日本巫女史/第一篇/第七章/第六節」を編集中

ナビゲーションに移動 検索に移動
警告: ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。ログインまたはアカウントを作成すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。

この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。

最新版 編集中の文章
32行目: 32行目:


:人間が神を発見したとき、その神の姿を自分達に似せて作ったのが人形(木偶の意、以下同じ)の始めである。祓柱というてもそれが生きた人間であり、蒭霊と言うても、同じくそれが<ruby><rb>人形</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>であるのも、此の理由から出発しているのである。
:人間が神を発見したとき、その神の姿を自分達に似せて作ったのが人形(木偶の意、以下同じ)の始めである。祓柱というてもそれが生きた人間であり、蒭霊と言うても、同じくそれが<ruby><rb>人形</rb><rp>(</rp><rt>ヒトガタ</rt><rp>)</rp></ruby>であるのも、此の理由から出発しているのである。
: 関八州を中心として、更にこれに隣接せる国々、及び遠く近畿地方まで活躍した巫女は、信濃国小県郡禰津村大字禰津東町を根拠とした所謂「<ruby><rb>信濃巫女</rb><rp>(</rp><rt>シナノミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるものであった。同村には明治維新頃までは、四十八軒の巫女の親方宿があり、一軒で少きも三四人、多きは三十人も巫女を養成して置いて、年々諸方へ<ruby><rb>旅稼</rb><rp>(</rp><rt>たびかせ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎに出したものである。(猶これが詳細は[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に記述する)。而して此の信濃巫女は、「<ruby><rb>外法箱</rb><rp>(</rp><rt>ゲホウバコ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称する高さ一尺ほど、長さ八寸ほど、巾五寸ほどの小箱を、紺染めの風呂敷を船形に縫い合せたものの中に入れて、背負うているのを常とし、呪術を行う際には、片手または両手を箱へ載せ、頬杖ついて行うのが習いであった。そして此の箱の中には、一個(又は二個)の人形を入れて置くのが普通で、然も此の人形が呪力の源泉とせられていたのである。
: 関八州を中心として、更にこれに隣接せる国々、及び遠く近畿地方まで活躍した巫女は、信濃国小県郡禰津村大字禰津東町を根拠とした所謂「<ruby><rb>信濃巫女</rb><rp>(</rp><rt>シナノミコ</rt><rp>)</rp></ruby>」なるものであった。同村には明治維新頃までは、四十八軒の巫女の親方宿があり、一軒で少きも三四人、多きは三十人も巫女を養成して置いて、年々諸方へ<ruby><rb>旅稼</rb><rp>(</rp><rt>たびかせ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎに出したものである。(猶これが詳細は[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]に記述する)。而して此の信濃巫女は、「<ruby><rb>外法箱</rb><rp>(</rp><rt>ゲホウバコ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称する高さ一尺ほど、長さ八寸ほど、巾五寸ほどの小箱を、紺染めの風呂敷を舟形に縫い合せたものの中に入れて、背負うているのを常とし、呪術を行う際には、片手または両手を箱へ載せ、頬杖ついて行うのが習いであった。そして此の箱の中には、一個(又は二個)の人形を入れて置くのが普通で、然も此の人形が呪力の源泉とせられていたのである。
: 然るに此の人形がどんなものであったかに就いては、報告が区々であって判然しないが、(一)は普通の雛だというし、(二)は藁人形だというし、(三)は久延毘古神を形代とした案山子のようだというし、(四)は歓喜天に似た男女の和合神だというし、(五)は犬または猫の頭蓋骨だというし、(六)更に奇抜なのになると、外法頭と称する天窓の所有者であった人間の髑髏というのもある。
: 然るに此の人形がどんなものであったかに就いては、報告が区々であって判然しないが、(一)は普通の雛だというし、(二)は藁人形だというし、(三)は久延毘古神を形代とした案山子のようだというし、(四)は歓喜天に似た男女の和合神だというし、(五)は犬または猫の頭蓋骨だというし、(六)更に奇抜なのになると、外法頭と称する天窓の所有者であった人間の髑髏というのもある。
: 而して、こうした臆説は、巫女が外法箱の中の物を秘し隠しに隠した為めに生じたもので、私が郷里にいたころ目撃したものは、第三の案山子ようの人形であった。併しこれは、その一例だけであって、これを以て他の総てがそうであるとは決して言われぬのである。何となれば、同じ禰津村の巫女であっても、四十八軒も親方宿がある以上は、それが悉く同じ流義で、同じ師承のものとは考えられぬからである。現に、信州の北部では、巫女をノノーと云っているに反し、南部ではイチイと云っている。然もこのイチイは、武蔵の秩父地方にも行われているのを見ると、信濃巫女の間にも幾つかの異流があったと考うべきである。
: 而して、こうした憶説は、巫女が外法箱の中の物を秘し隠しに隠した為めに生じたもので、私が郷里にいたころ目撃したものは、第三の案山子ようの人形であった。併しこれは、その一例だけであって、これを以て他の総てがそうであるとは決して言われぬのである。何となれば、同じ禰津村の巫女であっても、四十八軒も親方宿がある以上は、それが悉く同じ流儀で、同じ師承のものとは考えられぬからである。現に、信州の北部では、巫女をノノーと云っているに反し、南部ではイチイと云っている。然もこのイチイは、武蔵の秩父地方にも行われているのを見ると、信濃巫女の間にも幾つかの異流があったと考うべきである。
: 巫女の所持する人形が、如何なる手続きで、然も如何なる姿に作られるものであるか、これに就いての古代の見聞は、全く私には無いのであって、僅に極めて近世のものしか——それも漸く二三しか承知していぬのである。併しながら此の二三の例証とても、厳格なる意義から言えば、後世に支那の巫蠱の影響を受けた作法であって、決して我国固有の呪法では無いと考えられるのである。それ故に是等の詳細は、[[日本巫女史/第二篇|第二篇]]または[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]において記述することとし、茲には比較的我国の古俗に近いと信じたものだけを挙げるとした。今は故人となったが、上銘三郎平氏(国学院大学生)が郷里の伝説とて語ったところによると、越中国城端町附近の巫女は、昔は七ヶ所の墓地の土を採り集め、その土を捏ね合せて、丈け三四寸位の人形を拵え、これを千人の人に踏ませると呪力が発生するとて、大概は橋の袂か四つ辻に埋めて置き、千人の足にかかったと思う時分に掘出して箱に収め用いたそうである。そして此の人形を同地方ではヘンナと言っていたが、ヘンナはヒイナ——即ち雛の転訛であるそうだ〔三〕。此の話は、私が前に記述した壱岐国の巫女が、ヤボサと称する墓地にいる祖先の精霊を憑き神とし、併せて呪術の源泉と信じたものと一脈相通ずるものがあるように考えられて、私には特に興味深く感じられた次第なのである。
: 巫女の所持する人形が、如何なる手続きで、然も如何なる姿に作られるものであるか、これに就いての古代の見聞は、全く私には無いのであって、僅に極めて近世のものしか——それも漸く二三しか承知していぬのである。併しながら此の二三の例証とても、厳格なる意義から言えば、後世に支那の巫蠱の影響を受けた作法であって、決して我国固有の呪法では無いと考えられるのである。それ故に是等の詳細は、[[日本巫女史/第二篇|第二篇]]または[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]において記述することとし、茲には比較的我国の古俗に近いと信じたものだけを挙げるとした。今は故人となったが、上銘三郎平氏(国学院大学生)が郷里の伝説とて語ったところによると、越中国城端町附近の巫女は、昔は七ヶ所の墓地の土を採り集め、その土を捏ね合せて、丈け三四寸位の人形を拵え、これを千人の人に踏ませると呪力が発生するとて、大概は橋の袂か四つ辻に埋めて置き、千人の足にかかったと思う時分に掘出して箱に収め用いたそうである。そして此の人形を同地方ではヘンナと言っていたが、ヘンナはヒイナ——即ち雛の転訛であるそうだ〔三〕。此の話は、私が前に記述した壱岐国の巫女が、ヤボサと称する墓地にいる祖先の精霊を憑き神とし、併せて呪術の源泉と信じたものと一脈相通ずるものがあるように考えられて、私には特に興味深く感じられた次第なのである。
: 奥州のイタコが持っているオシラ神も、それが人形であることは疑いないようである。そして私の見たオシラ神は、オヒナ——即ち雛の訛語(東北地方ではヒナをヒラと発音し、オヒラと云うている所がある)であって、古くは同じく他の巫女が持っていた人形と異るものでないと信じている。オシラ神は昔は竹で作られ、今では東方から出た紫の桑の枝で作り、然も桑で拵えるのは、此の木の皮を剝いだ匂いが牝口のそれに似ているからだという伝説もあるが、その理由は何れにせよ、人形であったことだけは否まれぬ。それと同時に、オシラ神は古作ほど、人の顔でなくして馬の首であるから、人形ではあるまいと云う説も私には受け容れられぬ。これは巫女の神であったオシラ神が蚕の神となり、更に蚕が馬と結びつけられたのであることを知れば、馬の首の問題は容易に解決される筈である。
: 奥州のイタコが持っているオシラ神も、それが人形であることは疑いないようである。そして私の見たオシラ神は、オヒナ——即ち雛の訛語(東北地方ではヒナをヒラと発音し、オヒラと云うている所がある)であって、古くは同じく他の巫女が持っていた人形と異るものでないと信じている。オシラ神は昔は竹で作られ、今では東方から出た紫の桑の枝で作り、然も桑で拵えるのは、此の木の皮を剝いだ匂いが牝口のそれに似ているからだという伝説もあるが、その理由は何れにせよ、人形であったことだけは否まれぬ。それと同時に、オシラ神は古作ほど、人の顔でなくして馬の首であるから、人形ではあるまいと云う説も私には受け容れられぬ。これは巫女の神であったオシラ神が蚕の神となり、更に蚕が馬と結びつけられたのであることを知れば、馬の首の問題は容易に解決される筈である。
Docsへの投稿はすべて、他の投稿者によって編集、変更、除去される場合があります。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください(詳細はDocs:著作権を参照)。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!

このページを編集するには、下記の確認用の質問に回答してください (詳細):

取り消し 編集の仕方 (新しいウィンドウで開きます)