「日本巫女史/第一篇/第七章/第二節」を編集中
ナビゲーションに移動
検索に移動
この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。
最新版 | 編集中の文章 | ||
20行目: | 20行目: | ||
更にこれを、民俗学的に見るも、墓前祭が社前祭より古いことが知られるのである。由来、太古の民族は、人は死ぬとその霊魂は黄泉国へ往く(霊魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考えるようになったのは、やや進歩した信仰である)ものと信じていたが、茲に考慮して見なければならぬ問題は、その霊魂は何者の導きも待たずに、自然と其処へ往ったものであるか、それとも何者か其処へ往けるように導きをしたのであるかと云う事である。それと同時に霊魂が果して黄泉国へ往ったか否かという事を、何者がこれを証明したかと云う点である。而して此の問題たるや、原始神道における霊魂観として、相当に関心しなければならぬ事であるにもかかわらず、従来の国学者とか、神道家とか云う者で、遂にこれに触れたことのあるのを耳にせぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此の問題を説明し得るとは信じていぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考えを極めて端的に言えば、それ等の事を行うた者は、即ち巫女であったと信じている。 | 更にこれを、民俗学的に見るも、墓前祭が社前祭より古いことが知られるのである。由来、太古の民族は、人は死ぬとその霊魂は黄泉国へ往く(霊魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考えるようになったのは、やや進歩した信仰である)ものと信じていたが、茲に考慮して見なければならぬ問題は、その霊魂は何者の導きも待たずに、自然と其処へ往ったものであるか、それとも何者か其処へ往けるように導きをしたのであるかと云う事である。それと同時に霊魂が果して黄泉国へ往ったか否かという事を、何者がこれを証明したかと云う点である。而して此の問題たるや、原始神道における霊魂観として、相当に関心しなければならぬ事であるにもかかわらず、従来の国学者とか、神道家とか云う者で、遂にこれに触れたことのあるのを耳にせぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此の問題を説明し得るとは信じていぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考えを極めて端的に言えば、それ等の事を行うた者は、即ち巫女であったと信じている。 | ||
私が改めて言うまでもなく、我が古代における屍体の始末は、素尊の言われた如く「<ruby><rb>顕見蒼生</rb><rp>(</rp><rt>アオヒドグサ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>奥津棄戸</rb><rp>(</rp><rt>オキツスタヘ</rt><rp>)</rp></ruby>」で、野外に放棄するほどの原始的のものであって、まだ葬儀とか、葬礼とかいうものが、厳かに執り行われていなかったのである〔二〕。かく屍体が無造作に取り扱われたのに就いては、二つの理由がある。第一は屍体は霊魂の抜け殻と考えたことで、第二は屍体の腐敗を嫌ったためである。而して此の屍体を放棄することが、巫女の職務なのである。我国で、祝——即ち巫祝の徒をハフリと称することに就いては、羽振りの義であって、神官が着た浄衣の袖を鳥の羽の如く振るので、此の名ありと云う説もあるが〔三〕、元より<ruby><rb>民間語原説</rb><rp>(</rp><rt> | 私が改めて言うまでもなく、我が古代における屍体の始末は、素尊の言われた如く「<ruby><rb>顕見蒼生</rb><rp>(</rp><rt>アオヒドグサ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>奥津棄戸</rb><rp>(</rp><rt>オキツスタヘ</rt><rp>)</rp></ruby>」で、野外に放棄するほどの原始的のものであって、まだ葬儀とか、葬礼とかいうものが、厳かに執り行われていなかったのである〔二〕。かく屍体が無造作に取り扱われたのに就いては、二つの理由がある。第一は屍体は霊魂の抜け殻と考えたことで、第二は屍体の腐敗を嫌ったためである。而して此の屍体を放棄することが、巫女の職務なのである。我国で、祝——即ち巫祝の徒をハフリと称することに就いては、羽振りの義であって、神官が着た浄衣の袖を鳥の羽の如く振るので、此の名ありと云う説もあるが〔三〕、元より<ruby><rb>民間語原説</rb><rp>(</rp><rt>エスモロギー</rt><rp>)</rp></ruby>であって採るに足らぬ。これに較べると、ハフリは<ruby><rb>投</rb><rp>(</rp><rt>ハウ</rt><rp>)</rp></ruby>るの意で、古く屍体を投げ棄てる役を勤めていたので、遂に此名を負うに至ったものと解すべきである〔四〕。而して葬をハフリと訓んだことも、又この意であって、「万葉集」巻二に、高市皇子の殯宮のとき、柿本人麿が詠じた長歌の一節に、 | ||
: 言いさへぐ百済の原ゆ、<ruby><rb>神葬</rb><rp>(</rp><rt>カミハフ</rt><rp>)</rp></ruby>り葬り座して、朝もよし城の上に宮を、常宮と定め奉りて、神ながら鎮りましぬ…… | : 言いさへぐ百済の原ゆ、<ruby><rb>神葬</rb><rp>(</rp><rt>カミハフ</rt><rp>)</rp></ruby>り葬り座して、朝もよし城の上に宮を、常宮と定め奉りて、神ながら鎮りましぬ…… |