日本巫女史/第一篇/第二章/第二節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第二章 巫女の呪術の目的と憑き神

第二節 巫女の有せる憑き神の源流

我国の巫女は、各自とも呪術の原動力ともいうべき憑き神を有していた。併しその神のことを、古くは何と云っていたかは、判然しない。後世の知識でいうと、仏教の守り本尊は、又はアイヌのトレンカムイ(憑き神)と同じようなものである。それで私は姑らく憑き神の名で呼ぶこととした。

我国の神々の発達を民俗学的に見ると、その多くは、始め氏の神であり、家の神であった。従って、我国の古き神々は、その神の血筋を承けた同氏族を保護するに限られていて、神と血筋を異にせる異氏族を保護するまでには進んでいなかったのである。而して、此の氏なり、家なりが、時勢と共に、膨張し、発達して来ると、今まで氏の神えあり、家の神であったものが、それにつけて、村の神となり、郡の神となり、国の神となり、更に日本全国の神となるのである。

その一例を簡単に挙げると、常陸国の鹿島神は、始めは、祭神天児屋根命の血筋を継いだ中臣氏の神であった。然るに、中臣氏が藤原氏となって、帝京に居を占め、皇恩に浴して、家門が時めくようになると、氏ノ神を遠隔の地である常陸に置くことは、祭儀その他に不便が多いところから、先ずその分霊を河内国河内郡牧岡ノ里に遷し祀った。これが即ち牧岡神社である。ところが河内に氏神が在るのではまだ不便なので、後に大和国添上郡春日ノ里に遷し、これを春日神社と称した。而して斯くてある間に藤原氏の門葉が天下に茂り、藤原氏にあらざれば人にあらずと云うほどの繁昌を致し、領地が国々に亘り、荘園が各地に開かれるようになれば、それ等の人々によって、鹿島神は各地に遷し祀られる事となる。それと同時に、鹿島社の社格も、氏人である藤原氏の発達に伴い向上して、社領も加り、社領のあるところには鹿島神を祀るものが多く、こうして氏の神が国の神となり、遂には日本国中の神とまで発達してしまったのである。これが我国における氏神信仰の由来なのである。

然るに、氏族の移動が烈しくなり、氏族の分裂が盛んに行われるようになると、氏神信仰は漸次に衰えて産土神信仰が起るようになって来た。即ち祭神と血液で繋がれた氏族の守護神は一変して、今度はその神の占領ところの土地内に生れ、又は住む者は誰人でも守護するという産土神となった。換言すれば、立体的に父から子へ、子から孫へと血を分けることが信仰の基調となっていた氏神が、後には平面的に神の領する土地内に住みさえすれば宜いという産土神と改められてしまったのである〔八〕。

巫女の憑き神も亦此の推移から脱することは出来なかったのである。巫女の憑き神は、その最初は氏神と同じく、血で繋がれた祖先の霊魂であった。それ故に、後世の口寄の市子が、第三者に依頼されて、幽界にいる霊魂を寄せるときに、依頼者と関係なき者は出て来ぬというのは、これが為めである〔九〕。而して古代の巫女が如何にして祖先の霊魂を自分の憑き神としたか、その方法に就いては全く知る事が出来ぬのである。勿論、一般的の神道から言えば、祖先の霊を祀ることだけで充分な筈であるが、併し普通の祭祀よりは一歩をすすめた呪術を行うための憑き神とするには、何かそこに特殊な方法が行われていたのではないかと考えられる。私はこれに就いて想い起こすことは、壱岐国の巫女(私の謂う口寄系のもので、同地でイチジョウと呼んでいることは既記した)が「ヤボサ」と称する一種の憑き神を有していることである。同国へ親しく旅行して民俗学的の資料を蒐集された、畏友折口信夫氏の手記及び談話を総合すると、その「ヤボサ」の正体は、大略左の如きものである。

壱岐では巫女のことを、一体にイチヂョウと言うているが、イチと云ふのが正しい形ちなのであろう。今の人はジョウに女の感じを受けているようである。面白いのは、湯立と口寄せとを兼ねているらしい点である。
武生水のK氏という非職陸軍中尉の家が是れであり、又勝本にもあったと柳田(地名)の松本翁が話してくれた。処が、箱崎の芳野家にある「神田愚童随筆」という書に、命婦(中山曰。壱岐や対馬では巫女を命婦と書いた例証は文献に見えている)は女官の長で、大宮司、権大宮司の妻か娘を御惣都というて、壱岐にその屋敷が二ヶ所あると載せてある。併し大宮司や権宮司の妻子ばかりを命婦としたとあるのは疑問である。御惣都という名が他の多くの命婦の存在を示しているのであろう。
壱岐のイチジョウの祀る神は、天壱ヤボサであって、稲荷様はその一の眷属で、ヤボサ様の下であると云うている。そしてヤボサとは祖先の墓地を意味しているようである(在文責筆者)。

壱岐の「ヤボサ」に就いては、曩に後藤守一氏が「考古学雑誌」に写真を入れて記載されたことがあるので〔一〇〕私は後藤氏から写真の種板の恩恵を受くるに共に「ヤボサ」の墓地であること――然も原始的の風葬らしい痕跡のあることまで承っていたことがある。而して更に近刊の「対馬島誌」を見ると、矢房、山房、氏神山房、天壱山房、やふさ神などの神名が、狭隘な同地としては驚くほど多数に載せてある。又「日向国史跡報告」によると、同国に産母神社をヤブサと訓ませたものが見えている。更に此のことを琉球出身の伊波普猷氏に話したところ、琉球には「藪佐」と書いた地名があると教えてくれた。

私は甚だ早速であるが、是等の神名や地名を手掛りとして、此の「ヤボサ」信仰は、古く壱岐・対馬・日向・琉球へかけて一帯に行われたもので、然もその信仰の対象は墓地であって、即ち祖先の霊魂を身に憑けるということが信仰の起原であろうと考えて見た。而してその霊魂を身に憑けるとは、後世の巫女が好んで墓地の上で呪術の源泉としての人形を造ることの先駆をなしているのでは無かろうかと想像して見た。巫女の持てる人形の造り方や、それの材料や、此の種の人形が如何なる呪力を有していたかに就いては、後章に詳述する機会があるので、茲には余り深く言うことを避けるとするが、兎に角に墓地の土――殊に祖先を埋めた土には、祖先の霊魂の宿っているものと信じて(後世になると支那の巫蠱の思想や呪術の影響を受けているが)それを所持し、憑き神として呪術はこれが教え示すものと考えていたのではあるまいか。「神武紀」に椎根津彦と弟猾(折口氏の高示によると弟猾は女性だとある)の二人が、天香山の土を取って天ノ平瓮を造りて戦勝を祈ったのも(此の呪術に就いては第四章第四節に述べる)、香山は古く墓地であったので〔一一〕、殊に此の山の土が択ばれたのではなかろうか。

産土の語源については昔から異説があるも〔一二〕、民間語源説ではあるが『産れた里の社の土』という説も、決して軽視する事は出来ぬのである〔一三〕。こんな事を種々と想い合せると、古代の巫女の憑き神は、祖先の霊魂であって、然かもその霊魂は祖先を埋めた墳墓の土で象徴されていたように考えるのである。

然るに、文献の上から見ると、巫女は古くから「卜庭二神」として太詔戸神と櫛真知神とを私の謂う憑き神の意味で奉持していたように考えさせるのである〔一四〕。併しながら、私の信ずるところでは、前者の太詔戸神は祝詞の神格化されたもの、後者の櫛真知神は波々加木の神格化されたもののように考えられるし、殊に此の両神は巫女の神というよりは、男覡の神として見るべきもののように思われる。而してその詳細は、次の第三章に記述するゆえ参照を乞うとするが、私にはそう考えることの決して無稽でないと信じられる点が存するのである。

巫女の憑き神も時勢と共に推し移るのは当然である。古い巫女の面影を濃厚に残していると思われる奥州のイタコの憑き神は、一三仏中の一仏であり、飯縄遣いとか、稲荷下げとか言われた巫女の憑き神は狐であった。犬神、猫神蛇神の如きも、悉く巫女の憑き神として発生したものに外ならぬのである。

〔註八〕
神道学者のうちには、氏神と祖霊神とを区別して説く論者もあるが、私には此の区別は発達的には言い得るかも知れぬが、発生的には無意味だと考えている。
〔註九〕
江戸期の随筆物に此の種の記事が見えているが、当然、口寄の市子に聞いて見るも、死霊は氏族の者へでなければ憑らぬと言うている。
〔註一〇〕
ヤボサの語源に関して二三の学友に尋ねて見たが、遂に要領を得なかった。併しそれが墓地であることだけは疑いない事実である。
〔註一一〕
天香山が墓地であることは、古く藤貞幹が「衡口発」で論じている。私は卓見だと考えている。
〔註一二〕
新村出氏の「うぶすな考」が中央公論に発表されたが、私は単に言語学の方面から論断することは、多少の危険が伴うことと感じている。産土神社の、土なり、砂なりを所持して、除災する土俗は、古くから広く行われていたようである。
〔註一三〕
或る神社の土なり砂なりを住宅の周囲に撒いて招福の呪法としたことも、又相当に古い民俗である。詳細は「郷土趣味」に拙稿「砂まき」と題して発表したことがある。
〔註一四〕
「延喜式」に載せてある。