日本巫女史/第一篇/第五章/第四節」を編集中

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と論じている〔四〕。流石に創見に富んでいる守部翁の説とて、誠に敬服(但し琴と神依板とを別物として、板の下に水を置くこと、御手濯を憑るべの水と見るは僻事なりとの三点に就いては、賛意を表しかねる。その理由は後に述べる)に値いするものがある。こう言う点になると、守部翁の独壇場で、本居平田両翁などは、到底、企て及ばざる天才の持主だと信じている。
と論じている〔四〕。流石に創見に富んでいる守部翁の説とて、誠に敬服(但し琴と神依板とを別物として、板の下に水を置くこと、御手濯を憑るべの水と見るは僻事なりとの三点に就いては、賛意を表しかねる。その理由は後に述べる)に値いするものがある。こう言う点になると、守部翁の独壇場で、本居平田両翁などは、到底、企て及ばざる天才の持主だと信じている。


併しながら、強いて言えば、守部翁の此の解説は、私が茲に言う所の水を観て占いを行う——所謂、<ruby><rb>水占系</rb><rp>(</rp><rt>ウォーター・ゲージング</rt><rp>)</rp></ruby>の呪術が、我国にも存していたことを認識した上で、此の解説を試みたか、それとも此の反対に斯かる事には少しも関心せずして、漫然と論じたかと云う点である。琴と神依板とを別物と見たり、憑るべの水と御手濯とを異物と考えたところから推すと、頗る怪しいもののように思われぬでもないが、今は余り深い詮索は措くとして、ただその着眼の非凡なりしことを推称するにとどめるとする。
併しながら、強いて言えば、守部翁の此の解説は、私が茲に言う所の水を観て占いを行う——所謂、<ruby><rb>水占系</rb><rp>(</rp><rt>ウォーター・ゲージング</rt><rp>)</rp></ruby>の呪術が、我国にも存していたことを認識した上で、此の解説を試みたか、それとも此の反対に斯かる事には少しも関心せずして、漫然と論じたかと云う点である。事と神依板とを別物と見たり、憑るべの水と御手濯とを異物と考えたところから推すと、頗る怪しいもののように思われぬでもないが、今は余り深い詮索は措くとして、ただその着眼の非凡なりしことを推称するにとどめるとする。


憑るべの水に就いては、伴信友翁独特の、微に入り細を穿った考証が、その著「比古婆衣」巻十一に載せてある。これに由ると、伴翁は憑るべの水に対して、二様の解釈を下している。(一)は瓶に入れし水を神前に供え置き『此の瓶の水に神の立より給ふを神水とて飲みつれば、有事無事の慥にあらはるる心なり』とて、水を飲んで吉凶を占うものと解し、(二)は『さて其の神水にて占問するには、其水にのぞみて己影をうつして、占ふる方のありしなるべし』とて占うもの自身の影を映すように説いている〔五〕。
憑るべの水に就いては、伴信友翁独特の、微に入り細を穿った考証が、その著「比古婆衣」巻十一に載せてある。これに由ると、伴翁は憑るべの水に対して、二様の解釈を下している。(一)は瓶に入れし水を神前に供え置き『此の瓶の水に神の立より給ふを神水とて飲みつれば、万事無事の慥にあらはるる心なり』とて、水を飲んで吉凶を占うものと釈し、(二)は『さて其の神水にて占問するには、其水にのぞみて己影をうつして、占ふる方のありしなるべし』とて占うもの自身の影を映すように説いている〔五〕。


此の解説は、我国における憑るべの水の原始的の方法が忘られ、単にその信仰だけを微かに伝えた平安朝頃の和歌や物語を資料として稽えたために、遂に斯うした結論に到達したものと思われる。是等は私がよく言うところの、世の中の事は書物さえ見れば何でも判明すると盲信する文献学者の短所であって、実に伴翁のために惜しむべきことである。今の文献万能学者にも往々此の弊に堕するのを見るが、是は警むべきことである。併しながら、伴翁が琴の代用として神依板を用いしと説き、その神依板の下に水を置くと云わず〔六〕、更に御手濯を憑るべの水の拡大されたもの又は延長したものと考えた点は〔七〕、守部翁のそれに比較するとき、考証学者の第一人者たることが納得されるのである。
此の解説は、我国における憑るべの水の原始的の方法が忘られ、単にその信仰だけを微かに伝えた平安朝頃の和歌や物語を資料として稽えたために、遂に斯うした結論に到達したものと思われる。是等は私がよく言うところの、世の中の事は書物さえ見れば何でも判明すると盲信する文献学者の短所であって、実に伴翁のために惜しむべきことである。今の文献万能学者にも往々此の弊に堕するのを見るが、是は警むべきことである。併しながら、伴翁が琴の代用として神依板を用いしと説き、その神依板の下に水を置くと云わず〔六〕、更に御手濯を憑るべの水の拡大されたもの又は延長したものと考えた点は〔七〕、守部翁のそれに比較するとき、考証学者の第一人者たることが納得されるのである。
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