「日本巫女史/第一篇/第五章/第四節」を編集中
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此の蹉跎村から程遠からぬ山城国宇治郡に『足摺池。在柳山麓四宮村之中也、俗謂蝉丸御手洗水、斯人修祓処乎。足摺、義不知為如何、』とあるが〔二二〕、これなども古くはサダと称して神事を行うたところを、蹉跎の字を用いて足摺りの意に曲解されるようになったので、碩学黒川道祐翁をして、足摺りの義如何なるを知らずと嘆声を発せしむるに至ったのである。安芸国賀茂郡の安志乃山の頂に寺趾があるが、ここに紫式部の植えたという杜若の池がある。寺は無くなったが花の種は民間に残っている〔二三〕。 | 此の蹉跎村から程遠からぬ山城国宇治郡に『足摺池。在柳山麓四宮村之中也、俗謂蝉丸御手洗水、斯人修祓処乎。足摺、義不知為如何、』とあるが〔二二〕、これなども古くはサダと称して神事を行うたところを、蹉跎の字を用いて足摺りの意に曲解されるようになったので、碩学黒川道祐翁をして、足摺りの義如何なるを知らずと嘆声を発せしむるに至ったのである。安芸国賀茂郡の安志乃山の頂に寺趾があるが、ここに紫式部の植えたという杜若の池がある。寺は無くなったが花の種は民間に残っている〔二三〕。 | ||
猶お此の外に清少納言とか、小督局とか云う名で、これと同系の伝承が各地に存して居るが、他は省略して、如上の乏しき伝承だけに就いて考うるも、是等の姿見の池や化粧水の元の起りが、巫女の観水呪術に発生したものであることだけは疑いない。而して私は、更に一歩をすすめて、これ等の名媛才女の名で伝えられている女性の正体を明らかにし、併せて水の神秘を利用した巫女の呪術を説くとする。 | |||
尾張の熱田神宮の社地内に古くから支那の揚貴妃の石塔と云うのがある〔二四〕。俗説には、唐の玄宗帝が、我が日本を征伐せんと企てたのを熱田の神が覚り、彼の地に生れて揚貴妃となり、玄宗帝を淫蕩に陥れ、国乱を起させ、かくて我が日本を救ったのであると、誠しやかに伝えられている。併し此の俗説は 昔から有名なものであったと見えて、林羅山の「本朝神社考」にも「暁風集」を引いて『熱田大明神は即ち揚貴妃なり云々。神秘にして知ることなし』と載せている。 | |||
此の揚貴妃なる者の正体を、巫女史の立場から見ると、それは<ruby><rb>楊氏</rb><rp>(</rp><rt>ヤナギシ</rt><rp>)</rp></ruby> | 此の揚貴妃なる者の正体を、巫女史の立場から見ると、それは<ruby><rb>楊氏</rb><rp>(</rp><rt>ヤナギシ</rt><rp>)</rp></ruby>を姓とした巫女であって、熱田神宮に仕えた神人にしか過ぎぬのである。楊氏は我国への帰化族で、古く「新撰姓氏録」左京諸蕃の条に、楊侯忌寸、楊侯氏、楊侯直など載せてあり、吉備真備の生母が楊氏であった事は、その墳墓から発掘された骨器の銘に明記されている〔二五〕。此の楊氏の支族の者が、何かの縁故で、熱田神宮に仕えて巫女となり、歿後、その塔婆か墓碑に、楊氏と記されていたか、又は口から耳へと伝承されていたのを、後世の無学にして好事癖のある者が、楊と揚と字体が似ており、国音も同じところから、遂に揚貴妃に附会して、斯かる俗説を生むようになったのである。 | ||
併しながら、楊氏の巫女が揚貴妃に附会されるに至った、その当時の民衆の心理を知らなければならぬ。即ち当時にあっては、巫女は尊いもの、神聖なもの、崇むべきものと信じていたことを閑却してはならぬ。若しそうでなかったならば、楊氏が揚貴妃に附会されべき筈がないからである。そして此の心理は、巫女自身の方にも、濃厚に<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はたら</rt><rp>)</rp></ruby>いていたのである。自分は生ける神と同じような高い位置に居る者であるという自信を有していたのである。然るに世が変り、時が遷って、巫女の信用が漸落して来ても、今度は巫女達が自分の信用を維持するために、小町とか、式部とか、又は小督とか、少納言とかいう、史上で著聞している閨秀美姫の名を好んで用いるようになって来た。それは恰も、明治時代に書生役者が式部と称したり、活動弁士が徳川姓を冐して、無理勿体をつけた心理と全く同じものなのである。 | 併しながら、楊氏の巫女が揚貴妃に附会されるに至った、その当時の民衆の心理を知らなければならぬ。即ち当時にあっては、巫女は尊いもの、神聖なもの、崇むべきものと信じていたことを閑却してはならぬ。若しそうでなかったならば、楊氏が揚貴妃に附会されべき筈がないからである。そして此の心理は、巫女自身の方にも、濃厚に<ruby><rb>活</rb><rp>(</rp><rt>はたら</rt><rp>)</rp></ruby>いていたのである。自分は生ける神と同じような高い位置に居る者であるという自信を有していたのである。然るに世が変り、時が遷って、巫女の信用が漸落して来ても、今度は巫女達が自分の信用を維持するために、小町とか、式部とか、又は小督とか、少納言とかいう、史上で著聞している閨秀美姫の名を好んで用いるようになって来た。それは恰も、明治時代に書生役者が式部と称したり、活動弁士が徳川姓を冐して、無理勿体をつけた心理と全く同じものなのである。 |