「日本巫女史/第一篇/第七章/第二節」を編集中
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; 〔註五〕 : 従来の学説によれば、神話が元となって民俗が起るものだと云われていたのであるが、現今では此の反対に、民俗が在ったので神話に反映したのだといわれている。私も此の説に従って、民俗と神話との関係を見ているのである。 | ; 〔註五〕 : 従来の学説によれば、神話が元となって民俗が起るものだと云われていたのであるが、現今では此の反対に、民俗が在ったので神話に反映したのだといわれている。私も此の説に従って、民俗と神話との関係を見ているのである。 | ||
; 〔註六〕 : 「アイヌの足跡」に此の事が詳記してある。これによると、気丈夫な老婆がそれに当るのであるが、老婆は葬礼が済むと、鎌を以て妊婦の腹を割き胎児を引き出すが、惨状目もあてられず、老婆の着衣は血で染まるとある。然も此の野蛮事は、明治の終り頃まで行われていた。私は安達ヶ原の鬼とは、此の民俗の伝説化であると考えたので、管見は「東北文化研究」第二号の余白録に投じて採録されている。 | ; 〔註六〕 : 「アイヌの足跡」に此の事が詳記してある。これによると、気丈夫な老婆がそれに当るのであるが、老婆は葬礼が済むと、鎌を以て妊婦の腹を割き胎児を引き出すが、惨状目もあてられず、老婆の着衣は血で染まるとある。然も此の野蛮事は、明治の終り頃まで行われていた。私は安達ヶ原の鬼とは、此の民俗の伝説化であると考えたので、管見は「東北文化研究」第二号の余白録に投じて採録されている。 | ||
; 〔註七〕 : | ; 〔註七〕 : 私の宅に五カ年間行儀見習に来ていた磐城国石城郡植田町生れの松本かう子の談に、姉が難産のために入院したが、その時親戚の者が集って、若し死亡したら胎児を引き出して、それを母に抱かせて葬らなければならぬと相談したことを聴き、同地方には昔から斯うした習俗のありしことを語ってくれた。更に学友長山源雄氏が来宅されたときの談話に、氏の郷里なる愛媛県地方では、その場合には胎児を引き出し、亡母と背中合せにして埋葬すると聞いているとのことであった。而して是等の習俗がアイヌ族のウフイに交渉あることは言うまでもない。 | ||
; 〔註八〕 : 「浪岡名所旧跡考」。 | ; 〔註八〕 : 「浪岡名所旧跡考」。 | ||
; 〔註九〕 : | ; 〔註九〕 : 雑誌「旅と伝説」第三巻一一号に掲載した拙稿「将門神社考」は極めて粗笨のものであるが、此の問題に触れている。敢て参照を望む次第である。 | ||
; 〔註一〇〕 : 「京都府北桑田郡誌」。 | ; 〔註一〇〕 : 「京都府北桑田郡誌」。 | ||
; 〔註一一〕 : 我国の怨霊崇拝は、平安朝時代が最も猛烈を極めていた。これは同時代の文弱が、天下を挙げて神経衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨霊崇拝は、明治時代まで継続したのである。 | ; 〔註一一〕 : 我国の怨霊崇拝は、平安朝時代が最も猛烈を極めていた。これは同時代の文弱が、天下を挙げて神経衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨霊崇拝は、明治時代まで継続したのである。 |