日本巫女史/第一篇/第二章/第二節」を編集中

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然るに、氏族の移動が烈しくなり、氏族の分裂が盛んに行われるようになると、氏神信仰は漸次に衰えて<ruby><rb>産土神</rb><rp>(</rp><rt>ウブスナ</rt><rp>)</rp></ruby>信仰が起るようになって来た。即ち祭神と血液で繋がれた氏族の守護神は一変して、今度はその神の<ruby><rb>占領</rb><rp>(</rp><rt>うしは</rt><rp>)</rp></ruby>くところの土地内に生れ、又は住む者は誰人でも守護するという産土神となった。換言すれば、立体的に父から子へ、子から孫へと血を分けることが信仰の基調となっていた氏神が、後には平面的に神の領する土地内に住みさえすれば宜いという産土神と改められてしまったのである〔八〕。
然るに、氏族の移動が烈しくなり、氏族の分裂が盛んに行われるようになると、氏神信仰は漸次に衰えて<ruby><rb>産土神</rb><rp>(</rp><rt>ウブスナ</rt><rp>)</rp></ruby>信仰が起るようになって来た。即ち祭神と血液で繋がれた氏族の守護神は一変して、今度はその神の<ruby><rb>占領</rb><rp>(</rp><rt>うしは</rt><rp>)</rp></ruby>くところの土地内に生れ、又は住む者は誰人でも守護するという産土神となった。換言すれば、立体的に父から子へ、子から孫へと血を分けることが信仰の基調となっていた氏神が、後には平面的に神の領する土地内に住みさえすれば宜いという産土神と改められてしまったのである〔八〕。


巫女の憑き神も亦此の推移から脱することは出来なかったのである。巫女の憑き神は、その最初は氏神と同じく、血で繋がれた祖先の霊魂であった。それ故に、後世の口寄の市子が、第三者に依頼されて、幽界にいる霊魂を寄せるときに、依頼者と関係なき者は出て来ぬというのは、これが為めである〔九〕。而して古代の巫女が如何にして祖先の霊魂を自分の憑き神としたか、その方法に就いては全く知る事が出来ぬのである。勿論、一般的の神道から言えば、祖先の霊を祀ることだけで充分な筈であるが、併し普通の祭祀よりは一歩をすすめた呪術を行うための憑き神とするには、何かそこに特殊な方法が行われていたのではないかと考えられる。私はこれに就いて想い起こすことは、壱岐国の巫女(私の謂う口寄系のもので、同地でイチジョウと呼んでいることは既記した)が「ヤボサ」と称する一種の憑き神を有していることである。同国へ親しく旅行して民俗学的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を綜合すると、その「ヤボサ」の正体は、大略左の如きものである。
巫女の憑き神も亦此の推移から脱することは出来なかったのである。巫女の憑き神は、その最初は氏神と同じく、血で繋がれた祖先の霊魂であった。それ故に、後世の口寄の市子が、第三者に依頼されて、幽界にいる霊魂を寄せるときに、依頼者と関係なき者は出て来ぬというのは、これが為めである〔九〕。而して古代の巫女が如何にして祖先の霊魂を自分の憑き神としたか、その方法に就いては全く知る事が出来ぬのである。勿論、一般的の神道から言えば、祖先の霊を祀ることだけで充分な筈であるが、併し普通の祭祀よりは一歩をすすめた呪術を行うための憑き神とするには、何かそこに特殊な方法が行われていたのではないかと考えられる。私はこれに就いて想い起こすことは、壱岐国の巫女(私の謂う口寄系のもので、同地でイチジョウと呼んでいることは既記した)が「ヤボサ」と称する一種の憑き神を有していることである。同国へ親しく旅行して民俗学的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を総合すると、その「ヤボサ」の正体は、大略左の如きものである。


: 壱岐では巫女のことを、一体にイチヂョウと言うているが、イチと云ふのが正しい形ちなのであろう。今の人はジョウに女の感じを受けているようである。面白いのは、湯立と口寄せとを兼ねているらしい点である。
: 壱岐では巫女のことを、一体にイチヂョウと言うているが、イチと云ふのが正しい形ちなのであろう。今の人はジョウに女の感じを受けているようである。面白いのは、湯立と口寄せとを兼ねているらしい点である。
: 武生水のK氏という非職陸軍中尉の家が是れであり、又勝本にもあったと柳田(地名)の松本翁が話してくれた。処が、箱崎の芳野家にある「神田愚童随筆」という書に、<ruby><rb>命婦</rb><rp>(</rp><rt>イチ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。壱岐や対馬では巫女を命婦と書いた例証は文献に見えている)は女官の長で、大宮司、権大宮司の妻か娘を<ruby><rb>御惣都</rb><rp>(</rp><rt>オソウイチ</rt><rp>)</rp></ruby>というて、壱岐にその屋敷が二ヶ所あると載せてある。併し大宮司や権宮司の妻子ばかりを<ruby><rb>命婦</rb><rp>(</rp><rt>イチ</rt><rp>)</rp></ruby>としたとあるのは疑問である。<ruby><rb>御惣都</rb><rp>(</rp><rt>オソウイチ</rt><rp>)</rp></ruby>という名が他の多くの<ruby><rb>命婦</rb><rp>(</rp><rt>イチ</rt><rp>)</rp></ruby>の存在を示しているのであろう。
: 武生水のK氏という非職陸軍中尉の家が是れであり、又勝本にもあったと柳田(地名)の松本翁が話してくれた。処が、箱崎の芳野家にある「神田愚童随筆」という書に、<ruby><rb>命婦</rb><rp>(</rp><rt>イチ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。壱岐や対馬では巫女を命婦と書いた例証は文献に見えている)は女官の長で、大宮司、権大宮司の妻か娘を御惣都というて、壱岐にその屋敷が二ヶ所あると載せてある。併し大宮司や権宮司の妻子ばかりを<ruby><rb>命婦</rb><rp>(</rp><rt>イチ</rt><rp>)</rp></ruby>としたとあるのは疑問である。<ruby><rb>御惣都</rb><rp>(</rp><rt>オソウイチ</rt><rp>)</rp></ruby>という名が他の多くの<ruby><rb>命婦</rb><rp>(</rp><rt>イチ</rt><rp>)</rp></ruby>の存在を示しているのであろう。
: 壱岐のイチジョウの祀る神は、天台ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云うている。そしてヤボサとは祖先の墓地を意味しているようである(在文責筆者)。
: 壱岐のイチジョウの祀る神は、天壱ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云うている。そしてヤボサとは祖先の墓地を意味しているようである(在文責筆者)。


壱岐の「ヤボサ」に就いては、曩に後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので〔一〇〕私は後藤氏から[[:画像:壱岐国のヤボサ.gif|写真の種板]]の恵与を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること——然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。又「日向国史跡報告」によると、同国に産母神社をヤブサと訓ませたものが見えている。更に此のことを琉球出身の伊波普猷氏に話したところ、琉球には「藪佐」と書いた地名があると教えてくれた。
壱岐の「ヤボサ」に就いては、曩に後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので〔一〇〕私は後藤氏から[[:画像:壱岐国のヤボサ.gif|写真の種板]]の恵与を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること——然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。又「日向国史跡報告」によると、同国に産母神社をヤブサと訓ませたものが見えている。更に此のことを琉球出身の伊波普猷氏に話したところ、琉球には「藪佐」と書いた地名があると教えてくれた。
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