日本巫女史/第一篇/第五章/第四節」を編集中

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和泉式部にあっては、選択に苦しむほどで、僅に和泉国一ヶ国だけでも、式部の楊枝の清水、化粧水、鏡石、鉄漿壺、寝覚淵などの故地を数えると三十余ヶ所にも達するという有様であって、少しく誇張して云えば、日本全国に亘って存しているのである。今は著名なるものを挙げると、伊勢国三重郡神前村大字会井に清泉がある。昔和泉式部がその美貌を此の井に写して化粧したところと、勢陽雑記にある〔一四〕。長門国豊浦郡豊田村大字杢路子に和泉式部の子洗い池というのがある。式部が此の村で子を儲けたが、その子が弱いので、生死を占うために、モクロジの木を立てて占うたので、此の地名が起ったのである〔一五〕。山城国宇治郡醍醐村大字小栗栖の御前社の辺にも、式部ヶ井というがある。ここは和泉式部が、此の水を汲んで硯の水に用いたと伝えられている〔一六〕。——これに就いて、柳田国男先生は『御前という名は本来上臈の敬称で、後には遊女白拍子の名にも用いられ、更に転じては<ruby><rb>瞽女</rb><rp>(</rp><rt>ゴゼ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>坊</rb><rp>(</rp><rt>ボウ</rt><rp>)</rp></ruby>のゴゼと迄なった。御前社は即ち巫女優婆夷の<ruby><rb>傅</rb><rp>(</rp><rt>かしず</rt><rp>)</rp></ruby>く社を意味したのであろう』と言われている〔一七〕。
和泉式部にあっては、選択に苦しむほどで、僅に和泉国一ヶ国だけでも、式部の楊枝の清水、化粧水、鏡石、鉄漿壺、寝覚淵などの故地を数えると三十余ヶ所にも達するという有様であって、少しく誇張して云えば、日本全国に亘って存しているのである。今は著名なるものを挙げると、伊勢国三重郡神前村大字会井に清泉がある。昔和泉式部がその美貌を此の井に写して化粧したところと、勢陽雑記にある〔一四〕。長門国豊浦郡豊田村大字杢路子に和泉式部の子洗い池というのがある。式部が此の村で子を儲けたが、その子が弱いので、生死を占うために、モクロジの木を立てて占うたので、此の地名が起ったのである〔一五〕。山城国宇治郡醍醐村大字小栗栖の御前社の辺にも、式部ヶ井というがある。ここは和泉式部が、此の水を汲んで硯の水に用いたと伝えられている〔一六〕。——これに就いて、柳田国男先生は『御前という名は本来上臈の敬称で、後には遊女白拍子の名にも用いられ、更に転じては<ruby><rb>瞽女</rb><rp>(</rp><rt>ゴゼ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>坊</rb><rp>(</rp><rt>ボウ</rt><rp>)</rp></ruby>のゴゼと迄なった。御前社は即ち巫女優婆夷の<ruby><rb>傅</rb><rp>(</rp><rt>かしず</rt><rp>)</rp></ruby>く社を意味したのであろう』と言われている〔一七〕。


例証は際限が無いから、大略にして置くが、此の種に類する伝承は、小町や式部の外にも、又た相当に残っているのである。陸前国遠田郡富永村大字休塚の、鈴木勇三郎氏の宅地内に、姿見の池と云うのがある。これは大昔に、松浦佐用姫が同地へ下向した際に、化粧に使用せる水鏡の池であって、その東方の小丘には、姫の手植の柳があったというが、今は枯れてしまった〔一八〕。美濃国不破郡青墓村大字榎戸に照手姫の清水と称するものがある。これは姫が朝夕水鏡して化粧したところである〔一九〕。河内国北河内郡蹉跎村の蹉跎山の頂に菅原道真の姿見の井がある。俚伝に、菅公流謫の際、この山に登り遥かに京師を望んで別れを惜しみ、山頂の井に我が姿を映して、自作の像を残して往った。公の姫君が後を追うて此の地に来たが、既に父公の出発せられたので、足摺りして嘆き悲しんだので、山の名も村の名も蹉跎と称した〔二〇〕。此の俚伝なども水または井に対する信仰が泯びてしまったので、こうした変則なものになったのであるが、山の頂に井があることは蹉跎——此の語の古い意味が(諸国に佐太とあるのも同義である)即ち<ruby><rb>塞</rb><rp>(</rp><rt>さえ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎると云うほどの意味を有し、此の井を中心とした信仰が存していたのが、サダに蹉跎の漢字を当てた為に、足摺の意に解せられて、原意を失うようになってしまったのである〔二一〕。
例証は際限が無いから、大略にして置くが、此の種に類する伝承は、小町や式部の外にも、又た相当に残っているのである。陸前国遠田郡富永村大字休塚の、鈴木勇三郎氏の宅地内に、姿見の池と云うのがある。これは大昔に、松浦佐用姫が同地へ下向した際に、化粧に使用せる水鏡の池であって、その東方の小丘には、姫の手植の柳があったというが、今は枯れてしまった〔一八〕。美濃国不破郡青墓村大字榎戸に照手姫の清水と称するものがある。これは姫が朝夕水鏡して化粧したところである〔一九〕。河内国北河内郡蹉跎村の蹉跎山の頂に菅原道真の姿見の井がある俚伝に、菅公流謫の際、この山に登り遥かに京師を望んで別れを惜しみ、山頂の井に我が姿を映して、自作の像を残して往った。公の姫君が後を追うて此の地に来たが、既に父公の出発せられたので、足摺りして嘆き悲しんだので、山の名も村の名も蹉跎と称した〔二〇〕。此の俚伝なども水または井に対する信仰が泯びてしまったので、こうした変則なものになったのであるが、山の頂に井があることは蹉跎——此の語の古い意味が(諸国に佐太とあるのも同義である)即ち<ruby><rb>塞</rb><rp>(</rp><rt>さえ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎると云うほどの意味を有し、此の井を中心とした信仰が存していたのが、サダに蹉跎の漢字を当てた為に、足摺の意に解せられて、厚意を失うようになってしまったのである〔二一〕。


此の蹉跎村から程遠からぬ山城国宇治郡に『足摺池。在柳山麓四宮村之中也、俗謂蝉丸御手洗水、斯人修祓処乎。足摺、義不知為如何、』とあるが〔二二〕、これなども古くはサダと称して神事を行うたところを、蹉跎の字を用いて足摺りの意に曲解されるようになったので、碩学黒川道祐翁をして、足摺りの義如何なるを知らずと嘆声を発せしむるに至ったのである。安芸国賀茂郡の安志乃山の頂に寺趾があるが、ここに紫式部の植えたという杜若の池がある。寺は無くなったが花の種は民間に残っている〔二三〕。
此の蹉跎村から程遠からぬ山城国宇治郡に『足摺池。在柳山麓四宮村之中也、俗謂蝉丸御手洗水、斯人修祓処乎足摺義不知為如何、』とあるが〔二二〕、これなども古くはサダと称して神事を行うたところを、蹉跎の字を用いて足摺りの意に曲解されるようになったので、碩学黒川道祐翁をして、足摺りの義如何なるを知らずと嘆声を発せしむるに至ったのである。安芸国賀茂郡の安志乃山の頂に寺趾があるが、ここに紫式部の植えたという杜若の池がある。寺は無くなったが花の種は民間に残っている〔二三〕。


猶お此の外に清少納言とか、小督局とか云う名で、これと同系の伝承が各地に存しているが、他は省略して、如上の乏しき伝承だけに就いて考うるも、是等の姿見の池や化粧水の元の起りが、巫女の観水呪術に発生したものであることだけは疑いない。而して私は、更に一歩をすすめて、これ等の名媛才女の名で伝えられている女性の正体を明らかにし、併せて水の神秘を利用した巫女の呪術を説くとする。
猶お此の外に清少納言とか、小督局とか云う名で、これと同系の伝承が各地に存しているが、他は省略して、如上の乏しき伝承だけに就いて考うるも、是等の姿見の池や化粧水の元の起りが、巫女の観水呪術に発生したものであることだけは疑いない。而して私は、更に一歩をすすめて、これ等の名媛才女の名で伝えられている女性の正体を明らかにし、併せて水の神秘を利用した巫女の呪術を説くとする。
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