日本巫女史/第一篇/第八章/第一節」を編集中

ナビゲーションに移動 検索に移動
警告: ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。ログインまたはアカウントを作成すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。

この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。

最新版 編集中の文章
106行目: 106行目:
'''五 御陣女﨟としての巫女'''
'''五 御陣女﨟としての巫女'''


[[画像:橘媛.gif‎|thumb|御陣女﨟としての橘媛倭尊と別れ入水す]]
[[画像:橘媛.gif‎|frame|御陣女﨟としての橘媛、倭尊と別れ入水す]]
我国では、古く総帥、亦は大将は、婦人を陣中に同伴することが習いとなっていた〔一〇〕。畏きことではあるが日本武尊が東征に<ruby><rb>妾</rb><rp>(</rp><rt>オムナメ</rt><rp>)</rp></ruby>橘媛を伴い、仲哀帝が西征に神后を従えさせられたのは、その例証であって、臣下としては、『仁徳紀』にある上毛野公竹葉瀨の弟田道が、妻と共に蝦夷を征討せんとして戦死したことや、「欽明紀」に河辺臣<ruby><rb>瓊岳</rb><rp>(</rp><rt>タマヘ</rt><rp>)</rp></ruby>が隨婦と、同じく調士<ruby><rb>伊企儺</rb><rp>(</rp><rt>イキナ</rt><rp>)</rp></ruby>が其妻大葉子と、共に新羅軍に捕虜となったことを載せ、また此の外にもこれが類例は相当に多く存している。
我国では、古く総帥、亦は大将は、婦人を陣中に同伴することが習いとなっていた〔一〇〕。畏きことではあるが日本武尊が東征に<ruby><rb>妾</rb><rp>(</rp><rt>オムナメ</rt><rp>)</rp></ruby>橘媛を伴い、仲哀帝が西征に神后を従えさせられたのは、その例証であって、臣下としては、『仁徳紀』にある上毛野公竹葉瀨の弟田道が、妻と共に蝦夷を征討せんとして戦死したことや、「欽明紀」に河辺臣<ruby><rb>瓊岳</rb><rp>(</rp><rt>タマヘ</rt><rp>)</rp></ruby>が隨婦と、同じく調士<ruby><rb>伊企儺</rb><rp>(</rp><rt>イキナ</rt><rp>)</rp></ruby>が其妻大葉子と、共に新羅軍に捕虜となったことを載せ、また此の外にもこれが類例は相当に多く存している。


113行目: 113行目:
山城国伏見市に鎮座する御香宮(祭神は神功皇后)に附属していた桂女(古くは桂姫と称した)に関する伝説は、此の御陣女﨟の事実を克明に保存しているのである。桂女の名の由来に就いては、彼女の一団が京都桂川の辺りなる桂ノ里(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落)に住んでいたので、地名を負うて斯く称したという説と、これに反して、彼女達は好んで桂(蔓)巻と称する独特の髪飾りをしたので、かく名を得たものとの両説あるが、私としては後説に従うのが穏当だと信じている。而して彼女達の所伝によると、桂女の祖先は岩田姫と称し〔一一〕、神功皇后が懷胎の御身を以て征韓のために渡海せられた折に従軍し、日夜とも左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂ノ里に土着したが、その証として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に伝えている。かかる緣故があるので、神后を祭った御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られるようになってからは、御香宮と御母子の関係があるというので、石清水にも出仕するようになり、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と称して桂飴を献上する例となっていた〔一二〕。而して桂女は巫女と同じく女系相続を原則とし、これを明治初年まで厳重に守って来たのである。
山城国伏見市に鎮座する御香宮(祭神は神功皇后)に附属していた桂女(古くは桂姫と称した)に関する伝説は、此の御陣女﨟の事実を克明に保存しているのである。桂女の名の由来に就いては、彼女の一団が京都桂川の辺りなる桂ノ里(現今の紀伊郡上鳥羽村の一部落)に住んでいたので、地名を負うて斯く称したという説と、これに反して、彼女達は好んで桂(蔓)巻と称する独特の髪飾りをしたので、かく名を得たものとの両説あるが、私としては後説に従うのが穏当だと信じている。而して彼女達の所伝によると、桂女の祖先は岩田姫と称し〔一一〕、神功皇后が懷胎の御身を以て征韓のために渡海せられた折に従軍し、日夜とも左右に侍して御懷抱申上げ、皇后凱旋の後に、今の桂ノ里に土着したが、その証として皇后が陣中に召された綿帽子を頂いて家に伝えている。かかる緣故があるので、神后を祭った御香宮に奉仕し、更に男山に石清水八幡宮が祭られるようになってからは、御香宮と御母子の関係があるというので、石清水にも出仕するようになり、同社の大祭である安居頭には、桂女の血筋を承けた女子が、孫夜叉と称して桂飴を献上する例となっていた〔一二〕。而して桂女は巫女と同じく女系相続を原則とし、これを明治初年まで厳重に守って来たのである。


[[画像:桂姫.gif‎|thumb|古俗を伝えた桂姫]]
[[画像:桂姫.gif‎|frame|古俗を伝えた桂姫 ]]
かく桂女が神后の征旅に従ったということは、とりも直さず、それが御陣女﨟であったことを物語るもので、初めは巫女として、中頃は巫娼(巫女にして娼妓を兼ねたもの、その詳細は第三章に記述する)として、後には神后助産のことのみ言い立てて、産婆とも、子おろしとも、更に婚礼の介添人ともつかぬ、一種変態な呪術を主とした職業婦人となってしまったのであるが、それでも御陣女﨟としての昔を忘れず、代々の武将の許に出入し、且つ戦争の有る毎に、陣中に推参して、雜役に服したものである。豊前小倉の旧藩主小笠原家は、武家作法の家元であっただけに、藩中に桂と称する一家を抱えて、代々女子を以て相続させたという〔一三〕。これは御陣女﨟としての桂女の効用が忘却されて、全く小笠原流の作法による必要の扶持人であったろうが、更に大隅国囎唹郡上之段村の桂姫城の由来にあっては、必ずしも作法のためとのみ限られぬようである。即ち桂女が神后に従い、功績があって、名を<ruby><rb>勝浦</rb><rp>(</rp><rt>カツラ</rt><rp>)</rp></ruby>姫と賜った。これより武家では、勝浦姫を愛慕し、島津家では勝浦姫の妹一人を召され、敷根村へ宅地を給し扶持されたことがある。桂姫城は此の旧跡であろうと伝えられている〔一四〕。これによると、桂が勝浦と国音の相通ずる所から、勝を悦ぶ武家が愛するようになったと解釈されているが、如何に勝つことを好み、扶持米に豊かであった島津家にしろ、単にこれだけの所緣で、桂女を召し抱えて置くべき理由がないので、古くは御陣女﨟として軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の変るにつれて、往昔の任務が忘られ、かかる伝説となって残ったものと見るのが穏当である。
かく桂女が神后の征旅に従ったということは、とりも直さず、それが御陣女﨟であったことを物語るもので、初めは巫女として、中頃は巫娼(巫女にして娼妓を兼ねたもの、その詳細は第三章に記述する)として、後には神后助産のことのみ言い立てて、産婆とも、子おろしとも、更に婚礼の介添人ともつかぬ、一種変態な呪術を主とした職業婦人となってしまったのであるが、それでも御陣女﨟としての昔を忘れず、代々の武将の許に出入し、且つ戦争の有る毎に、陣中に推参して、雜役に服したものである。豊前小倉の旧藩主小笠原家は、武家作法の家元であっただけに、藩中に桂と称する一家を抱えて、代々女子を以て相続させたという〔一三〕。これは御陣女﨟としての桂女の効用が忘却されて、全く小笠原流の作法による必要の扶持人であったろうが、更に大隅国囎唹郡上之段村の桂姫城の由来にあっては、必ずしも作法のためとのみ限られぬようである。即ち桂女が神后に従い、功績があって、名を<ruby><rb>勝浦</rb><rp>(</rp><rt>カツラ</rt><rp>)</rp></ruby>姫と賜った。これより武家では、勝浦姫を愛慕し、島津家では勝浦姫の妹一人を召され、敷根村へ宅地を給し扶持されたことがある。桂姫城は此の旧跡であろうと伝えられている〔一四〕。これによると、桂が勝浦と国音の相通ずる所から、勝を悦ぶ武家が愛するようになったと解釈されているが、如何に勝つことを好み、扶持米に豊かであった島津家にしろ、単にこれだけの所緣で、桂女を召し抱えて置くべき理由がないので、古くは御陣女﨟として軍中に伴うた桂女の子孫が、時勢の変るにつれて、往昔の任務が忘られ、かかる伝説となって残ったものと見るのが穏当である。


Docsへの投稿はすべて、他の投稿者によって編集、変更、除去される場合があります。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください(詳細はDocs:著作権を参照)。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!

このページを編集するには、下記の確認用の質問に回答してください (詳細):

取り消し 編集の仕方 (新しいウィンドウで開きます)