日本巫女史/第一篇/第二章/第二節」を編集中

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: 壱岐のイチジョウの祀る神は、天台ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云うている。そしてヤボサとは祖先の墓地を意味しているようである(在文責筆者)。
: 壱岐のイチジョウの祀る神は、天台ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云うている。そしてヤボサとは祖先の墓地を意味しているようである(在文責筆者)。


壱岐の「ヤボサ」に就いては、曩に後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので〔一〇〕私は後藤氏から[[:画像:壱岐国のヤボサ.gif|写真の種板]]の恵与を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること——然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天台矢房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。又「日向国史跡報告」によると、同国に産母神社をヤブサと訓ませたものが見えている。更に此のことを琉球出身の伊波普猷氏に話したところ、琉球には「藪佐」と書いた地名があると教えてくれた。
壱岐の「ヤボサ」に就いては、曩に後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので〔一〇〕私は後藤氏から[[:画像:壱岐国のヤボサ.gif|写真の種板]]の恩恵を受くると共に「ヤボサ」の墓地であること——然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天壱山房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。又「日向国史跡報告」によると、同国に産母神社をヤブサと訓ませたものが見えている。更に此のことを琉球出身の伊波普猷氏に話したところ、琉球には「藪佐」と書いた地名があると教えてくれた。


私は甚だ早速であるが、是等の神名や地名を手掛りとして、此の「ヤボサ」信仰は、古く壱岐・対馬・日向・琉球へかけて一帯に行われたもので、然もその信仰の対象は墓地であって、即ち祖先の霊魂を身に憑けるということが信仰の起原であろうと考えて見た。而してその霊魂を身に憑けるとは、後世の巫女が好んで墓地の土で呪術の源泉としての人形を造ることの先駆をなしているのでは無かろうかと想像して見た。巫女の持てる人形の造り方や、それの材料や、此の種の人形が如何なる呪力を有していたかに就いては、後章に詳述する機会があるので、茲には余り深く言うことを避けるとするが、兎に角に墓地の土——殊に祖先を埋めた土には、祖先の霊魂の宿っているものと信じて(後世になると支那の巫蠱の思想や呪術の影響を受けているが)それを所持し、憑き神として呪術はこれが教え示すものと考えていたのではあるまいか。「神武紀」に椎根津彦と弟猾(折口氏の高示によると弟猾は女性だとある)の二人が、天香山の土を取って天ノ平瓮を造りて戦勝を祈ったのも(此の呪術に就いては[[日本巫女史/第一篇/第四章/第四節|第四章第四節]]に述べる)、香山は古く墓地であったので〔一一〕、殊に此の山の土が択ばれたのではなかろうか。
私は甚だ早速であるが、是等の神名や地名を手掛りとして、此の「ヤボサ」信仰は、古く壱岐・対馬・日向・琉球へかけて一帯に行われたもので、然もその信仰の対象は墓地であって、即ち祖先の霊魂を身に憑けるということが信仰の起原であろうと考えて見た。而してその霊魂を身に憑けるとは、後世の巫女が好んで墓地の上で呪術の源泉としての人形を造ることの先駆をなしているのでは無かろうかと想像して見た。巫女の持てる人形の造り方や、それの材料や、此の種の人形が如何なる呪力を有していたかに就いては、後章に詳述する機会があるので、茲には余り深く言うことを避けるとするが、兎に角に墓地の土——殊に祖先を埋めた土には、祖先の霊魂の宿っているものと信じて(後世になると支那の巫蠱の思想や呪術の影響を受けているが)それを所持し、憑き神として呪術はこれが教え示すものと考えていたのではあるまいか。「神武紀」に椎根津彦と弟猾(折口氏の高示によると弟猾は女性だとある)の二人が、天香山の土を取って天ノ平瓮を造りて戦勝を祈ったのも(此の呪術に就いては[[日本巫女史/第一篇/第四章/第四節|第四章第四節]]に述べる)、香山は古く墓地であったので〔一一〕、殊に此の山の土が択ばれたのではなかろうか。


産土の語源については昔から異説があるも〔一二〕、民間語源説ではあるが『産れた里の社の土』という説も、決して軽視する事は出来ぬのである〔一三〕。こんな事を種々と想い合せると、古代の巫女の憑き神は、祖先の霊魂であって、然かもその霊魂は祖先を埋めた墳墓の土で象徴されていたように考えるのである。
産土の語源については昔から異説があるも〔一二〕、民間語源説ではあるが『産れた里の社の土』という説も、決して軽視する事は出来ぬのである〔一三〕。こんな事を種々と想い合せると、古代の巫女の憑き神は、祖先の霊魂であって、然かもその霊魂は祖先を埋めた墳墓の土で象徴されていたように考えるのである。
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然るに、文献の上から見ると、巫女は古くから「卜庭二神」として太詔戸神と櫛真知神とを私の謂う憑き神の意味で奉持していたように考えさせるのである〔一四〕。併しながら、私の信ずるところでは、前者の太詔戸神は祝詞の神格化されたもの、後者の櫛真知神は波々加木の神格化されたもののように考えられるし、殊に此の両神は巫女の神というよりは、男覡の神として見るべきもののように思われる。而してその詳細は、次の[[日本巫女史/第一篇/第三章|第三章]]に記述するゆえ参照を乞うとするが、私にはそう考えることの決して無稽でないと信じられる点が存するのである。
然るに、文献の上から見ると、巫女は古くから「卜庭二神」として太詔戸神と櫛真知神とを私の謂う憑き神の意味で奉持していたように考えさせるのである〔一四〕。併しながら、私の信ずるところでは、前者の太詔戸神は祝詞の神格化されたもの、後者の櫛真知神は波々加木の神格化されたもののように考えられるし、殊に此の両神は巫女の神というよりは、男覡の神として見るべきもののように思われる。而してその詳細は、次の[[日本巫女史/第一篇/第三章|第三章]]に記述するゆえ参照を乞うとするが、私にはそう考えることの決して無稽でないと信じられる点が存するのである。


巫女の憑き神も時勢と共に推し移るのは当然である。古い巫女の面影を濃厚に残していると思われる奥州のイタコの憑き神は、十三仏中の一仏であり、飯綱遣いとか、稲荷下げとか言われた巫女の憑き神は狐であった。犬神、猫神蛇神の如きも、悉く巫女の憑き神として発生したものに外ならぬのである。
巫女の憑き神も時勢と共に推し移るのは当然である。古い巫女の面影を濃厚に残していると思われる奥州のイタコの憑き神は、一三仏中の一仏であり、飯縄遣いとか、稲荷下げとか言われた巫女の憑き神は狐であった。犬神、猫神蛇神の如きも、悉く巫女の憑き神として発生したものに外ならぬのである。


; 〔註八〕 : 神道学者のうちには、氏神と祖霊神とを区別して説く論者もあるが、私には此の区別は発達的には言い得るかも知れぬが、発生的には無意味だと考えている。
; 〔註八〕 : 神道学者のうちには、氏神と祖霊神とを区別して説く論者もあるが、私には此の区別は発達的には言い得るかも知れぬが、発生的には無意味だと考えている。
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