日本巫女史/第一篇/第三章/第三節」を編集中

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私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に『天つ<ruby><rb>菅麻</rb><rp>(</rp><rt>スガソ</rt><rp>)</rp></ruby>を、<ruby><rb>本刈断</rb><rp>(</rp><rt>モトカリタ</rt><rp>)</rp></ruby>ち<ruby><rb>末</rb><rp>(</rp><rt>スヱ</rt><rp>)</rp></ruby>打切りて、<ruby><rb>天津祝詞</rb><rp>(</rp><rt>アマツノリト</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>太祝詞事</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトコト</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>れ、斯く宣らば天つ神は』云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。
私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に『天つ<ruby><rb>菅麻</rb><rp>(</rp><rt>スガソ</rt><rp>)</rp></ruby>を、<ruby><rb>本刈断</rb><rp>(</rp><rt>モトカリタ</rt><rp>)</rp></ruby>ち<ruby><rb>末</rb><rp>(</rp><rt>スヱ</rt><rp>)</rp></ruby>打切りて、<ruby><rb>天津祝詞</rb><rp>(</rp><rt>アマツノリト</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>太祝詞事</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトコト</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>れ、斯く宣らば天つ神は』云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。


太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に『使天児屋命掌其解除之<ruby><rb>太諄辞</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>而宣之。』のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は『天下<ruby><rb>依</rb><rp>(</rp><rt>ヨザ</rt><rp>)</rp></ruby>し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん』とあり、後は『和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、<ruby><rb>称辞</rb><rp>(</rp><rt>タダヘコトヲ</rt><rp>)</rp></ruby>竟へ奉らんと申す』とある。「道饗祭」には『神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す』とあり、「豊受宮神嘗祭」には『天照し坐す皇大神の大前に申し<ruby><rb>進</rb><rp>(</rp><rt>タテマツ</rt><rp>)</rp></ruby>る、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等<ruby><rb>諸</rb><rp>(</rp><rt>モロモロ</rt><rp>)</rp></ruby>聞しめせと宣る』とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には『この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の<ruby><rb>太詔詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>をもて宣れ』とあり、更に「万葉集」巻十七には『中臣の<ruby><rb>太祝詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴトイ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ祓ひ、<ruby><rb>贖</rb><rp>(</rp><rt>アダ</rt><rp>)</rp></ruby>ふ命も誰がために<ruby><rb>汝</rb><rp>(</rp><rt>ナレ</rt><rp>)</rp></ruby>』と載せてある。
太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に『使天児屋命掌其解除之<ruby><rb>太諄辞</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>而宣之。』のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は『天下<ruby><rb>依</rb><rp>(</rp><rt>ヨザ</rt><rp>)</rp></ruby>し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん』とあり、後は『和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、<ruby><rb>称辞</rb><rp>(</rp><rt>タヾヘコトヲ</rt><rp>)</rp></ruby>竟へ奉らんと申す』とある。「道饗祭」には『神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す』とあり、「豊受宮神嘗祭」には『天照し坐す皇大神の大前に申し<ruby><rb>進</rb><rp>(</rp><rt>タテマツ</rt><rp>)</rp></ruby>る、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等<ruby><rb>諸</rb><rp>(</rp><rt>モロヽヽ</rt><rp>)</rp></ruby>聞しめせと宣る』とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には『この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の<ruby><rb>太詔詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>をもて宣れ』とあり、更に「万葉集」巻十七には『中臣の<ruby><rb>太祝詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴトイ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ祓ひ、<ruby><rb>贖</rb><rp>(</rp><rt>アダ</rt><rp>)</rp></ruby>ふ命も誰がために<ruby><rb>汝</rb><rp>(</rp><rt>ナレ</rt><rp>)</rp></ruby>』と載せてある。


而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると『或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり』とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は『太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノル</rt><rp>)</rp></ruby>此詞を指せるなり』として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。
而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると『或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり』とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は『太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノル</rt><rp>)</rp></ruby>此詞を指せるなり』として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。
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とて〔六〕、遂に禊祓を太祝詞と断定したのである。鈴木重胤は平田説に示唆されて一段と発展し、伯家に伝りし大祓式に三種ノ祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、
とて〔六〕、遂に禊祓を太祝詞と断定したのである。鈴木重胤は平田説に示唆されて一段と発展し、伯家に伝りし大祓式に三種ノ祝詞あるを論拠として、遂に太詔詞は、


: 吐普加身衣身多女とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普は<ruby><rb>遠大</rb><rp>(</rp><rt>トホ</rt><rp>)</rp></ruby>にて天地の<ruby><rb>底際</rb><rp>(</rp><rt>ソコヒ</rt><rp>)</rp></ruby>の内を悉く取統て云なり、加身は神にて天上地下に至るまで感通らせる神を申せり、依身は<ruby><rb>能看</rb><rp>(</rp><rt>エミ</rt><rp>)</rp></ruby>、多女は<ruby><rb>可給</rb><rp>(</rp><rt>タメ</rt><rp>)</rp></ruby>と云ふ事にて(中略)。簡古にして能く六合を<ruby><rb>網羅</rb><rp>(</rp><rt>トリスベ</rt><rp>)</rp></ruby>たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり(中略)。此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給<small>幣</small>清給<small>幣</small>の語を添て申すを以て<ruby><rb>暁</rb><rp>(</rp><rt>サト</rt><rp>)</rp></ruby>る可きなり云々。
: 吐普加身衣身多女とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普は<ruby><rb>遠大</rb><rp>(</rp><rt>トホ</rt><rp>)</rp></ruby>にて天地の<ruby><rb>底際</rb><rp>(</rp><rt>ソコヒ</rt><rp>)</rp></ruby>の内を悉く取統て云なり、加身は神にて天上地下に至るまで感通らせる神を申せり、依身は<ruby><rb>能看</rb><rp>(</rp><rt>エミ</rt><rp>)</rp></ruby>、多女は<ruby><rb>可給</rb><rp>(</rp><rt>タメ</rt><rp>)</rp></ruby>と云ふ事にて(中略)。簡古にして能く六合を<ruby><rb>網羅</rb><rp>(</rp><rt>トリスベ</rt><rp>)</rp></ruby>たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり(中略)。此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なるものなり、そは大祓の大祝詞に用ゐらゝるに祓給<small>幣</small>清給<small>幣</small>の語を添て申すを以て<ruby><rb>暁</rb><rp>(</rp><rt>サト</rt><rp>)</rp></ruby>る可きなり云々。


と主張している〔七〕。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、これを吐普加身云々を以て充当しようと企てられたのは、恰も平田翁がこれを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じことで、共に出典を欠いた臆説と見るべき外はないのである。
と主張している〔七〕。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、これを吐普加身云々を以て充当しようと企てられたのは、恰も平田翁がこれを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じことで、共に出典を欠いた臆説と見るべき外はないのである。
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: 問何故以解除詞称中臣祓哉、天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何。答以解除詞称中臣祓者、中臣氏行幸毎度奉献御麻之間有中臣祓之号云々。此外猶在秘説歟、凡謂濫觴、天児屋命{○原/註略}掌神事之宗源云々。奉天神寿詞、天村雲命者{○原/註略}捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天児屋命、天児屋命貽神術於奉仕累葉(中略)。次座<small>仁</small>面受秘訓莫伝外人、由縁異他相承厳明也、復次天祝太祝詞、是又有多説、此故聖徳太子奉詔撰定伊弉諾尊小戸橘之檍原解除、天児屋命解素戔鳴悪事神呪、皇孫尊降臨霊驛呪文、倭姫皇女下樋小河大祓、彼此明々也、共可以尋歟(続々群書類従「神祇部」本)。
: 問何故以解除詞称中臣祓哉、天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何。答以解除詞称中臣祓者、中臣氏行幸毎度奉献御麻之間有中臣祓之号云々。此外猶在秘説歟、凡謂濫觴、天児屋命{○原/註略}掌神事之宗源云々。奉天神寿詞、天村雲命者{○原/註略}捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天児屋命、天児屋命貽神術於奉仕累葉(中略)。次座<small>仁</small>面受秘訓莫伝外人、由縁異他相承厳明也、復次天祝太祝詞、是又有多説、此故聖徳太子奉詔撰定伊弉諾尊小戸橘之檍原解除、天児屋命解素戔鳴悪事神呪、皇孫尊降臨霊驛呪文、倭姫皇女下樋小河大祓、彼此明々也、共可以尋歟(続々群書類従「神祇部」本)。


[[画像:ainumiko01.gif|thumb|アイヌの巫女(ツスを行う扮裝)]]
[[画像:ainumiko01.gif|frame|アイヌの巫女(ツスを行う扮裝)]]
 
此の記事に拠れば、太詔詞は全くの呪文であって、然もその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作された此の種の文献を、決して無条件で受容れる者ではないが、兎に角に祝詞の本質が古く呪文であったこと、及び此の書の作られた南北朝頃には、まだ太詔詞なるものが存していたことなどを知るには、極めて重要なる暗示を与えるものと考えたので、かくは長々と引用した次第なのである。殊に注意しなければならぬことは、此の記事によれば、天児屋命は純然たる公的呪術師であって〔八〕、神事の宗源とは即ち呪術であることが明確に認識される点である。まだ太詔詞に就いては、記したいことが相当に残っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戸命の正体に就いて筆路をすすめるとする。
此の記事に拠れば、太詔詞は全くの呪文であって、然もその呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名によって伝えられている事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手によって著作された此の種の文献を、決して無条件で受容れる者ではないが、兎に角に祝詞の本質が古く呪文であったこと、及び此の書の作られた南北朝頃には、まだ太詔詞なるものが存していたことなどを知るには、極めて重要なる暗示を与えるものと考えたので、かくは長々と引用した次第なのである。殊に注意しなければならぬことは、此の記事によれば、天児屋命は純然たる公的呪術師であって〔八〕、神事の宗源とは即ち呪術であることが明確に認識される点である。まだ太詔詞に就いては、記したいことが相当に残っているのであるが、それでは余りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戸命の正体に就いて筆路をすすめるとする。


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: 言霊信仰は、おのずから言語を人格神としてとり扱うに至るべきことを想像せしめる。その例として、辞代主神、一言主神の如き、言霊神ではないかと思われる。辞代主のしばしば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦『郷土研究』によれば〔一〇〕、よく託宣したことが見えている。善言も一言、まが言も一言と神徳を伝えたその神が、言霊の神であるべきことは想像せられ易い。
: 言霊信仰は、おのずから言語を人格神としてとり扱うに至るべきことを想像せしめる。その例として、辞代主神、一言主神の如き、言霊神ではないかと思われる。辞代主のしばしば託宣するは史伝に見ゆるところであり、一言主も亦『郷土研究』によれば〔一〇〕、よく託宣したことが見えている。善言も一言、まが言も一言と神徳を伝えたその神が、言霊の神であるべきことは想像せられ易い。


とあるのは至言であって〔一一〕、私は是等の辞代主、一言主に、更に太詔戸命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戸命と共に卜庭の神である櫛真知命は波々加ノ木の神格化であるとまで論究されていながら〔一二〕、何故に太詔戸命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである。所謂、智者の一失とは此の事であろう。前に引いた「亀兆伝」の太詔戸命の細註にも『持神女、住天香山也、亀津比女命、今称天津詔戸太詔戸命也。』となりと明記し、児屋命と別神である事を立証している〔一三〕。太詔戸命は言霊の神格化として考うべきである。
とあるのは至言であって〔一一〕、私は是等の辞代主、一言主に、更に太詔戸命を加えたいと思うのである。伴翁は太詔戸命と共に卜庭の神である櫛真知命は波々加ノ木の神格化であるとまで論究されていながら〔一二〕、何故に太詔戸命の太祝詞の神格化に言及せられなかったのであるか、私にはそれが合点されぬのである所謂、智者の一失とは此の事であろう。前に引いた「亀兆伝」の太詔戸命の細註にも『持神女、住天香山也、亀津比女命、今称天津詔戸太詔戸命也。』となりと明記し、児屋命と別神である事を立証している〔一三〕。太詔戸命は言霊の神格化として考うべきである。


'''二 太詔戸命と亀津比女命との関係'''
'''二 太詔戸命と亀津比女命との関係'''


亀津比女命なる神名は、独り「亀兆伝」の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なるゆゑ、その正体を突きとめるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ女、天ノ香山に住む、亀津比女命、今は太詔戸命と称するとある意味は、既に言霊の太詔詞が神格化されて太詔戸命となり、これに奉仕していた巫女を亀津比女命と称したのが、更に附会混糅されて亀津比女命は即ち太詔戸命であると考えられるようになったものと信ずるのである。而て斯かる例証は原始神道の信仰においては屡々逢着するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。
亀津比女命なる神名は、独り「亀兆伝」の細註に現れただけで、その他の神典古史には全く見えぬ神なるゆゑ、その正体を突きとめるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ女、天ノ香山に住む、亀津比女命、今は太詔戸命と称するとある意味は、既に言霊の太詔詞が神格化されて太詔戸命となり、これに奉仕していた巫女を亀津比女命と称したのが、更に附会混糅されて亀津比女命は即ち太詔戸命であると考えられるようになったものと信ずるのである。而て斯かる例証は原始神道の信仰においては屡屡逢着するところであって、少しも不思議とするに足らぬのである。


旁証として茲に一二挙げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神は日神に奉仕された最高の女性であって、決して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神徳が弥が上に向上されて来た結果は、天照神即日神という信仰となってしまったのである。更に豊受神にしたところが、「丹後国風土記」の逸文を徴証として稽えれば、豊受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して穀神その物ではなかったのである。それが伊勢の度会に遷座し、天照神の御饌神として神徳を張るようになったので、遂に豊受神即穀神とまで到達したのである。而して茲に併せ記すことは、頗る比倫を失う嫌いはあるが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子、酒見郎女の二神も、仁徳朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豊受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論あるが、兎に角にこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、よく発見されることなのである。亀津比女と太詔戸命との関係も又それであって、始めは亀津比女は神を持てる女として太詔戸命に仕えていたのが、後には太詔戸命その者となってしまったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。
旁証として茲に一二挙げんに、原始神道の立場から云えば、畏くも天照神は日神に奉仕された最高の女性であって、決して日神その者ではなかったのである。それが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神徳が弥が上に向上されて来た結果は、天照神即日神という信仰となってしまったのである。更に豊受神にしたところが、「丹後国風土記」の逸文を徴証として稽えれば、豊受神は穀神に奉仕した女性であって、これも決して穀神その物ではなかったのである。それが伊勢の度会に遷座し、天照神の御饌神として神徳を張るようになったので、遂に豊受神即穀神とまで到達したのである。而して茲に併せ記すことは、頗る比倫を失う嫌いはあるが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子、酒見郎女の二神も、仁徳朝の掌酒であって、酒神その者ではなかったのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豊受神と同じ理由──その間に大小と高下との差違は勿論あるが、兎に角にこうした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、よく発見されることなのである。亀津比女と太詔戸命との関係も又それであって、始めは亀津比女は神を持てる女として太詔戸命に仕えていたのが、後には太詔戸命その者となってしまったのである。こう解釈してこそ両者の関係が会得されるのである。
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; 〔註九〕 : 正卜考(伴信友全集本)。  
; 〔註九〕 : 正卜考(伴信友全集本)。  
; 〔註一〇〕 : 郷土研究(第四巻第一号)にある柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名となっている)の「一言主考」を指したのである。  
; 〔註一〇〕 : 郷土研究(第四巻第一号)にある柳田国男先生(誌上には川村杳樹の匿名となっている)の「一言主考」を指したのである。  
; 〔註一一〕 : 武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」から抄録した。猶お此の機会において、私は此の書を読んで種々有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
; 〔註一一〕 : 武田祐吉氏著の「神と神を祭る者との文学」から抄録した。猶ほ此の機会において、私は此の書を読んで種々有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
; 〔註一二〕 : 「正卜考」のうちに収めた「波々加考」に拠る。  
; 〔註一二〕 : 「正卜考」のうちに収めた「波々加考」に拠る。  
; 〔註一三〕 : 伴翁は「亀兆伝」は後作であろうとの意を「正卜考」の中で述べている。或は後作であるかも知れぬが、ここには其の詮索は姑らく預り、釈紀の作られた頃には此種の信仰が事実として考えられていたのであるとして眺めたのである。
; 〔註一三〕 : 伴翁は「亀兆伝」は後作であろうとの意を「正卜考」の中で述べている。或は後作であるかも知れぬが、ここには其の詮索は姑らく預り、釈紀の作られた頃には此種の信仰が事実として考えられていたのであるとして眺めたのである。


[[Category:中山太郎]]
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