日本巫女史/第一篇/第五章/第四節」を編集中

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尚若狭国遠敷郡西津村字松崎の<ruby><rb>釣姫</rb><rp>(</rp><rt>ツルベ</rt><rp>)</rp></ruby>神社は、源頼政の女である二条院の次女讃岐を祀ったとあるのも〔二七〕、長門国厚狭郡船木村字逢坂に同じく讃岐の故事を伝えているのも〔二八〕、丹波国何鹿郡吉美村大字多田に残る菖蒲塚は、同じ源頼政の妾である菖蒲ノ前の墳墓とあるのも〔二九〕、伊豆国田方郡韮山村大字南条の西琳寺に、これも源頼政の妾であったという菖蒲屋敷を伝えたのも〔三〇〕、播磨国赤穂郡高田村字西ノ山に、菖蒲前の墓所というがあるのも〔三一〕、越後国中蒲原村大字笹野宿の金仙寺を菖蒲ノ前が開基したと伝えるのも〔三二〕、更に讃岐の琴平神社の祭礼に、頼朝と称する巫女が供奉するのも〔三三〕、共に巫女(又は尸童)をヨリマシと呼んだのを、ヨリマサ、又はヨリトモと誤解した結果に外ならぬのである。
尚若狭国遠敷郡西津村字松崎の<ruby><rb>釣姫</rb><rp>(</rp><rt>ツルベ</rt><rp>)</rp></ruby>神社は、源頼政の女である二条院の次女讃岐を祀ったとあるのも〔二七〕、長門国厚狭郡船木村字逢坂に同じく讃岐の故事を伝えているのも〔二八〕、丹波国何鹿郡吉美村大字多田に残る菖蒲塚は、同じ源頼政の妾である菖蒲ノ前の墳墓とあるのも〔二九〕、伊豆国田方郡韮山村大字南条の西琳寺に、これも源頼政の妾であったという菖蒲屋敷を伝えたのも〔三〇〕、播磨国赤穂郡高田村字西ノ山に、菖蒲前の墓所というがあるのも〔三一〕、越後国中蒲原村大字笹野宿の金仙寺を菖蒲ノ前が開基したと伝えるのも〔三二〕、更に讃岐の琴平神社の祭礼に、頼朝と称する巫女が供奉するのも〔三三〕、共に巫女(又は尸童)をヨリマシと呼んだのを、ヨリマサ、又はヨリトモと誤解した結果に外ならぬのである。


源頼政の墳墓の地及び由縁の神社が各地にある事の真相に就いては、夙に柳田国男先生が先人未到の卓説を発表されている〔三四〕。これを読んで、彼れを想うとき、それが悉く巫女に縁を曳いていたものであることが知られるのである。
源頼政の墳墓の地及び由縁の神社が各地にある事の真相に就いては、夙に柳田国男先生が先人未踏の卓説を発表されている〔三四〕。これを読んで、彼れを想うとき、それが悉く巫女に縁を曳いていたものであることが知られるのである。


[[画像:水占とら子.gif|thumb|水占を行う揲とら子氏]]
[[画像:水占とら子.gif|thumb|水占を行う揲とら子氏]]
私は今度の日本巫女史を起稿するに当り、資料の乏しきを補うために、少々泥縄的の窮策ではあったが、各地における未見曾識の学友に対して、是れが資料の報告をお願いした〔三五〕。然るに福岡県嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏から寄せられたものは、在りし大昔の巫女の<ruby><rb>観水呪術</rb><rp>(</rp><rt>ウォーター・ゲージング</rt><rp>)</rp></ruby>の一端に触れているものと信ずるので、左に綱要を抄録する。
私は今度の日本巫女史を起稿するに当り、資料の乏しきを補うために、少々泥縄的の窮策ではあったが、各地における未見会識の学友に対して、是れが資料の報告をお願いした〔三五〕。然るに福岡県嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏から寄せられたものは、在りし大昔の巫女の<ruby><rb>観水呪術</rb><rp>(</rp><rt>ウォーター・ゲージング</rt><rp>)</rp></ruby>の一端に触れているものと信ずるので、左に綱要を抄録する。


: 福岡県嘉穂郡宮野村大字桑野の楪栄蔵氏の妻女とら子(当年五十三)は、当地方に於る有名の巫女であるが、同女が巫女としての修行は頗る堅固なるもので、七年間を通じて、一日に三度づつ居宅の附近を流るる嘉麻川の上流に身を浸して垢離をとり、これを続けているうちに、御光の射すのを覚えるようになった。そして川に臨める岩の上に端座して、精神を統一するために、水面を凝視していると、流れの淀む渦の上に、不思議にも一寸八分の如来様が立っているのが見える。猶もそれをジット見詰めていると、一体の如来様が数体数十体の如来様となり、それが或は一緒になり、或は分散し、更に分散するかと思うと一緒になるなど、変幻と壮厳を極める光景を目撃する境地に達した。
: 福岡県嘉穂郡宮野村大字桑野の楪栄蔵氏の妻女とら子(当年五十三)は、当地方に於る有名の巫女であるが、同女が巫女としての修行は頗る堅固なるもので、七年間を通じて、一日に三度づつ居宅の附近を流るる嘉痲川の上流に身を浸して垢離をとり、これを続けているうちに、御光の射すのを覚えるようになった。そして川に臨める岩の上に端座して、精神を統一するために、水面を凝視していると、流れの淀む渦の上に、不思議にも一寸八分の如来様が立っているのが見える。猶もそれをジット見詰めていると、一体の如来様が数体数十体の如来様となり、それが或は一緒になり、或は分散し、更に分散するかと思うと一緒になるなど、変幻と壮厳を極める光景を目撃する境地に達した。
: そして自宅にいて神前に座し、一心に神仏を念じていると、次第に神燈が明暗し、左眼には神様の気高き御姿が現然と拝され、右眼にはお華紋([[:画像:巫女の水占とお華紋.gif|挿入の写真]]参照)が映じ、神懸りの状態となって、夢中でそのお華紋を写すのであるが、写し終ると全くお華紋が見えなくなる。そして毎日こうしては別なお華紋を見ては写すのであるが、その数は非常の数に達している。その中で三枚だけお送りした〔三六〕。
: そして自宅にいて神前に座し、一心に神仏を念じていると、次第に神燈が明暗し、左眼には神様の気高き御姿が現然と拝され、右眼にはお華紋([[:画像:巫女の水占とお華紋.gif|挿入の写真]]参照)が映じ、神懸りの状態となって、夢中でそのお華紋を写すのであるが、写し終ると全くお華紋が見えなくなる。そして毎日こうしては別なお華紋を見ては写すのであるが、その数は非常の数に達している。その中で三枚だけお送りした〔三六〕。
: 巫女とら子は、農家に生れ、別段に教育がある訳でもなく、従って図案とか意匠とかいう知識のあるべき筈もないのに、毎日、異ったお華紋——図案としても、構想としても、やや見るに足るべきものを描き出すとは、全く不思議と云わざるを得ぬのである。写真として挿入されたものは、上部に仏体があり、菊の紋を以てそれを囲みたる所に神意を寓し、人間の顏を図案化して排置したのは、三千世界皆一つと云う意味だと語ってくれた。
: 巫女とら子は、農家に生れ、別段に教育がある訳でもなく、従って図案とか意匠とかいう知識のあるべき筈もないのに、毎日、異ったお華紋——図案としても、構想としても、やや見るに足るべきものを描き出すとは、全く不思議と云わざるを得ぬのである。写真として挿入されたものは、上部に仏体があり、菊の紋を以てそれを囲みたる所に神意を寓し、人間の顏を図案化して排置したのは、三千世界皆一つと云う意味だと語ってくれた。
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; 〔註五〕 : 「比古波衣」は伴信友全集本に拠った。
; 〔註五〕 : 「比古波衣」は伴信友全集本に拠った。
; 〔註六〕 : 「正卜考」に詳しい考証が載せてある。
; 〔註六〕 : 「正卜考」に詳しい考証が載せてある。
; 〔註七〕 : 憑るべの水の信仰が拡大されて、御手洗の水で占をした例も伴翁の「よるべの水」に載せてある。更に此の信仰は神水を飲むこと、及び神水に浸した衣服を着させて善悪を裁く(我国の濡れ衣の起原)こと、起誓として神水の失などと云う信仰まで生むようになったが、是等に就いては記述する機会があろうと思っている。
; 〔註七〕 : 憑るべの水の信仰が拡大されて、御手洗の水で占をした礼も伴翁の「よるべの水」に載せてある。更に此の信仰は神水を飲むこと、及び神水に浸した衣服を着させて善悪を裁く(我国の濡れ衣の起原)こと、起誓として神水の失などと云う信仰まで生むようになったが、是等に就いては記述する機会があろうと思っている。
; 〔註八〕 : 我国における影の信仰に就いては、拙著「日本民俗志」に収めた「影を売った男の話」に大要を尽している。
; 〔註八〕 : 我国における影の信仰に就いては、拙著「日本民俗志」に収めた「影を売った男の話」に大要を尽している。
; 〔註九〕 : 水の神秘と呪詛の関係に就いては「旅と伝説」第二巻第六号に「水鏡天神」と題して拙稿を載せたことがある。同じく参照せられんことを望んでやまぬ次第である。
; 〔註九〕 : 水の神秘と呪詛の関係に就いては「旅と伝説」第二巻第六号に「水鏡天神」と題して拙稿を載せたことがある。同じく参照せられんことを望んでやまぬ次第である。
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; 〔註一五〕 : 「民族」第二巻第二号。
; 〔註一五〕 : 「民族」第二巻第二号。
; 〔註一六〕 : 「京羽二重織留」巻四(京都叢書本)。
; 〔註一六〕 : 「京羽二重織留」巻四(京都叢書本)。
; 〔註一七〕 : 前掲の柳田国男先生の「和泉式部」の一節である。
; 〔註一七〕 : 前掲の柳田先生の「和泉式部」の一節である。
; 〔註一八〕 : 「遠田郡誌」。
; 〔註一八〕 : 「遠田郡誌」。
; 〔註一九〕 : 「新選美濃志」巻四。因に、此の書の外に「稿本美濃志」という紛らわしい書があるゆえ注意を乞う。
; 〔註一九〕 : 「新選美濃志」巻四。因に、此の書の外に「稿本美濃志」という紛らわしい書があるゆえ注意を乞う。
; 〔註二〇〕 : 「京阪案内記」。
; 〔註二〇〕 : 「京阪案内記」。
; 〔註二一〕 : サダの古義は、先駆、案内、東道というほどの意味であったのが、後にはサダの語に猿田を当てたのをサルダと訓むようになったので、猿が陰陽道の申と附会され、仏教の青面金剛と習合し、遂に塞ノ神となり、岐ノ神となり、道路衢神となり、全く境界の神となってしまって、蹉跎という足に縁ある字を用いるようになった。琉球では今にサダの語を先駆の意に用いていると伊波普猷氏の論文に見えている。
; 〔註二一〕 : サダの古義は、先駆、案内、東道というほどの意味であったのが、後にはサダの語に猿田を当てたのをサルダと訓むようになったので、猿が山陰道の申と附会され、仏教の青面金剛と習合し、遂に塞ノ神となり、岐ノ神となり、道路衢神となり、全く境界の神となってしまって、蹉跎という足に縁ある字を用いるようになった。琉球では今にサダの語を先駆の意に用いていると伊波普猷氏の論文に見えている。
; 〔註二二〕 : 「雍州府志」巻九古蹟門下(続々群書類従本)。
; 〔註二二〕 : 「雍州府志」巻九古蹟門下(続々群書類従本)。
; 〔註二三〕 : 「芸藩通志」巻八二。
; 〔註二三〕 : 「芸藩通志」巻八二。
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; 〔註三三〕 : 「金毘羅名所図会」にその絵まで載せてある。
; 〔註三三〕 : 「金毘羅名所図会」にその絵まで載せてある。
; 〔註三四〕 : 「郷土研究」第一巻第九号「頼政の墓」参照。
; 〔註三四〕 : 「郷土研究」第一巻第九号「頼政の墓」参照。
; 〔註三五〕 : 永年かかって集めた資料、もう執筆に不足もあるまいと整理して見て、自分ながら貧弱なるのに驚き、書信を以て未見曾識の先輩及び学友を煩し、誠に恐縮に堪えぬ次第である。ただ此の結果私が案外に思ったことは、厚誼を頂いているお方ほど返事をくれぬ片便り、未見のお方が却って懇切に示教された点である。此の不平を折口信夫氏に語ったところ、氏の曰く「中山君は友人から返事をもらうだけの人徳のある方ではないよ」と一本正面から参らせられたが、私はこれに教えられて、頂いた芳信の返事だけは必ず直ぐ書くようになった。
; 〔註三五〕 : 永年かかって集めた資料、もう執筆に不足もあるまいと整理して見て、自分ながら貧弱なるのに驚き、書信を以て未見会識の先輩及び学友を煩し、誠に恐縮に堪えぬ次第である。ただ此の結果私が案外に思ったことは、厚誼を頂いているお方ほど返事をくれぬ片便り、未見のお方が却って懇切に示教された点である。此の不平を折口信夫氏に語ったところ、氏の曰く「中山君は友人から返事をもらうだけの人徳のある方ではないよ」と一本正面から参らせられたが、私はこれに教えられて、頂いた芳信の返事だけは必ず直ぐ書くようになった。
; 〔註三六〕 : 三枚のうち一枚だけ[[:画像:巫女の水占とお華紋.gif|写真版]]として載せたが、他の二枚は構想も図様も全く異り、一は神仏融合の図で、一は巫女とら子の宇宙観とも云うべきものであった。此の機会において、珍重すべき資料を恵投された桑野辰夫氏に厚く感謝の意を表する。
; 〔註三六〕 : 三枚のうち一枚だけ[[:画像:巫女の水占とお華紋.gif|写真版]]として載せたが、他の二枚は構想も図様も全く異り、一は神仏融合の図で、一は巫女とら子の宇宙観とも云うべきものであった。此の機会において、珍重すべき資料を恵投された桑野辰夫氏に厚く感謝の意を表する。


[[Category:中山太郎]]
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