「日本巫女史/第一篇/第三章/第四節」の版間の差分

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現代人は祝詞と云へば、其れは概して人が神へ請祈る為に、意の有る處を申上げる物とばかり考へてゐる樣である。實際、現行の祝詞なる物は、此用意の下に作られ、人が神へ祈願するだけの目的しか有つてゐぬのである。併しながら、斯かる祝詞觀は、其の發生的方面を全く沒卻した物であつて、祝詞の最初の使命は、此れと反對に、專ら神が意の有る處を人に告知らせる為に發生したのである。即ち祝詞(ノリト)の原意は詔事(ノリコト)であるから、其の語意より見るも、此事は會得されるのである。『龍田風神祭』の祝詞の一節に、
現代人は祝詞と云えば、それは概して人が神へ請い祈るために、意のあるところを申し上げるものとばかり考えているようである。実際、現行の祝詞なるものは、此の用意の下に作られ、人が神へ祈願するだけの目的しか有っていぬのである。併しながら、かかる祝詞観は、其の発生的方面を全く沒却したものであって、祝詞の最初の使命は、これと反対に、専ら神が意のあるところを人に告げ知らせるために発生したのである。即ち祝詞(ノリト)の原意は詔事(ノリコト)であるから、その語意より見るも、このことは会得されるのである。『竜田風神祭』の祝詞の一節に、


: 天下公民の作れる物を、草の片葉に至る迄成賜はぬ事、一年・二年に非ず、歲間無く備へる故に、百の物知り人等の卜事に出でむ[一]。神の御心は、此神と白せと仰賜ひき。此を物知り人等の卜事を以て卜へども、出づる神の御心も無しと白すと聞食して、皇御孫命詔賜はく、神等をば、天社・國社と忘るる事無く遺つる事無く、稱辭竟奉ると思ほしめすを、誰ぞの神ぞ、天下公民の作りと作る物を成賜はず、傷(ソコナ)へる神等は、我御心ぞと、悟(サト)し奉れと誓(ウケ)賜ひき。是を以て、皇御孫命の大御夢に悟し奉らん、天下公民の作りと作る物を、惡しき風荒き水に遭はせつつ成賜はず傷へるは、我御名は、天御柱命・國御柱命と御名は悟し奉りて云云。
: 天の下の公民の作れる物を、草の片葉に至るまで成したまわぬこと、一年二年にあらず、歳間無く備える故に、百の物知り人等の卜事に出でむ〔一〕。神の御心は、此神と白せと仰せたまいき。此を物知り人等の卜事を以て卜へども、出ずる神の御心も無しと白すと聞しめして、皇御孫命詔りたまわく、神等をば、天社国社と忘るる事なく遺つる事なく、称辞竟え奉ると思ほしめすを、誰ぞの神ぞ、天の下の公民の作りと作る物を成したまわず、傷(ソコナ)える神等は、我御心ぞと、悟(サト)し奉れと誓(ウケ)い賜いき。是を以て、皇御孫命の大御夢に悟し奉らん、天の下の公民の作りと作る物を、悪しき風荒き水に遭わせつつ成したまわず傷えるは、我御名は、天の御柱の命国の御柱の命と御名は悟し奉りて云々。


と有るのは、良く祝詞の發生的事象を盡してゐるのである。
とあるのは、よく祝詞の発生的事象を尽しているのである。


更に詳言すれば、祝詞なる物は、神が人に對して、積極的に、此れ此れの事をして祭れとか、又は消極的に、此れ此れの事はする勿と誨へた事が、此れの起源と成つてゐるのである。而して此の意義を理解し易い樣、祝詞の中から例證を覔めて具體的に言へば、前者の例としては『遷卻崇神祭』の祝詞に、
更に詳言すれば、祝詞なるものは、神が人に対して、積極的に、これこれの事をして祭れとか、又は消極的に、これこれの事はするなと誨えたことが、これの起原となっているのである。而して此の意義を理解し易いよう、祝詞のうちから例証を覓めて具体的に言えば、前者の例としては「遷却崇神祭」の祝詞に、


: 進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打斷る物と太刀、馳せ出づる物と御馬。
: 進る幣帛は、明妙照妙和妙荒妙に備え奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打ち断る物と太刀、馳せ出ずる物と御馬。


其他種種の幣帛を橫出の如く置き足らはして祭つたのが其れであつて、後者の例としては『道饗祭』の祝詞に、
その他種々の幣帛を横出の如く置き足らわして祭ったのがそれであって、後者の例としては「道饗祭」の祝詞に、


: 根國底國より麤び疎び來む物に、相率り相口會する事無くて、下行がば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り・日の守りに、守り奉り齋ひ奉れ。
: 根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会する事無くて、下行かば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り日の守りに、守り奉り斎い奉れ。


と有るのが其れである。從つて祝詞は、古い物に成る程宣命體と成つてゐるが、然も其の宣命の一段と古い處に溯ると、託宣と成つてゐるのである。而して其の託宣は概して神の憑代(ヨリシロ)である巫女の口を藉りて發せられるのである。
とあるのがそれである。従って祝詞は、古い物になるほど宣命体となっているが、然もその宣命の一段と古いところに溯ると、託宣となっているのである。而してその託宣は概して神の憑(ヨ)り代(シロ)である巫女の口を藉りて発せられるのである。


古代人は神意を伺ふ方法を幾種類が發明し工夫して所持してゐたが、其の中で祝詞に最も關係の深い物を舉げれば、託宣である。勿論、此託宣の中には、既記の如く、呪言も呪文も、更に祝詞的分子も、多量に含まれてゐるが、託宣は直ちに神聲であり、神語である。『欽明紀』十六年春二月條に「天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰。」云云と有るのは、祝者──即ち巫女﹝祝はハフリと訓むとは後章に述べる。﹞が神語を託宣した者である。『萬葉集』卷十九に「注江に、齋(イツ)く祝(ハフリ)が、神語(カムコト)と、行くとも來とも、船は早けむ。﹝4243﹞」と有るのや、同集卷四の長歌の一節は「天地の、神辭寄せて、敷妙の、衣手交へて、自妻と、賴める今宵。﹝0546﹞」等を始として、書紀、萬葉に多く散見する處である。
古代人は神意を伺う方法を幾種類が発明し工夫して所持していたが、その中で祝詞に最も関係の深いものを挙げれば、託宣である。勿論、此の託宣のうちには、既記の如く、呪言も呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれているが、託宣は直ちに神声であり、神語である。「欽明紀」十六年春二月条に『天皇命神祇伯、敬受策於神祇、祝者迺託神語報曰。』云々とあるのは、祝者──即ち巫女(祝はハフリと訓むとは後章に述べる)が神語を託宣した者である。「万葉集」巻十九に『注の江に斎齋(イツ)く祝(ハフリ)が神語(カムコト)と、行くとも来とも船は早けむ。』とあるのや、同集巻四の長歌の一節は『天地の神辞よせて、敷妙の衣手交えて、おの妻と頼める今宵。』などを始めとして、書紀・万葉に多く散見するところである。


而して、此の神語なる物は、如何なる形式で表現されるかと云ふに、憑神(カカルカミ)に依つて、或は散文的の普通の言語を以てし、或は歌謠的に律語を以てする物と有るが、概して言へば、太古に溯る程素朴で單純であるのに反し、時代の降る程枕辭を冠し、對句を用ゐる等、頗る典雅な物となる。『肥前國風土記』佐嘉郡條に、
而して、此の神語なるものは、如何なる形式で表現されるかと云うに、憑(カカ)る神によって、或は散文的の普通の言語を以てし、或は歌謡的に律語を以てする物とあるが、概して言えば、太古に溯るほど素朴で単純であるのに反し、時代の降るほど枕辞を冠し、対句を用いるなど、頗る典雅なものとなる。「肥前国風土記」佐嘉郡の条に、


: 郡西有川,名曰佐嘉川。﹝中略。﹞山川上有荒神,往來之人,半生半殺。於茲,縣主等祖大荒田,占問。于時,有土蜘蛛大山田女、狹山田女,﹝中山曰、巫女也。﹞二女子云:「取下田村之土,作人形、馬形,祭祝此神,必在應和。」大荒田,即隨其辭祭此神,神敵(ウチテ)此祭,遂應和之。﹝云云。﹞
: 郡西有川,名曰佐嘉川(中略)。山川上有荒神、往来之人半生半殺、於茲県主等祖大荒田占問、于時有土蜘蛛大山田女狭山田女(中山曰、巫女なり。)、二女子云、取下田村之土作人形馬形、祭祝此神、必在応和、大荒田即随其辞祭此神、神敵(ウチテ)此祭遂応和云々。


と有るのは、神語の最も簡古な物で、前者の例と見るべく、『播磨國風土記』逸文に、
とあるのは、神語の最も簡古なもので、前者の例と見るべく、「播磨国風土記」逸文に、


息長帶日女命,【○神功皇后。】欲平新羅國,下坐之時,禱於眾神。爾時,國堅大神之子爾保都比賣命,著カカリ國造石坂比賣命,教曰:「﹝中略。﹞比比良木八尋桙根底不附國(ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ)、越賣眉引國(ヲトメノマヨヒキノクニ)、玉匣賀賀益國(タマクシゲカガヤククニ)、苦尻有寶白衾新羅國(コモマクラタカラアルタフサマシラギノクニ)矣,以丹浪而將平伏賜。」如此教賜。﹝云云。﹞
: 息長帯日女命【○神功皇后】欲平新羅国、下坐之時、祷於衆神、尓時、国堅大神之子尓保都比売命、着(カカリ)国造石坂比売命教曰:(中略)。比々良木八尋桙根底不附国(ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ)、越売眉引国(ヲトメノマヨヒキノクニ)、玉匣賀々益国(タマクシゲカガヤククニ)、苦尻有宝白衾新羅国(コモマクラタカラアルタフサマシラギノクニ)矣、以丹浪而来平賜伏、如此教賜云々。


と有るのは、やや技巧の加つた物で、後者の例として見る事が出來る。更に『神功紀』に載せてある神后の託宣に至つては、﹝中山曰、此の全文は後章に引用する、參照を望む。﹞對句と疊句を用ゐ、高雅にして典麗を極め、全く歌謠體の律語を以て表現されてゐる。
とあるのは、やや技巧の加ったもので、後者の例として見ることが出来る。更に「神功紀」に載せてある神后の託宣(中山曰、此の全文は後章に引用する、参照を望む。)に至っては、対句と畳句を用い、高雅にして典麗を極め、全く歌謡体の律語を以て表現されている。


斯くて祝詞の基調と成つた託宣も、時勢の降ると共に、漸く常識化され、倫理化されて來て、祝詞が固定する樣に成れば、字句は洗鍊され、構想は醇化されて、呪文の分子と、託宣の內容は減卻される事と成り、且つ神が人に宣る祝詞が、正反對に人が神に申す祝詞と解釋される樣に成つて來ては、祝詞と巫女との關係は全く世人から忘られてしまつたのである。
かくて祝詞の基調となった託宣も、時勢の降ると共に、漸く常識化され、倫理化されて来て、祝詞が固定するようになれば、字句は洗練され、構想は醇化されて、呪文の分子と、託宣の内容は減却されることとなり、且つ神が人に宣る祝詞が、正反対に人が神に申す祝詞と解釈されるようになって来ては、祝詞と巫女との関係は全く世人から忘られてしまったのである。


併しながら、民俗は永遠性を帶びてゐるだけに、祝詞の解釋が故實を失ふ樣に成つても、猶ほ其の古き面影を留める為に工夫された物が、「返し祝詞」の一事である。「返し祝詞」とは、人が神に申した祝詞に對して、神が其の事を納受した證據として返答する事なのである。洛北神社の「返し祝詞」は、最も有名なものであつて[二]、北野天神社、石清水八幡宮にも此事が存してゐた。『梁塵秘抄』に「稻荷山みつの御垣打ち叩き、吾が祈ぎ事ぞ神も答へよ。」と有るのも、蓋し此思想を詠んだ物であらう。
併しながら、民俗は永遠性を帯びているだけに、祝詞の解釈が故実を失うようになっても、猶ほその古き面影を留めるために工夫された物が、「返し祝詞」の一事である。「返し祝詞」とは、人が神に申した祝詞に対して、神がその事を納受した証拠として返答することなのである。洛北賀茂神社の「返し祝詞」は、最も有名なものであって〔二〕、北野天神社、石清水八幡宮にも此の事が存していた。「梁塵秘抄」に『稲荷山みつの玉垣打ちたたき、吾がねぎごとぞ神も答えよ。』とあるのも、蓋し此の思想を詠んだ物であろう。




; 〔註一〕 : 物知りとは、現代では博識家と云ふ意味に用ゐられてゐるが、古く物とは靈の意味であつて、物知りとは即ち靈に通ずる人と云ふ事なので、即ち巫覡を指した物である。琉球では、今に此意味に、物知りの語を用ゐてゐる。從つて大物主神の意味も、此れで釋然するのである。  
; 〔註一〕 : 物知りとは、現代では博識家と云う意味に用いられているが、古く物とは霊の意味であって、物知りとは即ち霊に通ずる人ということなので、即ち巫覡を指したものである。琉球では、今に此の意味に、物知りの語を用いている。従って大物主神の意味も、これで釈然するのである。  
; 〔註二〕 : 賀茂社では、今に「返し祝詞」を用ゐてゐると、宮內省掌典星野輝興氏から承つた事がある。記錄では『玉海』承安二年四月十二日條に「於寶前,申祝歟不聞,次祝歸出自中門於砌上申還祝,其音太高。」と見えてゐる。更に北野社は『北野誌』に、石清水八幡宮は『大日本古文書』石清水書卷一に載せてある。
; 〔註二〕 : 賀茂社では、今に「返し祝詞」を用いていると、宮内省掌典星野輝興氏から承ったことがある。記記録では「玉海」承安二年四月十二日の条に「於宝前、申祝歟不聞、次祝帰出自中門於砌上申還祝、其音太高。」と見えている。更に北野社は「北野誌」に、石清水八幡宮は「大日本古文書」石清水書巻一に載せてある。






[[Category:中山太郎]]
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2008年8月20日 (水) 03:11時点における版

日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第三章 巫女の用いし呪文と呪言

第四節 宣託と祝詞と巫女の関係

現代人は祝詞と云えば、それは概して人が神へ請い祈るために、意のあるところを申し上げるものとばかり考えているようである。実際、現行の祝詞なるものは、此の用意の下に作られ、人が神へ祈願するだけの目的しか有っていぬのである。併しながら、かかる祝詞観は、其の発生的方面を全く沒却したものであって、祝詞の最初の使命は、これと反対に、専ら神が意のあるところを人に告げ知らせるために発生したのである。即ち祝詞(ノリト)の原意は詔事(ノリコト)であるから、その語意より見るも、このことは会得されるのである。『竜田風神祭』の祝詞の一節に、

天の下の公民の作れる物を、草の片葉に至るまで成したまわぬこと、一年二年にあらず、歳間無く備える故に、百の物知り人等の卜事に出でむ〔一〕。神の御心は、此神と白せと仰せたまいき。此を物知り人等の卜事を以て卜へども、出ずる神の御心も無しと白すと聞しめして、皇御孫命詔りたまわく、神等をば、天社国社と忘るる事なく遺つる事なく、称辞竟え奉ると思ほしめすを、誰ぞの神ぞ、天の下の公民の作りと作る物を成したまわず、傷(ソコナ)える神等は、我御心ぞと、悟(サト)し奉れと誓(ウケ)い賜いき。是を以て、皇御孫命の大御夢に悟し奉らん、天の下の公民の作りと作る物を、悪しき風荒き水に遭わせつつ成したまわず傷えるは、我御名は、天の御柱の命国の御柱の命と御名は悟し奉りて云々。

とあるのは、よく祝詞の発生的事象を尽しているのである。

更に詳言すれば、祝詞なるものは、神が人に対して、積極的に、これこれの事をして祭れとか、又は消極的に、これこれの事はするなと誨えたことが、これの起原となっているのである。而して此の意義を理解し易いよう、祝詞のうちから例証を覓めて具体的に言えば、前者の例としては「遷却崇神祭」の祝詞に、

進る幣帛は、明妙照妙和妙荒妙に備え奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打ち断る物と太刀、馳せ出ずる物と御馬。

その他種々の幣帛を横出の如く置き足らわして祭ったのがそれであって、後者の例としては「道饗祭」の祝詞に、

根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会する事無くて、下行かば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り日の守りに、守り奉り斎い奉れ。

とあるのがそれである。従って祝詞は、古い物になるほど宣命体となっているが、然もその宣命の一段と古いところに溯ると、託宣となっているのである。而してその託宣は概して神の憑(ヨ)り代(シロ)である巫女の口を藉りて発せられるのである。

古代人は神意を伺う方法を幾種類が発明し工夫して所持していたが、その中で祝詞に最も関係の深いものを挙げれば、託宣である。勿論、此の託宣のうちには、既記の如く、呪言も呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれているが、託宣は直ちに神声であり、神語である。「欽明紀」十六年春二月条に『天皇命神祇伯、敬受策於神祇、祝者迺託神語報曰。』云々とあるのは、祝者──即ち巫女(祝はハフリと訓むとは後章に述べる)が神語を託宣した者である。「万葉集」巻十九に『注の江に斎齋(イツ)く祝(ハフリ)が神語(カムコト)と、行くとも来とも船は早けむ。』とあるのや、同集巻四の長歌の一節は『天地の神辞よせて、敷妙の衣手交えて、おの妻と頼める今宵。』などを始めとして、書紀・万葉に多く散見するところである。

而して、此の神語なるものは、如何なる形式で表現されるかと云うに、憑(カカ)る神によって、或は散文的の普通の言語を以てし、或は歌謡的に律語を以てする物とあるが、概して言えば、太古に溯るほど素朴で単純であるのに反し、時代の降るほど枕辞を冠し、対句を用いるなど、頗る典雅なものとなる。「肥前国風土記」佐嘉郡の条に、

郡西有川,名曰佐嘉川(中略)。山川上有荒神、往来之人半生半殺、於茲県主等祖大荒田占問、于時有土蜘蛛大山田女狭山田女(中山曰、巫女なり。)、二女子云、取下田村之土作人形馬形、祭祝此神、必在応和、大荒田即随其辞祭此神、神敵(ウチテ)此祭遂応和云々。

とあるのは、神語の最も簡古なもので、前者の例と見るべく、「播磨国風土記」逸文に、

息長帯日女命【○神功皇后】欲平新羅国、下坐之時、祷於衆神、尓時、国堅大神之子尓保都比売命、着(カカリ)国造石坂比売命教曰:(中略)。比々良木八尋桙根底不附国(ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ)、越売眉引国(ヲトメノマヨヒキノクニ)、玉匣賀々益国(タマクシゲカガヤククニ)、苦尻有宝白衾新羅国(コモマクラタカラアルタフサマシラギノクニ)矣、以丹浪而来平賜伏、如此教賜云々。

とあるのは、やや技巧の加ったもので、後者の例として見ることが出来る。更に「神功紀」に載せてある神后の託宣(中山曰、此の全文は後章に引用する、参照を望む。)に至っては、対句と畳句を用い、高雅にして典麗を極め、全く歌謡体の律語を以て表現されている。

かくて祝詞の基調となった託宣も、時勢の降ると共に、漸く常識化され、倫理化されて来て、祝詞が固定するようになれば、字句は洗練され、構想は醇化されて、呪文の分子と、託宣の内容は減却されることとなり、且つ神が人に宣る祝詞が、正反対に人が神に申す祝詞と解釈されるようになって来ては、祝詞と巫女との関係は全く世人から忘られてしまったのである。

併しながら、民俗は永遠性を帯びているだけに、祝詞の解釈が故実を失うようになっても、猶ほその古き面影を留めるために工夫された物が、「返し祝詞」の一事である。「返し祝詞」とは、人が神に申した祝詞に対して、神がその事を納受した証拠として返答することなのである。洛北賀茂神社の「返し祝詞」は、最も有名なものであって〔二〕、北野天神社、石清水八幡宮にも此の事が存していた。「梁塵秘抄」に『稲荷山みつの玉垣打ちたたき、吾がねぎごとぞ神も答えよ。』とあるのも、蓋し此の思想を詠んだ物であろう。


〔註一〕
物知りとは、現代では博識家と云う意味に用いられているが、古く物とは霊の意味であって、物知りとは即ち霊に通ずる人ということなので、即ち巫覡を指したものである。琉球では、今に此の意味に、物知りの語を用いている。従って大物主神の意味も、これで釈然するのである。
〔註二〕
賀茂社では、今に「返し祝詞」を用いていると、宮内省掌典星野輝興氏から承ったことがある。記記録では「玉海」承安二年四月十二日の条に「於宝前、申祝歟不聞、次祝帰出自中門於砌上申還祝、其音太高。」と見えている。更に北野社は「北野誌」に、石清水八幡宮は「大日本古文書」石清水書巻一に載せてある。