日本巫女史/第一篇/第二章/第一節」を編集中

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と見える如く、我が古代にあっては、殆ど事毎に太占を行うのを習礼としていたので、記・紀を始め、代々の記録にも、此の事例や作法が夥しきまでに載せてあるが、巫女が関係したことは、私の寡聞なる、纔に間接的の一例よりしか知らぬのである〔三〕。それでは巫女は一切の占術に関係せぬかと云えば、これは決して左様ではなく、種々なる占術を行うていたのである。今ここに固有時代に属するものを挙げると、その第一は琴占である。延暦の「皇大神宮儀式帳」六月条に、
と見える如く、我が古代にあっては、殆ど事毎に太占を行うのを習礼としていたので、記・紀を始め、代々の記録にも、此の事例や作法が夥しきまでに載せてあるが、巫女が関係したことは、私の寡聞なる、纔に間接的の一例よりしか知らぬのである〔三〕。それでは巫女は一切の占術に関係せぬかと云えば、これは決して左様ではなく、種々なる占術を行うていたのである。今ここに固有時代に属するものを挙げると、その第一は琴占である。延暦の「皇大神宮儀式帳」六月条に、


: 以十五日夜亥時、第二御門仁御巫内人仁御琴給弖大御事(中山曰。大御命の意である)請祭弖云々。
: 以一五日夜亥時、第二御門仁御巫内人仁御琴給弖大御事(中山曰。大御命の意である)請祭弖云々。


とあるのが、それである。猶お巫女が神降ろしに呪具として琴を用いしこと、及び此の伊勢内宮の神降しの詳細に就いては、[[日本巫女史/第一篇/第五章/第四節|第五章第四節]]に述べる考えゆえ、参照を望む。第二は、片巫(志止々と称する鳥を以て占うもの)肱巫(米を用いて占うもの)であるが、これも後の機会に詳記することとして、今は保留する。
とあるのが、それである。猶お巫女が神降ろしに呪具として事を用いしこと、及び此の伊勢内宮の神降しの詳細に就いては、[[日本巫女史/第一篇/第五章/第四節|第五章第四節]]に述べる考えゆえ、参照を望む。第二は、片巫(志止々と称する鳥を以て占うもの)肱巫(米を用いて占うもの)であるが、これも後の機会に詳記することとして、今は保留する。


第三は、辻占(また<ruby><rb>夕占</rb><rp>(</rp><rt>ユウゲ</rt><rp>)</rp></ruby>とも云う)とて、現今にもその名残りを留めているものであって、「万葉集」巻十一に『<ruby><rb>言霊</rb><rp>(</rp><rt>コトダマ</rt><rp>)</rp></ruby>の八十の<ruby><rb>衢</rb><rp>(</rp><rt>チマタ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>夕占</rb><rp>(</rp><rt>ユウゲ</rt><rp>)</rp></ruby>問ふ、<ruby><rb>占</rb><rp>(</rp><rt>ウラ</rt><rp>)</rp></ruby>まさに<ruby><rb>告</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>れ<ruby><rb>妹</rb><rp>(</rp><rt>イモ</rt><rp>)</rp></ruby>に逢はんよし』と載せ、此の外にも多くの証歌が載せてある。然るに、辻占の原義に就いては、従来の学者の間に少しも説明されていぬし、且つ此の事は後世の口寄巫女の守護神に交渉を有しているので、私の専攻する民俗学の上から略説する。由来、我が国では、溺死、焼死、縊死等の、所謂変死を遂げた者は、その凶霊が人に憑いて、病気を起させ、災厄を負わせるなど、頗る荒び<ruby><rb>疏</rb><rp>(</rp><rt>ウト</rt><rp>)</rp></ruby>ぶので、是等の変死者の屍体は、普通の墓地に葬ることを許さず、屍体も洗わず、棺にも入れず、漸く簀巻か蓆包に(大抵はそのままで然も倒さま)にして、道の辻か、橋の袂に埋めるのを習俗と(琉球には十四五年前まで此の習俗があって路傍に埋め、現在でも変死者は普通の墓地へ葬らぬ)していた。これは、斯かる場所へ埋めれば、往来の人が絶えず池上を踏み固めるので、流石の凶霊も発散することが出来ぬからと考えた結果であった。而して此の凶霊が<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はたら</rt><rp>)</rp></ruby>いて、行人の言を仮り占わせるものと信じたのが辻占の起原で、有名なる宇治の橋姫の伝説もこの思想から出たものである〔四〕。
第三は、辻占(また<ruby><rb>夕占</rb><rp>(</rp><rt>ユウゲ</rt><rp>)</rp></ruby>とも云う)とて、現今にもその名残りを留めているものであって、「万葉集」巻十一に『<ruby><rb>言霊</rb><rp>(</rp><rt>コトダマ</rt><rp>)</rp></ruby>の八十の<ruby><rb>衢</rb><rp>(</rp><rt>チマタ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>夕占</rb><rp>(</rp><rt>ユウゲ</rt><rp>)</rp></ruby>問ふ、<ruby><rb>占</rb><rp>(</rp><rt>ウラ</rt><rp>)</rp></ruby>まさに<ruby><rb>告</rb><rp>(</rp><rt>ノ</rt><rp>)</rp></ruby>れ<ruby><rb>妹</rb><rp>(</rp><rt>イモ</rt><rp>)</rp></ruby>に逢はんよし』と載せ、此の外にも多くの証歌が載せてある。然るに、辻占の原義に就いては、従来の学者の間に少しも説明されていぬし、且つ此の事は後世の口寄巫女の守護神に交渉を有しているので、私の専攻する民俗学の上から略説する。由来、我が国では、溺死、焼死、縊死等の、所謂変死を遂げた者は、その凶霊が人に憑いて、病気を起させ、災厄を負わせるなど、頗る荒び<ruby><rb>疏</rb><rp>(</rp><rt>ウト</rt><rp>)</rp></ruby>ぶので、是等の変死者の屍体は、普通の墓地に葬ることを許さず、屍体も洗わず、棺にも入れず、漸く簀巻か蓆包に(大抵はそのままで然も倒さま)にして、道の辻か、橋の袂に埋めるのを習俗と(琉球には十四五年前まで此の習俗があって路傍に埋め、現在でも変死者は普通の墓地へ葬らぬ)していた。これは、斯かる場所へ埋めれば、往来の人が絶えず池上を踏み固めるので、流石の凶霊も発散することが出来ぬからと考えた結果であった。而して此の凶霊が<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はたら</rt><rp>)</rp></ruby>いて、行人の言を仮り占わせるものと信じたのが辻占の起原で、有名なる宇治の橋姫の伝説もこの思想から出たものである〔四〕。
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