日本巫女史/第一篇/第七章/第二節」を編集中

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とあるのや、同集巻一三の長歌の一節に、
とあるのや、同集巻一三の長歌の一節に、


: 朝裳吉城上の道中、角障ふ石村を見つつ、<ruby><rb>神葬</rb><rp>(</rp><rt>カミハフ</rt><rp>)</rp></ruby>り葬り奉れば、……
: 朝裳吉城上の道中、角障ふ石村を見つゝ、<ruby><rb>神葬</rb><rp>(</rp><rt>カミハフ</rt><rp>)</rp></ruby>り葬り奉れば、……


とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。
とあるのは、その例証であって、屍体を投棄したことから出た古語なのである。
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琉球の各地では今に死人があると、四十九日目にマブイワカシということをするが、これに就き故佐喜真興英氏の記された「シマの話」によると、
琉球の各地では今に死人があると、四十九日目にマブイワカシということをするが、これに就き故佐喜真興英氏の記された「シマの話」によると、


: 七々日までは亡者はまだ現世に残ると信じられ、嶋人は毎度食事を供え、仏間に亡者の衣類を畳んで置いた。四十九日の供物をうけ亡者は完全にあの世に行くと考えられた。四十九日の晩マブイワカシ(霊魂別れ)という儀式が行われた。ユタ(中山曰。内地の市子)が来て亡者の口寄せを為し、生者と別れを告げるのである。亡者の告別の辞は固より種々雑多であるが、その内容は略同一で、何故に自分は死ななければならなかったかという運命物語がその前半で、さればこれこれ云々の事をよろしく頼む、いざさらばというのがその後半であった(中略)。古くは此のマブイワカシの儀式は、非常に重大なる意味を持って居ったが、嶋人の知識が漸次進むに従ってユタの信用が薄くなり、マブイワカシも次第に形式化して来た云々(炉辺叢書本)
: 七々日までは亡者はまだ現世に残ると信じられ、嶋人は毎度食事を供え、仏間に亡者の衣類を畳んで置いた。四十九日の供物をうけ亡者は完全にあの世に行くと考えられた。四十九日の晩マブイワカシ(霊魂別れ)という儀式が行われた。ユタ(中山曰。内地の市子)が来て亡者の口寄せを為し、生者と別れを告げるのである。亡者の告別の辞は固より種々雑多であるが、その内容は略同一で、何故に自分は死なゝければならなかったかという運命物語がその前半で、さればこれこれ云々の事をよろしく頼む、いざさらばというのがその後半であった(中略)。古くは此のマブイワカシの儀式は、非常に重大なる意味を持って居ったが、嶋人の知識が漸次進むに従ってユタの信用が薄くなり、マブイワカシも次第に形式化して来た云々(炉辺叢書本)


とあるのは、蓋し我が古俗を貽したものと考える。今に内地の各村落でも、死人があると、初日に市子を頼んで死口を寄せてもらうことのあるのは、彼之共通の信仰を物語っているのである。
とあるのは、蓋し我が古俗を貽したものと考える。今に内地の各村落でも、死人があると、初日に市子を頼んで死口を寄せてもらうことのあるのは、彼之共通の信仰を物語っているのである。
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例えば「尾張国風土記」逸文の丹波郡の条に、
例えば「尾張国風土記」逸文の丹波郡の条に、


: <ruby><rb>吾縵郷</rb><rp>(</rp><rt>アヅラノガウ</rt><rp>)</rp></ruby>は、巻向珠城宮に御宇しし天皇{○垂/仁帝}の御世、品津別皇子生七歳になるまで、語とひしたまはず。あまねく臣たちに問はすれども、能くそのよしを申すものなかりき。その語、皇后の夢に神の告ありて曰く、吾は多具国神、名を阿麻乃禰加比女と曰ふ。吾れ未だ<ruby><rb>祝</rb><rp>(</rp><rt>ハフリ</rt><rp>)</rp></ruby>を得ず、若し吾が為めに祝人を充てば、皇子能くもの言ひ、亦み寿ながからむと申す。帝、神<ruby><rb>覓</rb><rp>(</rp><rt>マ</rt><rp>)</rp></ruby>ぐ人を卜とひ玉ふに、日置部等が祖、建岡君<ruby><rb>卜食</rb><rp>(</rp><rt>ウラア</rt><rp>)</rp></ruby>へり。即ち神を<ruby><rb>覓</rb><rp>(</rp><rt>マ</rt><rp>)</rp></ruby>がしむる時に、建岡の君、美濃国花鹿の山に到り、賢樹の枝を<ruby><rb>攀</rb><rp>(</rp><rt>ヲ</rt><rp>)</rp></ruby>りて、縵を造りて<ruby><rb>誓</rb><rp>(</rp><rt>ウケ</rt><rp>)</rp></ruby>ひまをさく、吾が縵の落ちむ処に、必ず此の神まさむと云へり。縵去りて<ruby><rb>此間</rb><rp>(</rp><rt>ココ</rt><rp>)</rp></ruby>に落ちぬ。乃ち神ますことを識りき。<ruby><rb>因</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>れ社を堅てり。社に由りて里に名づく。後の人訛りと阿豆良里と言ふ〔二二〕。
: <ruby><rb>吾縵郷</rb><rp>(</rp><rt>アヅラノガウ</rt><rp>)</rp></ruby>は、巻向珠城宮に御宇しゝ天皇{○垂/仁帝}の御世、品津別皇子生七歳になるまで、語とひしたまはず。あまねく臣たちに問はすれども、能くそのよしを申すものなかりき。その語、皇后の夢に神の告ありて曰く、吾は多具国神、名を阿麻乃禰加比女と曰ふ。吾れ未だ<ruby><rb>祝</rb><rp>(</rp><rt>ハフリ</rt><rp>)</rp></ruby>を得ず、若し吾が為めに祝人を充てば、皇子能くもの言ひ、亦み寿ながからむと申す。帝、神<ruby><rb>覓</rb><rp>(</rp><rt>マ</rt><rp>)</rp></ruby>ぐ人を卜とひ玉ふに、日置部等が祖、建岡君<ruby><rb>卜食</rb><rp>(</rp><rt>ウラア</rt><rp>)</rp></ruby>へり。即ち神を<ruby><rb>覓</rb><rp>(</rp><rt>マ</rt><rp>)</rp></ruby>がしむる時に、建岡の君、美濃国花鹿の山に到り、賢樹の枝を<ruby><rb>攀</rb><rp>(</rp><rt>ヲ</rt><rp>)</rp></ruby>りて、縵を造りて<ruby><rb>誓</rb><rp>(</rp><rt>ウケ</rt><rp>)</rp></ruby>ひまをさく、吾が縵の落ちむ処に、必ず此の神まさむと云へり。縵去りて<ruby><rb>此間</rb><rp>(</rp><rt>ココ</rt><rp>)</rp></ruby>に落ちぬ。乃ち神ますことを識りき。<ruby><rb>因</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>れ社を堅てり。社に由りて里に名づく。後の人訛りと阿豆良里と言ふ〔二二〕。


とあるが、これが一段と古いところに溯れば、此の祝は当然巫女で無ければならぬのに、かく覡男が<ruby><rb>卜食</rb><rp>(</rp><rt>ウラア</rt><rp>)</rp></ruby>うことは神社の固定が神の観念の固定から出発し、併せて覡男が巫女に代る様になった事を暗示しているのである〔二三〕。
とあるが、これが一段と古いところに溯れば、此の祝は当然巫女で無ければならぬのに、かく覡男が<ruby><rb>卜食</rb><rp>(</rp><rt>ウラア</rt><rp>)</rp></ruby>うことは神社の固定が神の観念の固定から出発し、併せて覡男が巫女に代る様になった事を暗示しているのである〔二三〕。
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