「日本巫女史/第一篇/第七章/第二節」を編集中
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とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。 | とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。 | ||
然るに、古代においては、物を斬り断つことも同じくハフリと言うていた。「崇神記」に、大毘古命が建波邇安王の兵と戦い『其の軍士を斬屠りし故に、其地の号を<ruby><rb>波布理曾能</rb><rp>(</rp><rt>ハフリソノ</rt><rp>)</rp></ruby> | 然るに、古代においては、物を斬り断つことも同じくハフリと言うていた。「崇神記」に、大毘古命が建波邇安王の兵と戦い『其の軍士を斬屠りし故に、其地の号を<ruby><rb>波布理曾能</rb><rp>(</rp><rt>ハフリソノ</rt><rp>)</rp></ruby>となも謂ふ』とあるのや、「万葉集」巻一三の長歌の一節に『剣太刀磨きし心を、天雲に思ひ<ruby><rb>散</rb><rp>(</rp><rt>ハフ</rt><rp>)</rp></ruby>らし、<ruby><rb>展</rb><rp>(</rp><rt>コ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ転び<ruby><rb>泥</rb><rp>(</rp><rt>ヒツ</rt><rp>)</rp></ruby>ち泣けども、飽足らぬかも』などを始めとして、此の外にも斬ることをハフリと云うた例は多く存し、現に屠の字をハフルと訓んでいるほどである。然らば何故に、我が古代にあっては、葬ることと斬ることとを同じくハフリと言わせ、併もそれを巫祝の上まで及ぼして、これをハフリと称したのであろうか。問題は愈々困難になって来たが、これに対する私の考えは略ぼ左の如きものである。 | ||
私見によれば、古く我国では屍体を葬るときは——勿論、その悉くではないが、[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|前]]に辻占の条に挙げたような変死を遂げた者の屍体は、これをその儘に葬ることなくして、屍体を幾つかに斬って埋める民俗が存していたのではなかろうか。記・紀の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬ったとあるのは、諾尊が此の神のために冊尊を喪うたという単なる憤怒の余りではなくして、かかる悪神は幾つかに斬って葬る習わしのあったことが、神話に反映したのではないかと想われる〔五〕。学友内藤吉之助氏が「史学」第三巻第七号に掲載された「喪かり考」は、此の問題に対して、大なる暗示を投じているものであって、私もこれを披閲して、尠からず教えられた所が在って存したのである。而して内藤氏に従えば、喪がりとは、従来の国学者が説けるが如き——殯宮の意味ばかりではなくして、此の間において、屍体に何等の処置が加えられたに相違ない。されば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語でなく、離すことを<u>さかり</u>と云うた。その<u>かり</u>の意味であるとて、言外に屍体に加えられた処置なるものが、私が茲に云う截断と同じものであることを論じている。実に卓見として敬服させられたのである。 | 私見によれば、古く我国では屍体を葬るときは——勿論、その悉くではないが、[[日本巫女史/第一篇/第二章/第一節|前]]に辻占の条に挙げたような変死を遂げた者の屍体は、これをその儘に葬ることなくして、屍体を幾つかに斬って埋める民俗が存していたのではなかろうか。記・紀の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬ったとあるのは、諾尊が此の神のために冊尊を喪うたという単なる憤怒の余りではなくして、かかる悪神は幾つかに斬って葬る習わしのあったことが、神話に反映したのではないかと想われる〔五〕。学友内藤吉之助氏が「史学」第三巻第七号に掲載された「喪かり考」は、此の問題に対して、大なる暗示を投じているものであって、私もこれを披閲して、尠からず教えられた所が在って存したのである。而して内藤氏に従えば、喪がりとは、従来の国学者が説けるが如き——殯宮の意味ばかりではなくして、此の間において、屍体に何等の処置が加えられたに相違ない。されば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語でなく、離すことを<u>さかり</u>と云うた。その<u>かり</u>の意味であるとて、言外に屍体に加えられた処置なるものが、私が茲に云う截断と同じものであることを論じている。実に卓見として敬服させられたのである。 |