日本巫女史/第一篇/第三章/第三節」を編集中

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私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に『天つ<ruby><rb>菅麻</rb><rp>(</rp><rt>スガソ</rt><rp>)</rp></ruby>を、<ruby><rb>本刈断</rb><rp>(</rp><rt>モトカリタ</rt><rp>)</rp></ruby>ち<ruby><rb>末</rb><rp>(</rp><rt>スヱ</rt><rp>)</rp></ruby>打切りて、<ruby><rb>天津祝詞</rb><rp>(</rp><rt>アマツノリト</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>太祝詞事</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトコト</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>れ、斯く宣らば天つ神は』云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。
私の父は大へんな平田篤胤翁の崇拝家であっただけに、草深い片田舎の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であった〔三〕。その父が生前に書き残して置いたものの中に「六月晦大祓」の祝詞の一節に『天つ<ruby><rb>菅麻</rb><rp>(</rp><rt>スガソ</rt><rp>)</rp></ruby>を、<ruby><rb>本刈断</rb><rp>(</rp><rt>モトカリタ</rt><rp>)</rp></ruby>ち<ruby><rb>末</rb><rp>(</rp><rt>スヱ</rt><rp>)</rp></ruby>打切りて、<ruby><rb>天津祝詞</rb><rp>(</rp><rt>アマツノリト</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>太祝詞事</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトコト</rt><rp>)</rp></ruby>を<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>れ、斯く宣らば天つ神は』云々とある「太祝詞」とは何の事か知るに由がないと云う意味が記してあった。私は深く此の事を記憶していて、爾来、本居・平田両翁の古典の研究を始め、伴信友、橘守部、鈴木重胤等の各先覚の著書を読む折には、必ず特に「太詔詞」の一句に注意を払って来たのであるけれども、私の不敏のためか、今に此の一句の正体を突き留めることが出来ぬのである。それでは、代々の先覚者には、此の事が充分に解釈されていたかと云うに、どうも左様ではなくして、多分こんな事だろう位の推し当ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位のものにしか過ぎぬのである。かく碩学宏聞の大家にあっても、正体を知ることの出来なかった太詔詞の一句、田舎親爺の父などに知れるべき筈のないのは、寧ろ当然と云うべきである。然らば、その太詔詞とは如何なる物であるか、先ず二三の用例を挙げるとする。


太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に『使天児屋命掌其解除之<ruby><rb>太諄辞</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>而宣之。』のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は『天下<ruby><rb>依</rb><rp>(</rp><rt>ヨザ</rt><rp>)</rp></ruby>し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん』とあり、後は『和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、<ruby><rb>称辞</rb><rp>(</rp><rt>タダヘコトヲ</rt><rp>)</rp></ruby>竟へ奉らんと申す』とある。「道饗祭」には『神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す』とあり、「豊受宮神嘗祭」には『天照し坐す皇大神の大前に申し<ruby><rb>進</rb><rp>(</rp><rt>タテマツ</rt><rp>)</rp></ruby>る、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等<ruby><rb>諸</rb><rp>(</rp><rt>モロモロ</rt><rp>)</rp></ruby>聞しめせと宣る』とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には『この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の<ruby><rb>太詔詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>をもて宣れ』とあり、更に「万葉集」巻十七には『中臣の<ruby><rb>太祝詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴトイ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ祓ひ、<ruby><rb>贖</rb><rp>(</rp><rt>アダ</rt><rp>)</rp></ruby>ふ命も誰がために<ruby><rb>汝</rb><rp>(</rp><rt>ナレ</rt><rp>)</rp></ruby>』と載せてある。
太詔詞の初見は「日本書紀」神代巻の一書に『使天児屋命掌其解除之<ruby><rb>太諄辞</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>而宣之。』のそれで、祝詞では前掲の大祓の外にも散見しているが、重なるものを挙げれば「鎮火祭」には二ヶ所あって、前は『天下<ruby><rb>依</rb><rp>(</rp><rt>ヨザ</rt><rp>)</rp></ruby>し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん』とあり、後は『和稲荒稲に至るまでに、横山のごと置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、<ruby><rb>称辞</rb><rp>(</rp><rt>タヾヘコトヲ</rt><rp>)</rp></ruby>竟へ奉らんと申す』とある。「道饗祭」には『神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉ると申す』とあり、「豊受宮神嘗祭」には『天照し坐す皇大神の大前に申し<ruby><rb>進</rb><rp>(</rp><rt>タテマツ</rt><rp>)</rp></ruby>る、天津祝詞の太祝詞を、神主部物忌等<ruby><rb>諸</rb><rp>(</rp><rt>モロヽヽ</rt><rp>)</rp></ruby>聞しめせと宣る』とあり、これも前に引用した「中臣寿詞」には『この玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るまで、天津祝詞の<ruby><rb>太詔詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴト</rt><rp>)</rp></ruby>をもて宣れ』とあり、更に「万葉集」巻十七には『中臣の<ruby><rb>太祝詞言</rb><rp>(</rp><rt>フトノリトゴトイ</rt><rp>)</rp></ruby>ひ祓ひ、<ruby><rb>贖</rb><rp>(</rp><rt>アダ</rt><rp>)</rp></ruby>ふ命も誰がために<ruby><rb>汝</rb><rp>(</rp><rt>ナレ</rt><rp>)</rp></ruby>』と載せてある。


而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると『或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり』とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は『太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノル</rt><rp>)</rp></ruby>此詞を指せるなり』として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。
而して是等の用例に現われたる太詔詞に対する諸先覚の考証を検討せんに、先ず賀茂真淵翁の説を略記すると『或人(中略)、されば茲に天津祝詞とあるは、別に神代より伝われる言あるならん、と云へるはひがことなり』とて〔四〕大祓の外に別に太詔詞あることを云わず、且つ太詔詞そのものに就いては、少しも触れていぬのである。本居宣長翁は『太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の<ruby><rb>宣</rb><rp>(</rp><rt>ノル</rt><rp>)</rp></ruby>此詞を指せるなり』として〔五〕、賀茂説を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うていぬ。然るに、平田篤胤翁に至っては、例の翁一流の臆断を以て、異説を試みている。
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