>散</rb><rp>(</rp><rt>ハフ</rt><rp>)</rp></ruby>らし、<ruby><rb>展</rb><rp>(</rp><rt>コ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ転び<ruby><rb>泥</rb><rp>(</rp><rt>ヒツ</rt><rp>)</rp></ruby>ち泣けども、飽足らぬかも』などを始めとして、此の外にも斬ることをハフリと云うた例は多く存し、現に屠の字をハフルと訓んでいるほどである。然らば何故に、我が古代にあっては、葬ることと斬ることとを同じくハフリと言わせ、併もそれを巫祝の上まで及ぼして、これをハフリと称したのであろうか。問題は愈々困難になって来たが、これに対する私の考えは略ぼ左の如きものである。
然るに、古代においては、物を斬り断つことも同じくハフリと言うていた。「崇神記」に、大毘古命が建波邇安王の兵と戦い『其の軍士を斬屠りし故に、其地の号を<ruby><rb>波布理曾能</rb><rp>(</rp><rt>ハフリソノ</rt><rp>)</rp></ruby>となも謂ふ』とあるのや、「万葉集」巻一三の長歌の一節に『剣太刀磨きし心を、天雲に思ひ<ruby><rb>散</rb><rp>(</rp><rt>ハフ</rt><rp>)</rp></ruby>らし、<ruby><rb>展</rb><rp>(</rp><rt>コ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ転び<ruby><rb>泥</rb><rp>(</rp><rt>ヒツ</rt><rp>)</rp></ruby>ち泣けども、飽足らぬかも』などを始めとして、此の外にも斬ることをハフリと云うた例は多く存し、現に屠の字をハフルと訓んでいるほどである。然らば何故に、我が古代にあっては、葬ることと斬ることとを同じくハフリと言わせ、併もそれを巫祝の上まで及ぼして、これをハフリと称したのであろうか。問題は愈々困難になって来たが、これに対する私の考えは略ぼ左の如きものである。


私見によれば、古く我国では屍体を葬るときは——勿論、その悉くではないが、[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|前]]に辻占の条に挙げたような変死を遂げた者の屍体は、これをその儘に葬ることなくして、屍体を幾つかに斬って埋める民俗が存していたのではなかろうか。記・紀の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬ったとあるのは、諾尊が此の神のために冊尊を喪うたという単なる憤怒の余りではなくして、かかる悪神は幾つかに斬って葬る習わしのあったことが、神話に反映したのではないかと想われる〔五〕。学友内藤吉之助氏が「史学」第三巻第七号に掲載された「喪かり考」は、此の問題に対して、大なる暗示を投じているものであって、私もこれを披閲して、尠からず教えられた所が在って存したのである。而して内藤氏に従えば、喪がりとは、従来の国学者が説けるが如き——殯宮の意味ばかりではなくして、此の間において、屍体に何等の処置が加えられたに相違ない。されば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語でなく、離すことを<u>さかり</u>と云うた。その<u>かり</u>の意味であるとて、言外に屍体に加えられた処置なるものが、私が茲に云う截断と同じものであることを論じている。実に卓見として敬服させられたのである。
私見によれば、古く我国では屍体を葬るときは——勿論、その悉くではないが、[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|前]]に辻占の条に挙げたような変死を遂げた者の屍体は、これをその儘に葬ることなくして、屍体を幾つかに斬って埋める民俗が存していたのではなかろうか。記・紀の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬ったとあるのは、諾尊が此の神のために冊尊を喪うたという単なる憤怒の余りではなくして、かかる悪神は幾つかに斬って葬る習わしのあったことが、神話に反映したのではないかと想われる〔五〕。学友内藤吉之助氏が「史学」第三巻第七号に掲載された「喪かり考」は、此の問題に対して、大なる暗示を投じているものであって、私もこれを披閲して、尠からず教えられた所が在って存したのである。而して内藤氏に従えば、喪がりとは、従来の国学者が説けるが如き——殯宮の意味ばかりではなくして、此の間において、屍体に何等の処置が加えられたに相違ない。されば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語でなく、離すことを<u>さかり</u>と云うた。その<u>かり</u>の意味であるとて、言外に屍体に加えられた処置なるものが、私が茲に云う截断と同じものであることを論じている。実に卓見として敬服させられたのである。
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[[画像:人身御供.gif|thumb|人身御供と巫女(皿皿郷談所載)]]
[[画像:人身御供.gif|thumb|人身御供と巫女(皿皿郷談所載)]]
而して更にこれを民間伝承に覓めんか、先ず最も有名なものとして誰でも知っているのは、奥州安達ヶ原の黒塚の伝説である。宮廷歌人であった平兼盛が『陸奥の安達ヶ原の黒塚に、鬼すむなりといふは誠か』と詠んでから、此の伝説は、専ら怪談として人口に膾炙されるようになってしまったが、これは当時の民俗として、妊婦が分娩に際し、その胎児を産出せずして死亡した場合には、妊婦の腹を割いて、胎児を取り出して埋葬する事が行われていたのを、居ながらにして名所を知るほどの歌人が聴きかじって鬼としたために、遂に怪談として伝わるようになってしまったのである。而して此の民俗は、アイヌ民族の間に近年まで行われたウフイと称するものと全く軌を一にしたものであって〔六〕、内地においても明治の中頃までは各地に行われたものである〔七〕。更に時代は降るが、陸奥国南津軽郡浪岡村大字五本松の加茂神社は、延暦年中に坂上田村麿が誅した女首悪路王の首を神体として祀り、隣村五郷村大字本郷の八幡神社は、同じ悪路王の片腕を祀ったもので、然もその神体は今に活きて損せずと云われているのや〔八〕、天慶乱に誅された平将門の首塚、胴塚、腕塚などが、東京を中心として各地に在ることなどは〔九〕、共に屍体を分割して埋めたことを物語っているのである。更に、丹波国北桑田郡周山村の八幡宮の縁起に至っては、此の伝説を最も詳細に尽している。社伝によれば、康平年中に源義家が安倍貞任の首を獲て帰洛し、これを埋める場所を占わしたところ、四つに截って東に山あり南に川ある池の四ヶ所に埋めよとの神託により、その地を覓めて同村に埋めたのであるが、猶お貞任の悪霊が荒びるのでそれを鎮めるために、宇佐八幡宮の分霊を勧請したのだと云うている〔一〇〕。
而して更にこれを民間伝承に覓めんか、先ず最も有名なものとして誰でも知っているのは、奥州安達ヶ原の黒塚の伝説である。宮廷歌人であった源兼盛が『陸奥の安達ヶ原の黒塚に、鬼すむなりといふは誠か』と詠んでから、此の伝説は、専ら怪談として人口に膾炙されるようになってしまったが、これは当時の民俗として、妊婦が分娩に際し、その胎児を産出せずして死亡した場合には、妊婦の腹を割いて、胎児を取り出して埋葬する事が行われていたのを、居ながらにして名所を知るほどの歌人が聴きかじって鬼としたために、遂に怪談として伝わるようになってしまったのである。而して此の民俗は、アイヌ民族の間に近年まで行われたウフイと称するものと全く軌を一にしたものであって〔六〕、内地においても明治の中頃までは各地に行われたものである〔七〕。更に時代は降るが、陸奥国南津軽郡浪岡村大字五本松の加茂神社は、延暦年中に坂上田村麿が誅した女首悪路王の首を神体として祀り、隣村五郷村大字本郷の八幡神社は、同じ悪路王の片腕を祀ったもので、然もその神体は今に活きて損せずと云われているのや〔八〕、天慶乱に誅された平将門の首塚、胴塚、腕塚などが、東京を中心として各地に在ることなどは〔九〕、共に屍体を分割して埋めたことを物語っているのである。更に、丹波国北桑田郡周山村の八幡宮の縁起に至っては、此の伝説を最も詳細に尽している。社伝によれば、康平年中に源義家が安倍貞任の首を獲て帰洛し、これを埋める場所を占わしたところ、四つに截って東に山あり南に川ある池の四ヶ所に埋めよとの神託により、その地を覓めて同村に埋めたのであるが、猶お貞任の悪霊が荒びるのでそれを鎮めるために、宇佐八幡宮の分霊を勧請したのだと云うている〔一〇〕。


まだ、此の外にも、支解分葬の伝説は各地に存しているが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兎に角、我が古代で特種の屍体を截断した民俗のあったことは、事実として認めても差支ないように考えられる。勿論、此の事実の発足点が、怨霊を恐れた信仰に由来していることは言うまでもなく、時代の降るに従って、此の信仰は更に熾烈の度を加えて来たのであるが〔一一〕、後世になれば、流石に支解分葬というが如き野蛮の態度に出づることもなく、漸く往来の頻繁なる道の辻に埋めて、悪霊の分散を防ぐ程度になってしまったが、さて是れとても、その源流に溯って見るときは、此の支解の信仰の派生であることが知られるのである。
まだ、此の外にも、支解分葬の伝説は各地に存しているが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兎に角、我が古代で特種の屍体を截断した民俗のあったことは、事実として認めても差支ないように考えられる。勿論、此の事実の発足点が、怨霊を恐れた信仰に由来していることは言うまでもなく、時代の降るに従って、此の信仰は更に熾烈の度を加えて来たのであるが〔一一〕、後世になれば、流石に支解分葬というが如き野蛮の態度に出づることもなく、漸く往来の頻繁なる道の辻に埋めて、悪霊の分散を防ぐ程度になってしまったが、さて是れとても、その源流に溯って見るときは、此の支解の信仰の派生であることが知られるのである。
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'''二、霊魂の神への発達と巫女'''
'''二、霊魂の神への発達と巫女'''


<ruby><rb>万有精霊</rb><rp>(</rp><rt>アニミズム</rt><rp>)</rp></ruby>時代にあっては、総ての霊魂は神として崇拝されていたが、霊魂に善霊と悪霊とあるものと信ずるようになって、茲に崇拝の分裂が生じ、更に善霊中に神格を認め、悪霊中に魑魅を考えるようになれば、霊魂は悉く神ではなくして、その中の一部しか神となるべき資格の無いものと想うようになり、茲に信仰を教理的に解釈するまでに進んで来たのである。
<ruby><rb>万有精霊</rb><rp>(</rp><rt>アニミズム</rt><rp>)</rp></ruby>時代にあっては、総ての霊魂は神として崇拝されていたが、霊魂に善魂と悪魂とあるものと信ずるようになって、茲に崇拝の分裂が生じ、更に善霊中に神格を認め、悪霊中に魑魅を考えるようになれば、霊魂は悉く神ではなくして、その中の一部しか神となるべき資格の無いものと想うようになり、茲に信仰を教理的に解釈するまでに進んで来たのである。


我が古代で霊魂——即ち善霊を神にするのに就いて、如何なる形式が行われたか、それは今から稽うべき手懸りすらない。現代の習俗を基礎として、手近な例を挙げれば、菅原道真が薨去したのを、天満宮と祭りさえすれば、それで昨日の人は今日の神となるという、極めて簡単なものにしか過ぎぬが、此の例を以て古代を推すことは妥当でないと信ぜられるが、さりとて他にこれを説明すべき資料は寡聞に入らぬのである。然るに、琉球においては、霊魂が神にまで発達するには、相当の歳月を要し、併せて複雑なる形式を履んだようである。「東汀随筆」第六回に左の如き記事が載せてある。
我が古代で霊魂——即ち善霊を神にするのに就いて、如何なる形式が行われたか、それは今から稽うべき手懸りすらない。現代の習俗を基礎として、手近な例を挙げれば、菅原道真が薨去したのを、天満宮と祭りさえすれば、それで昨日の人は今日の神となるという、極めて簡単なものにしか過ぎぬが、此の例を以て古代を推すことは妥当でないと信ぜられるが、さりとて他にこれを説明すべき資料は寡聞に入らぬのである。然るに、琉球においては、霊魂が神にまで発達するには、相当の歳月を要し、併せて複雑なる形式を履んだようである。「東汀随筆」第六回に左の如き記事が載せてある。


: 第七 人家七世に神を生ずる事
: 第七 人家七世に神を生ずる事
: 我国(中山曰。琉球)古来の習俗として、人家相継して七世に及べば、必ず神を生じて尊信す。其神は只二位を設く、蓋し祖老以上始祖に至るの亡霊を以て神とするなり。而して親族の女子二名を以て、神コデと称し、之を任ぜしむ。一名はオメケーオコデとなし、一名はオメナイオゴデとなし(原註。方言、男兄弟をオメケーと云い、姉妹をオメナヒと云う)、其神を祭る一切の事を掌る。其祭祀は、毎年二月には麦の穂祭と称し、麦の穂を薦む。三月には麦の祭と称し、酒香{酢下灬}脯を薦む、五月には稲の穂祭と称し、酒香{酢下灬}脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考祖妣の神衣を製し、祭祀毎に神コデ二人之を着て神を拝祭す。三月五月の祭には、族中の男女尽く来り、香を焚き礼拝す、コデの酌を受く。而して神の生ずる期月、三年の期月、七年の期月、十三年の期月、二十五年の期月、三十三年の期月には、酒香{酢下灬}脯{麥繞井}餅を具へて以て之を薦む。其費用悉く族中課出をなす。三十三年の期月を畢れば、其翌年復神を生じ、及び期月毎に祭礼すること旧の如し。其コデの任命は専ら祖宗神霊の命ずる所に因る。予め祖宗の神霊あり、其コデと為すべき者及び巫婦の身に附着して言語をなし、或はコデと為るべき者疾病をなし、其女コデとなることを御請すれば即ち癒ゆ。是を以てコデと為ることを得る。コデは終身の職となす。死するときは即ち其後任を選ぶこと復此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲るも得ず、自ら免れんと欲するも得ざるものとす云々(以上片仮名を平仮名に改め、句読点を加えた)。
: 我国(中山曰。琉球)古来の習俗として、人家相継して七世に及べば、必ず神を生じて尊信す。其神は只二位を設く、蓋し祖老以上始祖に至るの亡霊を以て神とするなり。而して親族の女子二名を以て、神コデと称し、之を任ぜしむ。一名はオメケーオコデとなし、一名はオメナイオゴデとなし(原註。方言、男兄弟をオメケーと云い、姉妹をオメナヒと云う)、其神を祭る一切の事を掌る。其祭祀は、毎年二月には麦の穂祭と称し、麦の穂を薦む。三月には麦の祭と称し、酒香{酢下灬}脯を薦む、五月には稲の穂祭と称し、酒香{酢下灬}脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考祖妣の神衣を製し、祭祀毎に神コデ二人之を着て神を拝祭す。三月五月の祭には、族中の男女尽く来り、香を焚き礼拝す、コデの酌を受く。而して神の生ずる期月、三年の期月、七年の期月、一三年の期月、二五年の期月、三三年の期月には、酒香{酢下灬}脯{麥繞井}餅を具へて以て之を薦む。其費用悉く族中課出をなす。三十三年の期月を畢れば、其翌年復神を生じ、及び期月毎に祭礼すること旧の如し。其コデの任命は専ら祖宗神霊の命ずる所に因る。予め祖宗の神霊あり、其コデと為すべき者及び巫婦の身に附着して言語をなし、或はコデと為るべき者疾病をなし、其女コデとなることを御請すれば即ち癒ゆ。是を以てコデと為ることを得る。コデは終身の職となす。死するときは即ち其後任を選ぶこと復此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲るも得ず、自ら免れんと欲するも得ざるものとす云々(以上片仮名を平仮名に改め、句読点を加えた)。


此の記事は種々なる意味において、関心すべき多くの暗示を与えているが、殊に七世にして神を生ず(或は支那思想の影響かとも思うが、私の学問の力では判然しない)と云うことは、即ち霊魂が神となる過程を説明するものとして考えたい。而してかかる民俗が、古く内地にも存していたか否かに就いては、私は何等の耳福にも接していぬので余り明白には言えぬけれども、これに就いて思い起されることは、土佐国長岡郡の豊永本山等の山村に行われた<ruby><rb>御子神</rb><rp>(</rp><rt>ミコカミ</rt><rp>)</rp></ruby>を祭る神事である。
此の記事は種々なる意味において、関心すべき多くの暗示を与えているが、殊に七世にして神を生ず(或は支那思想の影響かとも思うが、私の学問の力では判然しない)と云うことは、即ち霊魂が神となる過程を説明するものとして考えたい。而してかかる民俗が、古く内地にも存していたか否かに就いては、私は何等の耳福にも接していぬので余り明白には言えぬけれども、これに就いて思い起されることは、土佐国長岡郡の豊永本山等の山村に行われた<ruby><rb>御子神</rb><rp>(</rp><rt>ミコカミ</rt><rp>)</rp></ruby>を祭る神事である。
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茲に「御子神記事」により、その要領を摘記すると、同地方の神職その他の者で、先規に従い、御子神を祭っている家筋がある。その家では人が死んでこれを御子神に祭ろうとするときは、これを旦那寺に断り、亡父何右衛門事先例を以て後年神に祭る故過去帳に御記しくだされまじくと言って置く。又、当時この断りをせざりし者は、三年忌或は七年忌法事の節、此の者先例を以て今日より神に祭るを以て、過去帳の法名御消しくだされと断り、位牌を墓所へ捨てるのである。位牌を捨てなければ神になることは出来ぬ。かくて愈々神に祭るのは、その年十一月氏神祭の日、神事の済んだ後で、今日は是より何右衛門を神に祭るといえば、子孫血縁の者が皆集り、<ruby><rb>村長</rb><rp>(</rp><rt>ムラオサ</rt><rp>)</rp></ruby>を上座に招ぎ、太夫(中山曰。神職なり)二三人又は四五人を頼み、その中の一人を本主の太夫と定め、白幣を振りてタテ<ruby><rb>食</rb><rp>(</rp><rt>クラ</rt><rp>)</rp></ruby>えという儀式を行うのである。在生中に正直を第一として悪事を<ruby><rb>巧</rb><rp>(</rp><rt>たく</rt><rp>)</rp></ruby>まぬ人は、ただ一度のタテ食えにて早速神の座に直るが、不正直であって謀計多かりし者は、タテ食え五六度に及ぶも猶お神の座に直らぬこともあるが、その時は先ずこれ迄として置くのである。それより更に本主の太夫へ神を<u>のり</u>移すと称して、何やら舞を舞っていると、やがて託宣がある。曰く是より内は木ノ葉の下のオボレ神にてありしが、大小氏子心を揃え今日伊勢のミコが瀧へ請じられ、ホウメンをさましてやあら嬉しやと云う。答えに大小氏子を揃えホウメンをさまします。大の氏子小の氏子悪事災難来り候とも払いのけてちがえ守らせ給えと云い、やあら嬉しや嬉しやと舞う。御子神には名は附けぬが、其の者子ノ歳ならば子歳の御子神、丑ノ歳なれば丑歳の御子神と唱え、年忌盆彼岸にも祭らず、ただ氏神祭の日に<ruby><rb>作初穂</rb><rp>(</rp><rt>ツクリハツホ</rt><rp>)</rp></ruby>を出し神楽を舞ってもらうだけである(以上。土佐群書類従巻十所収)。
茲に「御子神記事」により、その要領を摘記すると、同地方の神職その他の者で、先規に従い、御子神を祭っている家筋がある。その家では人が死んでこれを御子神に祭ろうとするときは、これを旦那寺に断り、亡父何右衛門事先例を以て後年神に祭る故過去帳に御記しくだされまじくと言って置く。又、当時この断りをせざりし者は、三年忌或は七年忌法事の節、此の者先例を以て今日より神に祭るを以て、過去帳の法名御消しくだされと断り、位牌を墓所へ捨てるのである。位牌を捨てなければ神になることは出来ぬ。かくて愈々神に祭るのは、その年十一月氏神祭の日、神事の済んだ後で、今日は是より何右衛門を神に祭るといえば、子孫血縁の者が皆集り、<ruby><rb>村長</rb><rp>(</rp><rt>ムラオサ</rt><rp>)</rp></ruby>を上座に招ぎ、太夫(中山曰。神職なり)二三人又は四五人を頼み、その中の一人を本主の太夫と定め、白幣を振りてタテ<ruby><rb>食</rb><rp>(</rp><rt>クラ</rt><rp>)</rp></ruby>えという儀式を行うのである。在生中に正直を第一として悪事を<ruby><rb>巧</rb><rp>(</rp><rt>たく</rt><rp>)</rp></ruby>まぬ人は、ただ一度のタテ食えにて早速神の座に直るが、不正直であって謀計多かりし者は、タテ食え五六度に及ぶも猶お神の座に直らぬこともあるが、その時は先ずこれ迄として置くのである。それより更に本主の太夫へ神を<u>のり</u>移すと称して、何やら舞を舞っていると、やがて託宣がある。曰く是より内は木ノ葉の下のオボレ神にてありしが、大小氏子心を揃え今日伊勢のミコが瀧へ請じられ、ホウメンをさましてやあら嬉しやと云う。答えに大小氏子を揃えホウメンをさまします。大の氏子小の氏子悪事災難来り候とも払いのけてちがえ守らせ給えと云い、やあら嬉しや嬉しやと舞う。御子神には名は附けぬが、其の者子ノ歳ならば子歳の御子神、丑ノ歳なれば丑歳の御子神と唱え、年忌盆彼岸にも祭らず、ただ氏神祭の日に<ruby><rb>作初穂</rb><rp>(</rp><rt>ツクリハツホ</rt><rp>)</rp></ruby>を出し神楽を舞ってもらうだけである(以上。土佐群書類従巻十所収)。


土佐の此の記事を読んで、更に琉球の民俗を考うるとき、何となく、その間に、一脈相通ずるものが在るように思われる。勿論、土佐のそれは、仏教や修験道の影響を多く受けていて、その元の<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>は判然せぬまでに雑糅しているけれども、仔細にその神事を検討すると、琉球と同じく、霊魂の神への進化の過程と、儀式とを説明していることが、会得されるのである。而して斯うした場合にその神事の中心となった者が巫女であったことは、改めて言うまでも無いことである。
土佐の此の記事を読んで、更に琉球の民俗を考うるとき、何となく、その間に、一脈相通ずるものが在るように思われる。勿論、土佐のそれは、仏教や修験道の影響を多く受けていて、その元の<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>は判然せぬまでに雑糅しているけれども、仔細にその神事を検討すると、琉球と同じく、霊魂の神への進化の過程と、儀式とを説明していることが、会得されるのである。しかして斯うした場合にその神事の中心となった者が巫女であったことは、改めて言うまでも無いことである。


霊魂が神へ進化するということは、他の語を以て云えば、即ち霊魂が神の国(ここでは黄泉国よりは高天原の意)へ安住することを得たという意味である。而して此の霊魂を安住の国へ導くことが巫女の職務の一つであった。記述が伝説から仮説へと脱線するようで少しく恐縮する次第であるが、全体、我が古代にあって、人が死亡した折に、霊界に在る祖先に対して、此の死人はその子孫であるということを、如何なる方法を以て証明したか、それを考えて見たいと思う。ずっと後世になれば、旦那寺から授ける血脈なるものが、此の代用を弁じているのであるが、古代にもこれに似通った信仰が在りそうに思われる。勿論、仏教の血脈信仰の影響を受けたものに相違ないが「熱田旧記」に熱田宮の神詠として『彼の世にていづくの人と問ふたらば、熱田の宮の者と答へよ』とあるのは、神詠に仮託した後世の俗歌ではあるけれども、こうした信仰は我国にも存したところが、決して不思議ではないのである。我国におけるトーテムの研究が進んでいれば、此の種の問題も容易に解決されることと思うが、これは当分研究されそうにも見えぬので〔二〇〕、いやが上にもその解決に困難を感するのであるが、併し私に強弁することを許さるるならば、我国の家紋の起原は、実に此の信仰と交渉を有しているのではないかと考えたい。
霊魂が神へ進化するということは、他の語を以て云えば、即ち霊魂が神の国(ここでは黄泉国よりは高天原の意)へ安住することを得たという意味である。而して此の霊魂を安住の国へ導くことが巫女の職務の一つであった。記述が伝説から仮説へと脱線するようで少しく恐縮する次第であるが、全体、我が古代にあって、人が死亡した折に、霊界に在る祖先に対して、此の死人はその子孫であるということを、如何なる方法を以て証明したか、それを考えて見たいと思う。ずっと後世になれば、旦那寺から授ける血脈なるものが、此の代用を弁じているのであるが、古代にもこれに似通った信仰が在りそうに思われる。勿論、仏教の血脈信仰の影響を受けたものに相違ないが「熱田旧記」に熱田宮の神詠として『彼の世にていづくの人と問ふたらば、熱田の宮の者と答へよ』とあるのは、神詠に仮託した後世の俗歌ではあるけれども、こうした信仰は我国にも存したところが、決して不思議ではないのである。我国におけるトーテムの研究が進んでいれば、此の種の問題も容易に解決されることと思うが、これは当分研究されそうにも見えぬので〔二〇〕、いやが上にもその解決に困難を感するのであるが、併し私に強弁することを許さるるならば、我国の家紋の起原は、実に此の信仰と交渉を有しているのではないかと考えたい。
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'''三、社前祭と巫女の職務'''
'''三、社前祭と巫女の職務'''


神に対する観念が固定するにつれて、神を祭る場所も固定した。これが即ち神社の起原である。併しながら、我国の神々は、常には高きところに坐して、人の<ruby><rb>祈</rb><rp>(</rp><rt>コ</rt><rp>)</rp></ruby>いにより(又は突然に)、或は定時に、或は臨時に、此の世へ降って来るのであった。それと同時に、我国の神々は、分霊ということには殆んど無関心であって、一神が百にも千にも分霊するという思想は、古文献にも、原始信仰にも、曾て存していなかったのである。それであるから、我国の神社は、神が降って来たときだけ宿るところであって、神は何時でも社殿の奥に坐するものではないのである。換言すれば、如在の神であって常在の神ではないのである。祭礼の民俗に宵宮があり、祭祀の儀式に帰神の神事があるのは、よく此の事象を説明しているのである。
神に対する観念が固定するにつれて、神を祭る場所も固定した。これが即ち神社の起原である。併しながら、我国の神々は、常には高きところに坐して、人の<ruby><rb>祈</rb><rp>(</rp><rt>コ</rt><rp>)</rp></ruby>いのより(又は突然に)、或は定時に、或は臨時に、此の世へ降って来るのであった。それと同時に、我国の神々は、分霊ということには殆んど無関心であって、一神が百にも千にも分霊するという思想は、古文献にも、原始信仰にも、曾て存していなかったのである。それであるから、我国の神社は、神が降って来たときだけ宿るところであって、神は何時でも社殿の奥に坐するものではないのである。換言すれば、如在の神であって常在の神ではないのである。祭礼の民俗に宵宮があり、祭祀の儀式に帰神の神事があるのは、よく此の事象を説明しているのである。


然るに神社が固定するにつれて、巫女の社会的地位は、それと比例して、段々と低下せざるを得ぬようになって来た。これは、神がその時々に巫女に憑って託宣をして祭らせたものが、日時と場所が一定するようになれば、一方において男子の神職が用いられるようになり、一方においては巫女の本来の職務は、これが為めに大半まで失うこととなるので、低下すると同時に、軽視されるようになるのは、止むを得ぬ次第であった。
然るに神社が固定するにつれて、巫女の社会的地位は、それと比例して、段々と低下せざるを得ぬようになって来た。これは、神がその時々に巫女に憑って託宣をして祭らせたものが、日時と場所が一定するようになれば、一方において男子の神職が用いられるようになり、一方においては巫女の本来の職務は、これが為めに大半まで失うこととなるので、低下すると同時に、軽視されるようになるのは、止むを得ぬ次第であった。
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; 〔註五〕 : 従来の学説によれば、神話が元となって民俗が起るものだと云われていたのであるが、現今では此の反対に、民俗が在ったので神話に反映したのだといわれている。私も此の説に従って、民俗と神話との関係を見ているのである。
; 〔註五〕 : 従来の学説によれば、神話が元となって民俗が起るものだと云われていたのであるが、現今では此の反対に、民俗が在ったので神話に反映したのだといわれている。私も此の説に従って、民俗と神話との関係を見ているのである。
; 〔註六〕 : 「アイヌの足跡」に此の事が詳記してある。これによると、気丈夫な老婆がそれに当るのであるが、老婆は葬礼が済むと、鎌を以て妊婦の腹を割き胎児を引き出すが、惨状目もあてられず、老婆の着衣は血で染まるとある。然も此の野蛮事は、明治の終り頃まで行われていた。私は安達ヶ原の鬼とは、此の民俗の伝説化であると考えたので、管見は「東北文化研究」第二号の余白録に投じて採録されている。
; 〔註六〕 : 「アイヌの足跡」に此の事が詳記してある。これによると、気丈夫な老婆がそれに当るのであるが、老婆は葬礼が済むと、鎌を以て妊婦の腹を割き胎児を引き出すが、惨状目もあてられず、老婆の着衣は血で染まるとある。然も此の野蛮事は、明治の終り頃まで行われていた。私は安達ヶ原の鬼とは、此の民俗の伝説化であると考えたので、管見は「東北文化研究」第二号の余白録に投じて採録されている。
; 〔註七〕 : 私の宅に五ヶ年間行儀見習に来ていた磐城国石城郡植田町生れの松本かう子の談に、姉が難産のために入院したが、その時親戚の者が集って、若し死亡したら胎児を引き出して、それを母に抱かせて葬らなければならぬと相談したことを聴き、同地方には昔から斯うした習俗のありしことを語ってくれた。更に学友長山源雄氏が来宅されたときの談話に、氏の郷里なる愛媛県地方では、その場合には胎児を引き出し、亡母と背中合せにして埋葬すると聞いているとのことであった。而して是等の習俗がアイヌ族のウフイに交渉あることは言うまでもない。
; 〔註七〕 : 私の宅に五カ年間行儀見習に来ていた磐城国石城郡植田町生れの松本かう子の談に、姉が難産のために入院したが、その時親戚の者が集って、若し死亡したら胎児を引き出して、それを母に抱かせて葬らなければならぬと相談したことを聴き、同地方には昔から斯うした習俗のありしことを語ってくれた。更に学友長山源雄氏が来宅されたときの談話に、氏の郷里なる愛媛県地方では、その場合には胎児を引き出し、亡母と背中合せにして埋葬すると聞いているとのことであった。而して是等の習俗がアイヌ族のウフイに交渉あることは言うまでもない。
; 〔註八〕 : 「浪岡名所旧跡考」。
; 〔註八〕 : 「浪岡名所旧跡考」。
; 〔註九〕 : 雑誌「旅と伝説」第三巻十一号に掲載した拙稿「将門神社考」は極めて粗笨のものであるが、此の問題に触れている。敢て参照を望む次第である。
; 〔註九〕 : 雑誌「旅と伝説」第三巻一一号に掲載した拙稿「将門神社考」は極めて粗笨のものであるが、此の問題に触れている。敢て参照を望む次第である。
; 〔註一〇〕 : 「京都府北桑田郡誌」。
; 〔註一〇〕 : 「京都府北桑田郡誌」。
; 〔註一一〕 : 我国の怨霊崇拝は、平安朝時代が最も猛烈を極めていた。これは同時代の文弱が、天下を挙げて神経衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨霊崇拝は、明治時代まで継続したのである。
; 〔註一一〕 : 我国の怨霊崇拝は、平安朝時代が最も猛烈を極めていた。これは同時代の文弱が、天下を挙げて神経衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨霊崇拝は、明治時代まで継続したのである。
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