「日本巫女史/第一篇/第五章/第五節」を編集中
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その三は少しく私の想像が加わるのであるが、此の際に猿田彦と天鈿女との間に呪術としての媾合が行われたのではないかと信ぜられることである。それは、昭和四年二月に、豊前国京都郡城井村大字城井馬場の八幡宮に伝わりし神代神楽というのが、国学院大学の郷土会で開催されたが、私は此の古雅なる神楽を参観し、その「天孫降臨」と云う一齣において、猿田彦に扮せる者と、天鈿女に扮せる者とが、顕然として媾合の所作を演じたのに驚異の眼を以て見守らざるを得なかったのである〔六〕。 | その三は少しく私の想像が加わるのであるが、此の際に猿田彦と天鈿女との間に呪術としての媾合が行われたのではないかと信ぜられることである。それは、昭和四年二月に、豊前国京都郡城井村大字城井馬場の八幡宮に伝わりし神代神楽というのが、国学院大学の郷土会で開催されたが、私は此の古雅なる神楽を参観し、その「天孫降臨」と云う一齣において、猿田彦に扮せる者と、天鈿女に扮せる者とが、顕然として媾合の所作を演じたのに驚異の眼を以て見守らざるを得なかったのである〔六〕。 | ||
私は原始的の形式とを伝えている神楽——若しくは祭式舞踊において、此の種の所作が、拝観者の面前にて無遠慮に演じられる幾多の資料に接しているのである。例えば、原始的の匂いと彩りとをそのままに保存している琉球各地のムツクジャと称するものは、全く露骨なる交接祭である〔七〕。内地にあっても、此の種のものは殆んど枚挙に堪えぬほどある〔八〕。殊に信濃国下伊那郡且開村字島田に、毎年正月十五夜夜に行われる田遊びの神事には、昭和の現代にも尉と姥に扮した者が、神楽殿において見物の見る眼も憚らず、その所作を演ずると聞いては〔九〕、民俗の永遠性を考えさせられると同時に、その起原の呪術に出発していることを想わせられるのである。時代は下るが、平安朝に書かれた「新猿楽記」に、 | |||
: 野干坂伊賀専之男祭、叩<ruby><rb>蚫苦本</rb><rp>(</rp><rt>アワビクボ</rt><rp>)</rp></ruby>舞、稲荷山阿小町之愛法、{鼻偏亢}<ruby><rb>{魚偏笠}破前</rb><rp>(</rp><rt>カハラハビ</rt><rp>)</rp></ruby>喜云々。 | : 野干坂伊賀専之男祭、叩<ruby><rb>蚫苦本</rb><rp>(</rp><rt>アワビクボ</rt><rp>)</rp></ruby>舞、稲荷山阿小町之愛法、{鼻偏亢}<ruby><rb>{魚偏笠}破前</rb><rp>(</rp><rt>カハラハビ</rt><rp>)</rp></ruby>喜云々。 |