日本巫女史/第一篇/第五章/第四節

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日本巫女史

第一篇 固有呪法時代

第五章 巫女の作法と呪術の種類

第四節 憑るべの水系の呪術

私は昭和二年十月に白鳥庫吉氏が東洋文庫において、前後九回にわたり試みられた「日本周囲民族の古伝説より見たる記紀の神代巻」とも題すべき講演を聴いて、実に多大なる啓発を受けた。就中、大己貴命の元に少彦名命が来られた際に、此の神の名を知るものないので、久延毘古クエビコを召して問いしに、此の神は産霊神ムスビノカミの御子であると答えたとあるが、此の久延毘古は『足は行かねども、天下の事を尽く知れる神にて、今に山田の曾富騰ソボトといふ』とあるより推せば〔一〕、俚俗に案山子カカシと云うものに相当しているのである。然らば、何故に此の案山子が天下の事を尽く知るほどの神通力を有していたかというに、これは西洋に行われた水晶占クリスタル・ゲージングと同じく〔二〕、水を見詰めて物を占うとある思想と共通のもので、案山子が常に水面を見ているところから、斯かる神話を構成したのであろうと云う一条は、私の耳を聳たせ、目を睜かせずには置かなかったのである。

私は白鳥氏の此の講演を聴かぬ以前から、我国に古く水を見て一種の占いをする水占ウォーター・ゲージングの方法のあったこと、及び此の占法が巫女の呪術として行われていたことを、記録または民間伝承の方面から夙に知っていたので、これに関する材料も相当に集めて持っていたのであるが、久延毘古の神通力がこれであるとまでは少しも気がつかず、同氏の講演によって始めて案山子の呪力を知ったと同時に、後世の巫女が「外法箱ゲホウバコ」と称する呪具のうちに、小さき案山子を入れておく(此の事は後章に述べる)理由が判然したのである。此の点に関しては、厚く白鳥氏の学恩を感謝する次第である。而して我国では此の水を見て行うた呪術を古く「るべの水」と称していたので、暫らく此の名を以て代表させることとしたが、更に民間伝承では、小野ノ小町の姿見の井とか、和泉式部の化粧水とか、水鏡の天神とか種々なる名で呼んでいたのである。

我国で水を見て物を占うたと思わるる記事の初見は〔三〕、「仲哀紀」八年九月の条の、仲哀帝が神功皇后に神託ありしにもかかわらず、新羅国の在ることを否認された折、

時神亦託皇后曰、如天津水影、押伏而我所見国、何謂無国、云々。

の一節である。これに対して、橘守部翁は、神依板(この板に就いては後節に載せる)を解説した細註において、

その板の下に(中山曰。守部翁は神依板と琴とは別物で、神を降す際には琴の上方に神依板を立てるというている)水を置いてそそぐ、其ノ水影に映り給う也、依瓶水と云う是也、古き釋に依瓶水は、神前の水也と云るは、違はざるを、後世ノ人、神前と思ひひがめて、御手濯ミタラシと一つに心得たるは、いみじきひが事也、仲哀紀に天津水影押伏而云々とあるも、依瓶ノ水に降り居ての神勅也。

と論じている〔四〕。流石に創見に富んでいる守部翁の説とて、誠に敬服(但し琴と神依板とを別物として、板の下に水を置くこと、御手濯を憑るべの水と見るは僻事なりとの三点に就いては、賛意を表しかねる。その理由は後に述べる)に値いするものがある。こう言う点になると、守部翁の独壇場で、本居平田両翁などは、到底、企て及ばざる天才の持主だと信じている。

併しながら、強いて言えば、守部翁の此の解説は、私が茲に言う所の水を観て占いを行う——所謂、水占系ウォーター・ゲージングの呪術が、我国にも存していたことを認識した上で、此の解説を試みたか、それとも此の反対に斯かる事には少しも関心せずして、漫然と論じたかと云う点である。事と神依板とを別物と見たり、憑るべの水と御手濯とを異物と考えたところから推すと、頗る怪しいもののように思われぬでもないが、今は余り深い詮索は措くとして、ただその着眼の非凡なりしことを推称するにとどめるとする。

憑るべの水に就いては、伴信友翁独特の、微に入り細を穿った考証が、その著「比古婆衣」巻十一に載せてある。これに由ると、伴翁は憑るべの水に対して、二様の解釈を下している。(一)は瓶に入れし水を神前に供え置き『此の瓶の水に神の立より給ふを神水とて飲みつれば、万事無事の慥にあらはるる心なり』とて、水を飲んで吉凶を占うものと釈し、(二)は『さて其の神水にて占問するには、其水にのぞみて己影をうつして、占ふる方のありしなるべし』とて占うもの自身の影を映すように説いている〔五〕。

此の解説は、我国における憑るべの水の原始的の方法が忘れられ、単にその信仰だけを微かに伝えた平安朝頃の和歌や物語を資料として稽えたために、遂に斯うした結論に到達したものと思われる。是等は私がよく言うところの、世の中の事は書物さえ見れば何でも判明すると盲信する文献学者の短所であって、実に伴翁のために惜しむbきことである。今の文献万能学者にも往々此の弊に堕するのを見るが、是は警むべきことである。併しながら、伴翁が琴の代用として神依板を用いしと説き、その神依板の下に水を置くと云わず〔六〕、更に御手濯を憑るべの水の拡大されたもの又は延長したものと考えた点は〔七〕、守部翁のそれに比較するとき、考証学者の第一人者たることが納得されるのである。

私は、此の機会において、神功皇后が啻に『如天津水影、押伏而我所見』と水占ウォーター・ゲージングを行わせられたばかりでなく、更に一歩をすすめて、水晶占クリスタル・ゲージングを為された事に就いて、管見を述べてみたいと思う。私が改めて言うまでもなく、神后の御一生は、神託を聞いて国威の発揚に努められ、その点から拝すると、最高の巫女としての聖職に居られたとも考えられるのである。而して神后が征韓の途次に、長門の豊浦の津で「如意珠」を得たことが日本書紀にも載せてあるが、此の如意珠こそ、即ち神后が水晶占クリスタル・ゲージングを行わせられる折りに用いた呪具であると想われるのである。而して此の宝珠は、一に剣珠と称せられて、攝州広田神社の末社なる南宮神社の神体として奉祀されて現今に及んでいるが、これに就いて、元広田神社に関係せる吉井良秀氏の「老の思い出」に左の如く記載されている。ここに本書に必要の部分だけを抄録する。

南宮神社(中略)。其主神と云うのは、神功皇后広田大神を御鎮祭遊ばされた時に御寄せに相成った如意珠、即剣珠で有らねばならない。南宮神は其剣球を祭った神社である(中略)。
抑々剣珠は神功皇后が、書紀に云う長門の豊浦の津で得給うた如意珠その物で、広田大神御鎮座の時に納められたと伝えられ、其珠は水晶で高さ一寸八分、径一寸九分強正中に凡一寸二分の剣の形が顕われている。故に剣珠の名があるのである。御袋の如きも何時の物かは知らないが、至極腐損している。此故に古昔は甚尊重せられて有名な物であった(中略)。茲に剣珠が或時代には世間から尊重せられた記事を摘載して見よう。先ず
一、二十二社本緣、広田神社の条に「皇后三韓征伐乃時乃御甲冑並爾如意珠等有里此宝珠和海中仁之天得給恵留由日本紀仁見多里左右仁不能事也如何様仁毛皇后御事仁弖其由有神也」としてある。此書は元弘建武頃よりは已前の物である。
一、僧義堂の詩に、過西宮觀俗所謂剣珠者「袖裏摩尼一顆円、霊光夜射九重天、若従沙竭宮中過、龍女神珠不直銭」とある。空華集に入る。義堂は高僧で名は周信、夢窓国師に参禅し、南北朝の嘉慶二年に寂す、年六十四である。
一、謡曲の内に「剣珠」と云うのがある(中略)。其文句に「汐のひる児の名を得たる西宮にも着にけり云々、此方へ御入候へ、是こそ剣珠の御社にて候、能々御拝み候へ云々」。
一、万葉集に、「玉はやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ」の歌がある。此玉はやすは武庫の冠辞である。武庫は此所の地名で玉は即剣珠で、はやすは玉を持ってホヤす意であると古人の説がある。此説は享保頃神主左京亮良行の剣珠祝詞中に見えてある。
剣珠を古く世の尊崇せし事既に斯の如くであって、社中では荘重な宮殿(凡方一尺五寸許)に納めて伝わった事は、維新の最初に、余が西宮神庫に預かっていたので能く知っている云々。

神后が得られた剣珠の用途は、私の独断では、神后が水晶占をなされたものであって、然も此の占いによって神意を問い、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず抜くの捷利を博し、御女性でありながら、万里の波濤を越え、国威を海外にまで輝かされたので、如意珠とも称したものと拝察されるのである。神后は、古史の伝うる所によると、新羅より投化した天ノ日矛の第五世息長家より出でて、皇后に立たせられたお方である。従って、是等の占法が、我国固有のものか、それとも息長家に伝えられた新羅の占法であるか、現今からはその各れとも判断すべき史料も残っていぬが、兎に角に神后が卓越せる占術を会得されていたことだけは、今からでも恐察せられるのである。

巫女が憑るべの水を利用して呪術を行うたことを明白にするには、猶おその予備知識として、我が古代にあっては常人は鏡を見ることを忌み恐れた信仰のあったことを説くことが便宜が多い。即ち古代にあっては、神に仕える巫女以外の常人は、鏡を見ることを悉く忌み恐れていたのであって、それは恰も明治初期の人々が写真を撮るのを忌み恐れたのと同じ心理で、鏡を見ると己れの影を薄くし(古代人は影は生命の一つと信じていた、ヴントの謂ゆる影象魂がそれである)延いて精力を減じ、遂には生命までも危くするものだと考えていたのである〔八〕。反言すれば、常に鏡を所有し、これを見ることのできたのは巫女だけであって、巫女は神の択んだ女性として、鏡を見ても差支ないと信じていたのである。而して此の鏡に対する信仰は、巫女が呪術を行うために利用した事から一転して、呪術——殊に他人を呪詛するときに限り用いられるようになってきて、民間に水鏡天神ミズカガミテンジンの迷信や、丑ノ刻参りの女性は、必ず胸間に鏡を懸ける俗信を生んだのである。水鏡の天神に就いては、既に私見を発表したことがあるので、茲にそれを再び繰り返す勇気はないが〔九〕、要するに、他人を呪詛する折に水鏡を見たという古い思想を、型の上で示したものに外ならぬのである。

鏡の原始的用法を今さら説く必要もないが、その発生当時にあっては、鏡は陽火を取るのが目的であって、決して顔面を映すためでは無かったのである〔一〇〕。而して此の思想は、稀薄ながらも、我国にも存していた。併しながら巫女が水を見詰めて呪術を行うた(此の内容は明確には判らぬけれども、水面を凝視していると錯覚を起して、種々な影象が網膜に映じ、それによって禍福吉凶を占ったものらしい。是が実例とも見るべきものに就いては後段に述べる)ことは、恐らく鏡が発明されぬ以前から存していたものであろう。我国の古代の巫女が此の種の呪術を行うたと想われるものが、小野小町の姿見の池、和泉式部の化粧水などと称する民間伝承に残っている。小町や式部に関する此の種の伝承は、私が蒐めただけでも無慮百を以て数うるほど夥しいものである。従ってそれを一々茲に掲げて、伝承の分化、分布、及びこれに伴う批判を加えることは、到底なし能わぬことなので、今は重なるもの一二を挙げ、片鱗を以て全龍を推すこととする〔一一〕。

京都府伏見町に近い深草村の以徳院欣浄寺の境内に、小野ノ小町の姿見の池とて、五坪ほどの雑草に覆われた小池がある。私は此の寺に詣でて、深草少将の文張フミハリの地蔵とか、小町の落歯だとか云うものを見たことがあるが、その頃(明治四十四年)は、殆んど廃寺と思われるまでに荒れていた。東京に近い武蔵国西多摩郡国分寺村に真形池というのがある。これは小町が悪疾を患うて、国分寺の薬師如来に祈請し、平癒した姿を写した池と伝えられている〔一二〕。上野国北甘楽郡小野村大字後貫に、小町の化粧水と云う井がある。旱天にも涸れず、豪雨にも増さぬ不思議を残している〔一三〕。

和泉式部にあっては、選択に苦しむほどで、僅に和泉国一カ国だけでも、式部の楊枝の清水、化粧水、鏡石、鉄漿壺、寝覚淵などの故地を数えると三十余ヶ所にも達するという有様であって、少しく誇張して云えば、日本全国に亘って存しているのである。今は著名なるものを挙げると、伊勢国三重郡神前村大字会井に清泉がある。昔和泉式部がその美貌を此の井に写して化粧したところと、勢陽雑記にある〔一四〕。長門国豊浦郡豊田村大字杢路子に和泉式部の子洗い池というのがある。式部が此の村で子を儲けたが、その子が弱いので、生死を占うために、モクロジの木を立てて占うたので、此の地名が起ったのである〔一五〕山城国宇治郡醍醐村大字小栗栖の御前社の辺にも、式部ヶ井というがある。ここは和泉式部が、此の水を汲んで硯の水に用いたと伝えられている〔一六〕。——これに就いて、柳田国男先生は『御前という名は本来上臈の敬称で、後には遊女白拍子の名にも用いられ、更に転じては瞽女ゴゼボウのゴゼと迄なった。御前社は即ち巫女優婆夷のかしずく社を意味したのであろう』と言われている〔一七〕。

例証は際限が無いから、大略にして置くが、此の種に類する伝承は、小町や式部の外にも、又た相当に残っているのである。陸前国遠田郡富永村大字休塚の、鈴木勇三郎氏の宅地内に、姿見の池と云うのがある。これは大昔に、松浦佐用姫が同地へ下向した際に、化粧に使用せる水鏡の池であって、その東方の小丘には、姫の手植の柳があったというが、今は枯れてしまった〔一八〕。美濃国不破郡青墓村大字榎戸に照手姫の清水と称するものがある。これは姫が朝夕水鏡して化粧したところである〔一九〕。河内国北河内郡蹉跎村の蹉跎山の頂に菅原道真の姿見の井がある俚伝に、菅公流謫の際、この山に登り遥かに京師を望んで別れを惜しみ、山頂の井に我が姿を映して、自作の像を残して往った。公の姫君が後を追うて此の地に来たが、既に父公の出発せられたので、足摺りして嘆き悲しんだので、山の名も村の名も蹉跎と称した〔二〇〕。此の俚伝なども水または井に対する信仰が泯びてしまったので、こうした変則なものになったのであるが、山の頂に井があることは蹉跎——此の語の古い意味が(諸国に佐太とあるのも同義である)即ちさえぎると云うほどの意味を有し、此の井を中心とした信仰が存していたのが、サダに蹉跎の漢字を当てた為に、足摺の意に解せられて、厚意を失うようになってしまったのである〔二一〕。

此の蹉跎村から程遠からぬ山城国宇治郡に『足摺池。在柳山麓四宮村之中也、俗謂蝉丸御手洗水、斯人修祓処乎足摺義不知為如何、』とあるが〔二二〕、これなども古くはサダと称して神事を行うたところを、蹉跎の字を用いて足摺りの意に曲解されるようになったので、碩学黒川道祐翁をして、足摺りの義如何なるを知らずと嘆声を発せしむるに至ったのである。安芸国賀茂郡の安志乃山の頂に寺趾があるが、ここに紫式部の植えたという杜若の池がある。寺は無くなったが花の種は民間に残っている〔二三〕。

猶お此の外に清少納言とか、小督局とか云う名で、これと同系の伝承が各地に存して居るが、他は省略して、如上の乏しき伝承だけに就いて考うるも、是等の姿見の池や化粧水の元の起りが、巫女の観水呪術に発生したものであることだけは疑いない。而して私は、更に一歩をすすめて、これ等の名媛才女の名で伝えられている女性の正体を明らかにし、併せて水の神秘を利用した巫女の呪術を説くとする。

尾張の熱田神宮の社地内に古くから支那の揚貴妃の石塔と云うのがある〔二四〕。俗説には、唐の玄宗帝が、我が日本を征伐せんと企てたのを熱田の神が覚り、彼の地に生れて揚貴妃となり、玄宗帝を淫蕩に陥れ、国乱を起させ、かくて我が日本を救ったのであると、誠しやかに伝えられている。併し此の俗説は 昔から有名なものであったと見えて、林羅山の「本朝神社考」にも「暁風集」を引いて『熱田大明神は即ち揚貴妃なり云々。神秘にして知ることなし』と載せている。

此の揚貴妃なる者の正体を、巫女史の立場から見ると、それは楊氏ヤナギシを姓とした巫女であって、熱田神宮に仕えた神人にしか過ぎぬのである。楊氏は我国への帰化族で、古く「新撰姓氏録」左京諸蕃の条に、楊侯忌寸、楊侯氏、楊侯直など載せてあり、吉備真備の生母が楊氏であった事は、その墳墓から発掘された骨器の銘に明記されている〔二五〕。此の楊氏の支族の者が、何かの縁故で、熱田神宮に仕えて巫女となり、歿後、その塔婆か墓碑に、楊氏と記されていたか、又は口から耳へと伝承されていたのを、後世の無学にして好事癖のある者が、楊と揚と字体が似ており、国音も同じところから、遂に揚貴妃に附会して、斯かる俗説を生むようになったのである。

併しながら、楊氏の巫女が揚貴妃に附会されるに至った、その当時の民衆の心理を知らなければならぬ。即ち当時にあっては、巫女は尊いもの、神聖なもの、崇むべきものと信じていたことを閑却してはならぬ。若しそうでなかったならば、楊氏が揚貴妃に附会されべき筈がないからである。そして此の心理は、巫女自身の方にも、濃厚にはたらいていたのである。自分は生ける神と同じような高い位置に居る者であるという自信を有していたのである。然るに世が変り、時が遷って、巫女の信用が漸落して来ても、今度は巫女達が自分の信用を維持するために、小町とか、式部とか、又は小督とか、少納言とかいう、史上で著聞している閨秀美姫の名を好んで用いるようになって来た。それは恰も、明治時代に書生役者が式部と称したり、活動弁士が徳川姓を冐して、無理勿体をつけた心理と全く同じものなのである。

これが我国において、僂指にも堪えぬほど夥しき漂泊伝説を残した小野ノ小町や和泉式部の正体であって、然も是等の漂泊者は、悉く村から村へと田舎わたらいした巫女なのである。奥州に多くの足跡を残した佐用姫なるものが、古き遊行婦女の一団であった小夜姫の分れとまでは、年代を引き上げることが出来ぬにしても〔二六〕、これが西から東へと歩みつづけて来た、巫女の名残りであることは想像に難くない。

尚若狭国遠敷郡西津村字松崎の釣姫ツルベ神社は、源頼政の女である二条院の次女讃岐を祀ったとあるのも〔二七〕、長門国厚狭郡船木村字逢坂に同じく讃岐の故事を伝えているのも〔二八〕、丹波国何鹿郡吉美村大字多田に残る菖蒲塚は、同じ源頼政の妾である菖蒲ノ前の墳墓とあるのも〔二九〕、伊豆国田方郡韮山村大字南条の西琳寺に、これも源頼政の妾であったという菖蒲屋敷を伝えたのも〔三〇〕、播磨国赤穂郡高田村字西ノ山に、菖蒲前の墓所というがあるのも〔三一〕、越後国中蒲原村大字笹野宿の金仙寺を菖蒲ノ前が開基したと伝えるのも〔三二〕、更に讃岐の琴平神社の祭礼に、頼朝と称する巫女が供奉するのも〔三三〕、共に巫女(又は尸童)をヨリマシと呼んだのを、ヨリマサ、又はヨリトモと誤解した結果に外ならぬのである。

源頼政の墳墓の地及び由縁の神社が各地にある事の真相に就いては、夙に柳田国男先生が先人未踏の卓説を発表されている〔三四〕。これを読んで、彼れを想うとき、それが悉く巫女に縁を曳いていたものであることが知られるのである。

私は今度の日本巫女史を起稿するに当り、資料の乏しきを補うために、少々泥縄的の窮策ではあったが、各地における未見会識の学友に対して、是れが資料の報告をお願いした〔三五〕。然るに福岡県嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏から寄せられたものは、在りし大昔の巫女の観水呪術ウォーター・ゲイジングの一端に触れているものと信ずるので、左に綱要を抄録する。

福岡県嘉穂郡宮野村大字桑野の楪栄蔵氏の妻女とら子(当年五十三)は、当地方に於る有名の巫女であるが、同女が巫女としての修行は頗る堅固なるもので、七年間を通じて、一日に三度づつ居宅の附近を流るる嘉痲川の上流に身を浸して垢離をとり、これを続けているうちに、御光の射すのを覚えるようになった。そして川に臨める岩の上に端座して、精神を統一するために、水面を凝視していると、流れの淀む渦の上に、不思議にも一寸八分の如来様が立っているのが見える。猶もそれをジット見詰めていると、一体の如来様が数体数十体の如来様となり、それが或は一緒になり、或は分散し、更に分散するかと思うと一緒になるなど、変幻と壮厳を極める光景を目撃する境地に達した。
そして自宅にいて神前に座し、一心に神仏を念じていると、次第に神燈が明暗し、左眼には神様の気高き御姿が現然と拝され、右眼にはお華紋(挿入の写真参照)が映じ、神懸りの状態となって、夢中でそのお華紋を写すのであるが、写し終ると全くお華紋が見えなくなる。そして毎日こうしては別なお華紋を見ては写すのであるが、その数は非常の数に達している。その中で三枚だけお送りした〔三六〕。
巫女とら子は、農家に生れ、別段に教育がある訳でもなく、従って図案とか意匠とかいう知識のあるべき筈もないのに、毎日、異ったお華紋——図案としても、構想としても、やや見るに足るべきものを描き出すとは、全く不思議と云わざるを得ぬのである。写真として挿入されたものは、上部に仏体があり、菊の紋を以てそれを囲みたる所に神意を寓し、人間の顏を図案化して排置したのは、三千世界皆一つと云う意味だと語ってくれた。
此のお華紋には、多少とも曼荼羅の影響を受けているように見えるが、此外に沢山あるお華紋も構想極めて自由であって、然も創意に富んだものが尠くない。こうして毎日描く所から推すと、一種の濫書狂とも思われぬでもないが判然せぬ。私は大本教の婆さんのお筆先きを、字で往かずに、絵で往ったものだと考えている。

(以上、意を取って書き改めた所がある)。

此の記事に現われたところから推測するも、巫女が水を凝視して呪術を行うことは、その修練によって為し得られることのように考えられる。我等の遠い祖先様は、「をち水」を飲めば、精神も肉体も更新するものと信じて、今に若水の習俗を正月に残し、神の甘水に種を浸すことによって豊穣するものと信じて、今に広瀬ノ神の種井の神事を行うている。水かられました神もあり、水の底に在す神もある。巫女が水を利用したことも決して偶然ではなかったのである。

〔註一〕
「古事記」神代巻。
〔註二〕
我国にも水晶を神体とした神社は各地に在る。「筑紫野民譚集」によれば、九州の彦山神社の神体は大きな水晶であったと云うし、更に「裏見寒話」巻二には甲斐国東山梨郡(?)竹森村の竹森神社の神体も八尺余の水晶だと載せてある。是等は、或は国産を、或は石の神秘を神として祭ったもので、必ずしもクリスタル・ゲージングに関係あるものとも思われぬが、姑らく記して後考を俟つとする。
〔註三〕
久延毘古を初見と云うべきであるが、これは解釈の結果で、記事として見えていぬゆえ、姑らく「仲哀紀」を以て初見とする。更に、「開化記」に「日子坐王(中略)近淡海の御上(中山曰。今の三上神社)祝がもち斎く、天の御影神の女、息長水依比売に娶ひて」云々とあるが、此の神の名又は姫の名が、水占系の意味を有っているように考えられ、殊に神后が此の息長家の出であったことは、注意すべき点である。
〔註四〕
「稜威言別」巻九(橘守部全集本)。
〔註五〕
「比古波衣」は伴信友全集本に拠った。
〔註六〕
「正卜考」に詳しい考証が載せてある。
〔註七〕
憑るべの水の信仰が拡大されて、御手洗の水で占をした礼も伴翁の「よるべの水」に載せてある。更に此の信仰は神水を飲むこと、及び神水に浸した衣服を着させて善悪を裁く(我国の濡れ衣の起原)こと、起誓として神水の失などと云う信仰まで生むようになったが、是等に就いては記述する機会があろうと思っている。
〔註八〕
我国における影の信仰に就いては、拙著「日本民俗志」に収めた「影を売った男の話」に大要を尽している。
〔註九〕
水の神秘と呪詛の関係に就いては「旅と伝説」第二巻第六号に「水鏡天神」と題して拙稿を載せたことがある。同じく参照せられんことを望んでやまぬ次第である。
〔註一〇〕
鏡の発生的考察、及び鑑と鏡との関係等に就いては、松本文三郎氏著の「東洋文化の研究」に収めてある諸論文と、故富岡謙蔵氏著の「古鏡の研究」を参照せられたい。私の考えも悉く是等によって教えられたものである。
〔註一一〕
「郷土研究」第四巻第□号に掲載された、柳田国男先生の「和泉式部」と題する論文は、よく巫女としての式部の要領を尽している。私の考えは、此のお説を拝借したまでに過ぎぬのであるが、水占は柳田先生も説かれていぬ。
〔註一二〕
元禄年中に古川古松軒の書いた「四神地名録」に見えている。
〔註一三〕
「群馬県北甘楽郡史」。
〔註一四〕
「勢陽五鈴遺響」三重郡の部。
〔註一五〕
「民族」第二巻第二号。
〔註一六〕
「京羽二重織留」巻四(京都叢書本)。
〔註一七〕
前掲の柳田先生の「和泉式部」の一節である。
〔註一八〕
「遠田郡誌」。
〔註一九〕
「新選美濃志」巻四。因に、此の書の外に「稿本美濃志」という紛らわしい書があるゆえ注意を乞う。
〔註二〇〕
「京阪案内記」。
〔註二一〕
サダの古義は、先駆、案内、東道というほどの意味であったのが、後にはサダの語に猿田を当てたのをサルダと訓むようになったので、猿が山陰道の申と附会され、仏教の青面金剛と習合し、遂に塞ノ神となり、岐ノ神となり、道路衢神となり、全く境界の神となってしまって、蹉跎という足に縁ある字を用いるようになった。琉球では今にサダの語を先駆の意に用いていると伊波普猷氏の論文に見えている。
〔註二二〕
「雍州府志」巻九古蹟門下(続々群書類従本)。
〔註二三〕
「芸藩通志」巻八二。
〔註二四〕
「塩尻」巻六(帝国書院発行の百巻本)。
〔註二五〕
吉備真備の生母楊氏の骨器の銘文は「古京遺文」に載せてある。
〔註二六〕
佐用姫が、小夜媛と称する団体称であって、九州における古き娼婦であったことは、拙著「売笑三千年史」に詳述した。巫女と売笑の関係にあっては、後章に詳記する考えであるが、此の巫女も佐用姫と称するから、私の所謂巫にして娼を兼ねた巫娼であったかも知れぬ。
〔註二七〕
「若狭郡県志」巻四(大日本地誌大系本)。
〔註二八〕
「長門風土記」巻八。
〔註二九〕
「何鹿郡案内」
〔註三〇〕
「北豆小誌」。
〔註三一〕
「播磨鏡」。
〔註三二〕
「越後名寄」巻四。
〔註三三〕
「金毘羅名所図会」にその絵まで載せてある。
〔註三四〕
「郷土研究」第一巻第九号「頼政の墓」参照。
〔註三五〕
永年かかって集めた資料、もう執筆に不足もあるまいと整理して見て、自分ながら貧弱なるのに驚き、書信を以て未見会識の先輩及び学友を煩し、誠に恐縮に堪えぬ次第である。ただ此の結果私が案外に思ったことは、厚誼を頂いているお方ほど返事をくれぬ片便り、未見のお方が却って懇切に示教された点である。此の不平を折口信夫氏に語ったところ、氏の曰く「中山君は友人から返事をもらうだけの人徳のある方ではないよ」と一本正面から参らせられたが、私はこれに教えられて、頂いた芳信の返事だけは必ず直ぐ書くようになった。
〔註三六〕
三枚のうち一枚だけ写真版として載せたが、他の二枚は構想も図様も全く異り、一は神仏融合の図で、一は巫女とら子の宇宙観とも云うべきものであった。此の機会において、珍重すべき資料を恵投された桑野辰夫氏に厚く感謝の意を表する。