「日本巫女史/第一篇/第七章/第二節」を編集中
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[[画像:人身御供.gif|thumb|人身御供と巫女(皿皿郷談所載)]] | [[画像:人身御供.gif|thumb|人身御供と巫女(皿皿郷談所載)]] | ||
而して更にこれを民間伝承に覓めんか、先ず最も有名なものとして誰でも知っているのは、奥州安達ヶ原の黒塚の伝説である。宮廷歌人であった源兼盛が『陸奥の安達ヶ原の黒塚に、鬼すむなりといふは誠か』と詠んでから、此の伝説は、専ら怪談として人口に膾炙されるようになってしまったが、これは当時の民俗として、妊婦が分娩に際し、その胎児を産出せずして死亡した場合には、妊婦の腹を割いて、胎児を取り出して埋葬する事が行われていたのを、居ながらにして名所を知るほどの歌人が聴きかじって鬼としたために、遂に怪談として伝わるようになってしまったのである。而して此の民俗は、アイヌ民族の間に近年まで行われたウフイと称するものと全く軌を一にしたものであって〔六〕、内地においても明治の中頃までは各地に行われたものである〔七〕。更に時代は降るが、陸奥国南津軽郡浪岡村大字五本松の加茂神社は、延暦年中に坂上田村麿が誅した女首悪路王の首を神体として祀り、隣村五郷村大字本郷の八幡神社は、同じ悪路王の片腕を祀ったもので、然もその神体は今に活きて損せずと云われているのや〔八〕、天慶乱に誅された平将門の首塚、胴塚、腕塚などが、東京を中心として各地に在ることなどは〔九〕、共に屍体を分割して埋めたことを物語っているのである。更に、丹波国北桑田郡周山村の八幡宮の縁起に至っては、此の伝説を最も詳細に尽している。社伝によれば、康平年中に源義家が安倍貞任の首を獲て帰洛し、これを埋める場所を占わしたところ、四つに截って東に山あり南に川ある池の四ヶ所に埋めよとの神託により、その地を覓めて同村に埋めたのであるが、猶お貞任の悪霊が荒びるのでそれを鎮めるために、宇佐八幡宮の分霊を勧請したのだと云うている〔一〇〕。 | |||
まだ、此の外にも、支解分葬の伝説は各地に存しているが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兎に角、我が古代で特種の屍体を截断した民俗のあったことは、事実として認めても差支ないように考えられる。勿論、此の事実の発足点が、怨霊を恐れた信仰に由来していることは言うまでもなく、時代の降るに従って、此の信仰は更に熾烈の度を加えて来たのであるが〔一一〕、後世になれば、流石に支解分葬というが如き野蛮の態度に出づることもなく、漸く往来の頻繁なる道の辻に埋めて、悪霊の分散を防ぐ程度になってしまったが、さて是れとても、その源流に溯って見るときは、此の支解の信仰の派生であることが知られるのである。 | まだ、此の外にも、支解分葬の伝説は各地に存しているが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兎に角、我が古代で特種の屍体を截断した民俗のあったことは、事実として認めても差支ないように考えられる。勿論、此の事実の発足点が、怨霊を恐れた信仰に由来していることは言うまでもなく、時代の降るに従って、此の信仰は更に熾烈の度を加えて来たのであるが〔一一〕、後世になれば、流石に支解分葬というが如き野蛮の態度に出づることもなく、漸く往来の頻繁なる道の辻に埋めて、悪霊の分散を防ぐ程度になってしまったが、さて是れとても、その源流に溯って見るときは、此の支解の信仰の派生であることが知られるのである。 | ||
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; 〔註五〕 : 従来の学説によれば、神話が元となって民俗が起るものだと云われていたのであるが、現今では此の反対に、民俗が在ったので神話に反映したのだといわれている。私も此の説に従って、民俗と神話との関係を見ているのである。 | ; 〔註五〕 : 従来の学説によれば、神話が元となって民俗が起るものだと云われていたのであるが、現今では此の反対に、民俗が在ったので神話に反映したのだといわれている。私も此の説に従って、民俗と神話との関係を見ているのである。 | ||
; 〔註六〕 : 「アイヌの足跡」に此の事が詳記してある。これによると、気丈夫な老婆がそれに当るのであるが、老婆は葬礼が済むと、鎌を以て妊婦の腹を割き胎児を引き出すが、惨状目もあてられず、老婆の着衣は血で染まるとある。然も此の野蛮事は、明治の終り頃まで行われていた。私は安達ヶ原の鬼とは、此の民俗の伝説化であると考えたので、管見は「東北文化研究」第二号の余白録に投じて採録されている。 | ; 〔註六〕 : 「アイヌの足跡」に此の事が詳記してある。これによると、気丈夫な老婆がそれに当るのであるが、老婆は葬礼が済むと、鎌を以て妊婦の腹を割き胎児を引き出すが、惨状目もあてられず、老婆の着衣は血で染まるとある。然も此の野蛮事は、明治の終り頃まで行われていた。私は安達ヶ原の鬼とは、此の民俗の伝説化であると考えたので、管見は「東北文化研究」第二号の余白録に投じて採録されている。 | ||
; 〔註七〕 : | ; 〔註七〕 : 私の宅に五カ年間行儀見習に来ていた磐城国石城郡植田町生れの松本かう子の談に、姉が難産のために入院したが、その時親戚の者が集って、若し死亡したら胎児を引き出して、それを母に抱かせて葬らなければならぬと相談したことを聴き、同地方には昔から斯うした習俗のありしことを語ってくれた。更に学友長山源雄氏が来宅されたときの談話に、氏の郷里なる愛媛県地方では、その場合には胎児を引き出し、亡母と背中合せにして埋葬すると聞いているとのことであった。而して是等の習俗がアイヌ族のウフイに交渉あることは言うまでもない。 | ||
; 〔註八〕 : 「浪岡名所旧跡考」。 | ; 〔註八〕 : 「浪岡名所旧跡考」。 | ||
; 〔註九〕 : | ; 〔註九〕 : 雑誌「旅と伝説」第三巻一一号に掲載した拙稿「将門神社考」は極めて粗笨のものであるが、此の問題に触れている。敢て参照を望む次第である。 | ||
; 〔註一〇〕 : 「京都府北桑田郡誌」。 | ; 〔註一〇〕 : 「京都府北桑田郡誌」。 | ||
; 〔註一一〕 : 我国の怨霊崇拝は、平安朝時代が最も猛烈を極めていた。これは同時代の文弱が、天下を挙げて神経衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨霊崇拝は、明治時代まで継続したのである。 | ; 〔註一一〕 : 我国の怨霊崇拝は、平安朝時代が最も猛烈を極めていた。これは同時代の文弱が、天下を挙げて神経衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨霊崇拝は、明治時代まで継続したのである。 |