日本巫女史/第一篇/第八章/第三節」を編集中

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例えば、信州諏訪神社の田遊びの神事は、毎年小正月の夕刻に行われるが、その時に楽員一名が婦人に扮し、振袖の衣服を着て、頭に綿帽子を載せ、折櫃に鏡餅を盛りて神前に向いこれを供え〔一〇〕、その他種々なる式があって終る〔一一〕。山城国葛野郡七条大字西七条でも、小正月の夜に、頭座の男子一人麗しき女の小袖(この小袖はその前年に新婚せる妻女の物に限る)を着し、赤き帯を結び、顔に紅粉を粧い、大なる<ruby><rb>盒子</rb><rp>(</rp><rt>ユリ</rt><rp>)</rp></ruby>に注連を曳いて頭に頂く。これをオヤセという。外に鋤鍬を持てる者二人、オヤセの前に立ち、村中の家々に入り、耕作の真似をする。即ち田遊びの祭儀である〔一二〕。
例えば、信州諏訪神社の田遊びの神事は、毎年小正月の夕刻に行われるが、その時に楽員一名が婦人に扮し、振袖の衣服を着て、頭に綿帽子を載せ、折櫃に鏡餅を盛りて神前に向いこれを供え〔一〇〕、その他種々なる式があって終る〔一一〕。山城国葛野郡七条大字西七条でも、小正月の夜に、頭座の男子一人麗しき女の小袖(この小袖はその前年に新婚せる妻女の物に限る)を着し、赤き帯を結び、顔に紅粉を粧い、大なる<ruby><rb>盒子</rb><rp>(</rp><rt>ユリ</rt><rp>)</rp></ruby>に注連を曳いて頭に頂く。これをオヤセという。外に鋤鍬を持てる者二人、オヤセの前に立ち、村中の家々に入り、耕作の真似をする。即ち田遊びの祭儀である〔一二〕。


又、摂州武庫郡鳴尾村大字小松の岡神社の田植の神事にも、社頭に供物を献ずる男子一名は、旧例を以てその年に村内に嫁したる新婦の衣裳を着用して、この役を勤めるのである〔一三〕。紀伊国有田郡の各村で、毎年正月に行う御田踊は、相当に大仕掛のものであるが、この踊の中心となるヒルマモチ(昼間持)は、村内で最も美男子が女衣の襲ねを着し、丸帯を太鼓に結び、頭に鬘を被り、簪を挿し、緋布の鉢巻をしている〔一四〕。奥州若松市では、正月になると近村から、田植踊という銭貰いが出て来るが、その中一人だけは、男子が女装して、太鼓を打ち、農歌を謡う〔一五〕。
又、摂州武庫郡鳴尾村大字小松の岡神社の田植の神事にも、社頭に供物を献ずる男子一名は、旧例を以てその年に村内に嫁したる新婦の衣裳を着用して、この役を勤めるのである〔一三〕。紀伊国有田郡の各村で、毎年正月に行う御田踊は、相当に大仕掛のものであるが、この踊の中心となるヒルマモチ(昼間持)は、各村で最も美男子が女衣の襲ねを着し、丸帯を太鼓に結び、頭に鬘を被り、簪を挿し、緋布の鉢巻をしている〔一四〕。奥州若松市では、正月になると近村から、田植踊という銭貰いが出て来るが、その中一人だけは、男子が女装して、太鼓を打ち、農歌を謡う〔一五〕。


而してかかる類例はまだ全国に亘って殆んど際限なきほど夥しく存しているが、是等の民俗が古く穀神を女性とした信仰の名残りであることと、併せて女性が農業——殊に田植の中心人物であったことが偲ばれるのである。更に田植に挿秧する女性を、<ruby><rb>早乙女</rb><rp>(</rp><rt>サウトメ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する語義に就いても説明すべきであるが今は省略する。
而してかかる類例はまだ全国に亘って殆んど際限なきほど夥しく存しているが、是等の民俗が古く穀神を女性とした信仰の名残りであることと、併せて女性が農業——殊に田植の中心人物であったことが偲ばれるのである。更に田植に挿秧する女性を、<ruby><rb>早乙女</rb><rp>(</rp><rt>サウトメ</rt><rp>)</rp></ruby>と称する語義に就いても説明すべきであるが今は省略する。
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'''五 農業の神事とトツギ祭'''
'''五 農業の神事とトツギ祭'''


穀物の生成結実を天父地母の交接作用の一部の現われと信じた古代の民族が、その穀神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>ナゴ</rt><rp>)</rp></ruby>めて豊穣を祈る神事に、トツギの祭儀を行うのは当然の工夫であって、フレザー教授の所謂模倣呪術とも見るべきものである。而して茲には、誰でも知っているような武州赤塚村の杉山社の祭儀や、三河のテンテコ祭、尾張の田県社の神事の如きものは悉く割愛し、余り人に知られない然も有力なるもの五六を挙げんに、陸前国遠野町附近の村落では、毎年二百十日の前日に村中で大きな人形を二個作り、それへ瓜で陰陽の形を作り添えて、田圃へ持って往き、道の辻で両方を合せる行事がある。これを風雨祭と云うている〔一六〕。信州下高井郡秋山村は、粟を主食とするほどの辺鄙の土地であるが、正月七日には粟稈で大なる玄根を作り、今年の粟も此のように稔れと、家毎に持ち廻って祝言するという〔一七〕。我国の七夕はタネハタで、古く<ruby><rb>田主</rb><rp>(</rp><rt>タアルジ</rt><rp>)</rp></ruby>夫婦が、此の夜に畠の中で呪術的抱擁をする儀式があった。今に越後国北魚沼郡上条村大字西名の七夕神社では、毎年陰暦七月一日から二十七日まで、里人は同村を流れる破間川の東西の岸の喬木に注連縄を張り渡し、男女の陰具を模した物を藁で作り掲げ、その時異口同音に『破間川に注連引き渡し、西のお姫らしいのでホダレ(玄根の古語)を迎ふ』と云うことである〔一八〕。これもトツギ祭であることは明瞭である。近江国蒲生郡の各村で行う山ノ神祭は大同小異であるが、東桜谷村のは先ず木で男女二体の像を作り、これを神前に供えてトツギの状をなさしめ、白酒を献じ式を終る。そして年番の一人が音頭をとり、参集の村民これに和し『去年より今年は年よし、早稲、中稲、晩稲、二十四の作り物皆よかれ』と唱えて散会するが〔一九〕、是は明白にトツギ祭である。大和国磯城郡纏向村大字江包の素尊神社と、同郡織田村大字大西の稲田媛神社とで、毎年旧正月十日に網掛の神事というが行われる。素尊社では一反分の藁で元根の形を作り、稲田媛社でも同じほどの藁で女根を拵え、神官氏子立会の上でトツギの祭儀を執行する〔二〇〕。この神事は昔から有名なものと見え「大和高取藩風俗問状答」にも載せてある。越前国敦賀郡松原村大字沓見の信露貴神社(男神)と、同所の久豆弥神社(女神)との田植祭は五月六日に行われるが、古来、厳重なる頭屋の制度があり、当日には警固、神官、舞人、早乙女、昼飯持などの稚児が供奉し、本殿にて田植式あり、終って女官に渡御し、後に両宮同例にて、男宮に帰る。式が済むと、馬場先で、三々九度の神事がある〔二一〕。美作国久米郡稲岡村大字南庄の稲荷神社の例祭には、神輿が同所の小原神社に渡御するが、これはトツギの語らいの為めである〔二二〕。肥後の阿蘇神社で、毎年旧二月卯ノ日に田作祭を執行するが、此の祭は中の巳ノ日から亥ノ日まで、子安河原から姫神を迎えてトツギの式があって、五穀を生み、種を播くより、成熟するまでの行事がある。阿蘇谷の村々では、此の祭儀の終らぬうちは、子女の婚姻を禁じているが、これは大昔からの制法である〔二三〕。而して是等の祭儀が、巫女を中心とした農業と生殖との信仰の表現であることは、私が改めて説明するまでもなく、会得されたことと思う。
穀物の生成結実を天父地母の交接作用の一部の現われと信じた古代の民族が、その穀神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>ナゴ</rt><rp>)</rp></ruby>めて豊穣を祈る神事に、トツギの祭儀を行うのは当然の工夫であって、フレザー教授の所謂模倣呪術とも見るべきものである。而して茲には、誰でも知っているような武州赤塚村の杉山社の祭儀や、三河のテンテコ祭、尾張の田県社の神事の如きものは悉く割愛し、余り人に知られない然も有力なるもの五六を挙げんに、陸前国遠野町附近の村落では、毎年二百十日の前日に村中で大きな人形を二個作り、それへ瓜で陰陽の形を作り添えて、田圃へ持って往き、道の辻で両方を合せる行事がある。これを風雨祭と云うている〔一六〕。信州下高井郡秋山村は、粟を主食とするほどの辺鄙の土地であるが、正月七日には粟稈で大なる玄根を作り、今年の粟も此のように稔れと、家毎に持ち廻って祝言するという〔一七〕。我国の七夕はタネハタで、古く<ruby><rb>田主</rb><rp>(</rp><rt>タアルジ</rt><rp>)</rp></ruby>夫婦が、此の夜に畠の中で呪術的抱擁をする儀式があった。今に越後国北魚沼郡上条村大字西名の七夕神社では、毎年陰暦七月一日から二七日まで、里人は同村を流れる破間川の東西の岸の喬木に注連縄を張り渡し、男女の陰具を模した物を藁で作り掲げ、その時異口同音に『破間川に注連引き渡し、西のお姫らしいのでホダレ(玄根の古語)を迎ふ』と云うことである〔一八〕。これもトツギ祭であることは明瞭である。近江国蒲生郡の各村で行う山ノ神祭は大同小異であるが、東桜谷村のは先ず木で男女二体の像を作り、これを神前に供えてトツギの状をなさしめ、白酒を献じ式を終る。そして年番の一人が音頭をとり、参集の村民これに和し『去年より今年は年よし、早稲、中稲、晩稲、二十四の作り物皆よかれ』と唱えて散会するが〔一九〕、是は明白にトツギ祭である。大和国磯城郡纏向村大字江包の素尊神社と、同郡織田村大字大西の稲田媛神社とで、毎年旧正月十日に網掛の神事というが行われる。素尊社では一反分の藁で元根の形を作り、稲田媛社でも同じほどの藁で女根を拵え、神官氏子立会の上でトツギの祭儀を執行する〔二〇〕。この神事は昔から有名なものと見え「大和高取藩風俗問状答」にも載せてある。越前国敦賀郡松原村大字沓見の信露貴神社(男神)と、同所の久豆弥神社(女神)との田植祭は五月六日に行われるが、古来、厳重なる頭屋の制度があり、当日には警固、神官、舞人、早乙女、昼飯持などの稚児が供奉し、本殿にて田植式あり、終って女官に渡御し、後に両宮同例にて、男宮に帰る。式が済むと、馬場先で、三々九度の神事がある〔二一〕。美作国久米郡稲岡村大字南庄の稲荷神社の例祭には、神輿が同所の小原神社に渡御するが、これはトツギの語らいの為めである〔二二〕。肥後の阿蘇神社で、毎年旧二月卯ノ日に田作祭を執行するが、此の祭は中の巳ノ日から亥ノ日まで、子安河原から姫神を迎えてトツギの式があって、五穀を生み、種を播くより、成熟するまでの行事がある。阿蘇谷の村々では、此の祭儀の終らぬうちは、子女の婚姻を禁じているが、これは大昔からの制法である〔二三〕。而して是等の祭儀が、巫女を中心とした農業と生殖との信仰の表現であることは、私が改めて説明するまでもなく、会得されたことと思う。
 
更に如上の信仰の一段と古いところに溯れば、田植の神事の最中で、オナリが分娩の所作を演ずるのである。そしてかかる民俗も我国には尠からず存しているが、茲には僅に二三だけを掲げるとする。出雲国簸川郡江南村大字常楽寺の安子神社の祭儀は、早乙女が早苗を植えながら安産する有様を演ずるが、今では安産の神として信仰されている〔二四〕。美作国真庭郡八束村大字下長田の長田神社では、例年正月五日に御田植祭を行う。祭具は鋤鍬鎌等の農具で、別に菖蒲で牛の角形を装い作り社前に供え、田舞を奏す。奉幣、祝詞、玉串の献上、苗代の式などがあり、終ると牛使用者が「お三昼飯」と呼ぶ。次に本殿の椽に昇るとき予め紙で拵えた人形を懐中し、焼米を三宝のまま棒持して出ずると、他の祭人御酒と御飯とを持ち、笛太鼓の拍子につれ、左右に舞い終ると、お三と称する祭人(女性の象徴)産米を舞殿の高案の上に直し、本殿に昇ろうとして曩に懐中せる人形を取り出し階段に置く。これ出産を意味するものであって、斎主はその人形を肩にのせ神前に供え、氏子安全の祈祷をする。お産の式と云い終って直会する。〔二五〕土佐国安芸郡吉良川村の八幡社では、三年に一度、五月三日に、御田植祭を行うが、その行列中には、酒絞りと称する女装の男子一人と、取揚げ婆と称する男子一人とが加わり、酒絞りは水桶に<u>つぶて</u>杓を入れて頭上に戴き居り、酒絞るとき安産の態をする〔二六〕。豊後国東国東郡西武蔵村の氏神の歩射祭には、オナリと称する女装の男子が、田植の神事の最中に分娩する所作を演ずる。そして生れた子が男か女かによって豊凶を卜するのであるが、その人形の子供は秘かに神官が神意を問うて拵え、オナリに渡して置くのである〔二七〕。而して是等の分娩の役を勤める者が古くは巫女であったことは勿論である。


更に如上の信仰の一段と古いところに溯れば、田植の神事の最中で、オナリが分娩の所作を演ずるのである。そしてかかる民俗も我国には尠からず存しているが、茲には僅に二三だけを掲げるとする。出雲国簸川郡江南村大字常楽寺の安子神社の祭儀は、早乙女が早苗を植えながら安産する有様を演ずるが、今では安産の神として信仰されている〔二四〕。美作国真庭郡八束村大字下長田の長田神社では、例年正月五日に御田植祭を行う。祭具は鋤鍬鎌等の農具で、別に菖蒲で牛の角形を装い作り社前に供え、田舞を奏す。奉幣、祝詞、玉串の献上、苗代の式などがあり、終ると牛使用者が「お三昼飯」と呼ぶ。次に本殿の椽に昇るとき予め紙で拵えた人形を懐中し、焼米を三宝のまま棒持して出ずると、他の祭人御酒と御飯とを持ち、笛太鼓の拍子につれ、左右に舞い終ると、お三と称する祭人(女性の象徴)産米を舞殿の高案の上に直し、本殿に昇ろうとして曩に懐中せる人形を取り出し階段に置く。これ出産を意味するものであって、斎主はその人形を肩にのせ神前に供え、氏子安全の祈禱をする。お産の式と云い終って直会する。土佐国安芸郡吉良川村の八幡社では、三年に一度、五月三日に、御田植祭を行うが、その行列中には、酒絞りと称する女装の男子一人と、取揚げ婆と称する男子一人とが加わり、酒絞りは水桶に<u>つぶて</u>杓を入れて頭上に戴き居り、酒絞るとき安産の態をする〔二六〕。豊後国東国東郡西武蔵村の氏神の歩射祭には、オナリと称する女装の男子が、田植の神事の最中に分娩する所作を演ずる。そして生れた子が男か女かによって豊凶を卜するのであるが、その人形の子供は秘かに神官が神意を問うて拵え、オナリに渡して置くのである〔二七〕。而して是等の分娩の役を勤める者が古くは巫女であったことは勿論である。


'''六 穀神の犠牲となるオナリ'''
'''六 穀神の犠牲となるオナリ'''


[[画像:水使神社.gif‎|thumb|足利の水使神社の御影]]
下野国足利郡三重村大字五十部の水使神社の縁起に、この祭神は土地の富豪の水使女であって、乳呑児を抱えて奉公していた。或年の田植に早乙女に昼飯を持って田へ往った留守に、主人がその乳呑児を殺してしまったので水使女は気狂いのようになり、附近の池へ投身して死んだ。爾来、その女の怨霊が祟るので神に祭ったのが此の社である。神体は、左手で飯櫃を抱え、右手に飯匙を持って水中の岩上に立っている木像だとて、今にその御影を出している。此の神社は私の故郷に程近いので、私も幼少の折に亡姉に連れられて二度ほど参詣したことがある。而して此の縁起に後人の作為が加わっていることは勿論であるが、兎に角水使女が、(一)田植に昼飯を持参したこと、(二)乳呑児が殺され(これは必ずしも重要事ではないが、此の例も嫁殺し田伝説まで合せると多数ある)ること、(三)そして自分も死ぬという此の三点は、他のオナリ伝説と共通なものであって、然も此の三点がオナリとして穀神の犠牲となった事を語る眼目なのである。同じ足利郡御厨町大字福居字中里(私の生地の隣村)の鎮守は、飯盛飯有神社という珍らしい奇抜な社名で、古老の語る所によると、神体は飯櫃と飯匙とであったそうだが、現今では大気津比売命と入れ代えられて了った。此の祭神などもオナリに由縁あるものと思われるが、社記も伝説も残っていぬので、考覈すべき手掛りさえ無くなって了った。阿波国板野郡撫養町大字桑島の於加神社の神体も、水使神社と同じように、右手に飯を高盛りにしたお椀を持ち、右手に飯匙を握っているそうだが〔二八〕、これなども詮議したらオナリ系の神であるかも知れぬ。陸中国上閉伊郡松崎村大字矢崎に灌漑用の大堰がある。往古、此の堰が年々洪水のために崩壊するので巫女を人身御供として水底に沈めた。堰口はそれ以来崩壊せぬようになったが、巫女の祟りを恐れて、ボナリ(母成と書く)神として祭り、今に毎年初春壬辰の日に醴酒と煮豆を供えてお祭りをする。殊に田植の水揚げするときは、村民団子を作り神に供える〔二九〕。此の伝説こそは巫女がオナリであって、農業に深い関係を有し、然も穀神の犠牲となったことを克明に語っているのである。下総国印旛郡宗像村大字師戸の某の小娘が、同郡船穂村大字船尾の農家に子守奉公していると、或年、田植に働く人々に昼飯を運べと言いつけられ、子を背負うたまま持参すると、子供と一緒に持ってくるとは不都合だと叱られ、遂にその小娘は子供を負うて金比羅淵に投身して死んだ。然るに小娘の怨霊が大蛇となって村に祟るので、村民は鎮守宗像社に併せ祭り、今に七月一二日にはニヒガリとて鎮守社に集り草を刈り庭を清めて、その夜に来る大蛇のために道を払ってやる〔三〇〕。此の話などは、常識から云えば、理屈に合わぬことのみであるが、然し話の基調がオナリにあることを知れば、朧げながらも吾人の腑に落ちるものが存するのである。美濃国瀬川の左岸に昼飯岩というがある。大昔、某家の下女が田植している下男達に昼飯を運ぶために此処まで来ると、突然、岩が崩れて下女が殺されたので此の名がある〔三一〕。此の話なども、是れだけ聴かされたのでは、何の事やら頭も尾もない出鱈目話のように思われるが、古いオナリの条件を備えている穀神の犠牲を語っているのである。猶お此の外に磐城国白川郡竹貫駒ヶ城趾にあるボナリ石の由来や、丹波国何鹿郡東八田村大字於成のオナル神社の縁起など、詮索すれば相当に資料もあることと思うが、大体を尽したので他は省略する。
下野国足利郡三重村大字五十部の水使神社の縁起に、この祭神は土地の富豪の水使女であって、乳呑児を抱えて奉公していた。或年の田植に早乙女に昼飯を持って田へ往った留守に、主人がその乳呑児を殺してしまったので水使女は気狂いのようになり、附近の池へ投身して死んだ。爾来、その女の怨霊が祟るので神に祭ったのが此の社である。神体は、左手で飯櫃を抱え、右手に飯匙を持って水中の岩上に立っている木像だとて、今にその御影を出している。此の神社は私の故郷に程近いので、私も幼少の折に亡姉に連れられて二度ほど参詣したことがある。而して此の縁起に後人の作為が加わっていることは勿論であるが、兎に角水使女が、(一)田植に昼飯を持参したこと、(二)乳呑児が殺され(これは必ずしも重要事ではないが、此の例も嫁殺し田伝説まで合せると多数ある)ること、(三)そして自分も死ぬという此の三点は、他のオナリ伝説と共通なものであって、然も此の三点がオナリとして穀神の犠牲となった事を語る眼目なのである。同じ足利郡御厨町大字福居字中里(私の生地の隣村)の鎮守は、飯盛飯有神社という珍らしい奇抜な社名で、古老の語る所によると、神体は飯櫃と飯匙とであったそうだが、現今では大気津比売命と入れ代えられて了った。此の祭神などもオナリに由縁あるものと思われるが、社記も伝説も残っていぬので、考覈すべき手掛りさえ無くなって了った。阿波国板野郡撫養町大字桑島の於加神社の神体も、水使神社と同じように、右手に飯を高盛りにしたお椀を持ち、右手に飯匙を握っているそうだが〔二八〕、これなども詮議したらオナリ系の神であるかも知れぬ。陸中国上閉伊郡松崎村大字矢崎に灌漑用の大堰がある。往古、此の堰が年々洪水のために崩壊するので巫女を人身御供として水底に沈めた。堰口はそれ以来崩壊せぬようになったが、巫女の祟りを恐れて、ボナリ(母成と書く)神として祭り、今に毎年初春壬辰の日に醴酒と煮豆を供えてお祭りをする。殊に田植の水揚げするときは、村民団子を作り神に供える〔二九〕。此の伝説こそは巫女がオナリであって、農業に深い関係を有し、然も穀神の犠牲となったことを克明に語っているのである。下総国印旛郡宗像村大字師戸の某の小娘が、同郡船穂村大字船尾の農家に子守奉公していると、或年、田植に働く人々に昼飯を運べと言いつけられ、子を背負うたまま持参すると、小供と一緒に持ってくるとは不都合だと叱られ、遂にその小娘は小供を負うて金比羅淵に投身して死んだ。然るに小娘の怨霊が大蛇となって村に祟るので、村民は鎮守宗像社に併せ祭り、今に七月一二日にはニヒガリとて鎮守社に集り草を刈り庭を清めて、その夜に来る大蛇のために道を払ってやる〔三〇〕。此の話などは、常識から云えば、理窟に合わぬことのみであるが、然し話の基調がオナリにあることを知れば、朧げながらも吾人の腑に落ちるものが存するのである。美濃国瀬川の左岸に昼飯岩というがある。大昔、某家の下女が田植している下男達に昼飯を運ぶために此処まで来ると、突然、岩が崩れて下女が殺されたので此の名がある〔三一〕。此の話なども、是れだけ聴かされたのでは、何の事やら頭も尾もない出鱈目話のように思われるが、古いオナリの条件を備えている穀神の犠牲を語っているのである。猶お此の外に磐城国白川郡竹貫駒ヶ城趾にあるボナリ石の由来や、丹波国何鹿郡東八田村大字於成のオナル神社の縁起など、詮索すれば相当に資料もあることと思うが、大体を尽したので他は省略する。


'''七 穀神に対する古代人の態度'''
'''七 穀神に対する古代人の態度'''
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'''八 オナリと嫁殺し田の関係'''
'''八 オナリと嫁殺し田の関係'''


我国の各地に残っている嫁殺し田の伝説は、オナリの民俗の一派生として考うべきものである。反言すれば、オナリの民俗の曾て存したことが、此の嫁殺し田の伝説によって、その確実性を裏書するものと信ずるのである。陸前国宮城郡岩切村大字小鶴に小鶴ヶ池というがある。昔、多賀城下の富豪の姑が嫁の小鶴を酷遇し、何町歩とある田植を小鶴一人に一日中に済ませと命じた。小鶴は幼児を背負うたまま終日挿秧するうち、幼児は餓死し、自分も田植が済まぬので、姑に責められるのが悲しく池に投じて死んだ。それで此の池をかく呼ぶようになったのである〔三五〕。而してこれと類似した伝説が同国栗原郡尾松村大字桜田にもあると、近刊の「栗原郡誌」に、安永七年七月の書上の風土記を引用して詳記してある。下総国印旛郡船穂村大字松崎に千把ヶ池というがあり、その池畔に大きな松が一本ある。これは昔田植女が、一日千把の苗を植えよと命ぜられたが果さずして死んだのを埋め、その墓印に植えた松だと称している〔三六〕。この話は前に載せた子守の伝説と同じものが、かく二つになって語り残されたのであろう。信州更級郡更府村大字三水の泣き池は、悪心の姑が嫁を虐待し、持田を一日に植えよと無理を言われて嫁が死んで池となり、その泣き声が聞ゆるので斯く名づけたのである〔三七〕。駿河国安倍郡安東村大字北安東字柳新田に二反歩余の水田がある。嫁を憎む姑のために嫁が田植最中に死んだところで、今に田を耕作すると祟りがあるとて、今に除け地になっている〔三八〕。遠州掛川町在の嫁ヶ田も同じ頑愚な姑に挿秧の無理を強いられ、嫁が田で悶死した故地である〔三九〕。因幡国八頭郡大御門村大字西御門にも嫁殺し田というのがあって、その伝説は他のそれと全く同じである〔四〇〕。安芸国賀茂郡志和掘村にお杉畷というがある。昔お杉という女性が一人で五反余歩の田植中に死んだので、村民これを憐み、杉を栽えて記念とした〔四一〕。而して茲に注意すべきことが、是等の嫁ということは、必ずしも今日の新婦とか、花嫁とかいう意味ではなくして、古くヨメとは一般の未婚者を指していた点である。ヨメの語が、嫁の意に固定したので、意地悪の姑のことが加えられたのであるが〔四二〕、此のヨメは家族的の巫女と見るのが正しいのである。
我国の各地に残っている嫁殺し田の伝説は、オナリの民俗の一派生として考うべきものである。反言すれば、オナリの民俗の曾て存したことが、此の嫁殺し田の伝説によって、その確実性を裏書するものと信ずるのである。陸前国宮城郡岩切村大字小鶴に小鶴ヶ池というがある。昔、多賀城下の富豪の姑が嫁の小鶴を酷遇し、何町歩とある田植を小鶴一人に一日中に済ませと命じた。小鶴は幼児を背負うたまま終日挿秧するうち、幼児は餓死し、自分も田植が済まぬので、姑に責められるのが悲しく池に投じて死んだ。それで此の池をかく呼ぶようになったのである〔三五〕。而してこれと類似した伝説が同国栗原郡尾松村大字桜田にもあると、近刊の「栗原郡誌」に、安永七年七月の書上の風土記を引用して詳記してある。下総国印旛郡船穂村大字松崎に千把ヶ池というがあり、その池畔に大きな松が一本ある。これは昔田植女が、一日千把の苗を植えよと命ぜられたが果さずして死んだのを埋め、その墓印に植えた松だと称している〔三六〕。この話は前に載せた子守の伝説と同じものが、かく二つになって語り残されたのであろう。信州更級郡更府村大字三水の泣き池は、悪心の姑が嫁を虐待し、持田を一日に植えよと無理を言われて嫁が死んで池となり、その泣き声が聞ゆるので斯く名づけたのである〔三七〕。駿河国安倍郡安東村大字北安東字柳新田に二反歩余の水田がある。嫁を憎む姑のために嫁が田植最中に死んだところで、今に田を耕作すると祟りがあるとて、今に除け地になっている〔三八〕。遠州掛川町在の嫁ヶ田も同じ頑愚な姑に挿秧の無理を強いられ、嫁が田で悶死した故地である〔三九〕。因幡国八頭郡大御門村大字西御門にも嫁殺し田というのがあって、その伝説は他のそれと全く同じである〔四〇〕。安芸国賀茂郡志和掘村にお杉畷というがある。昔お杉という女性が一人で五反余歩の田植中に死んだので、村民これを憐み、杉を栽えて記念とした〔四一〕。而して茲に注意すべきことが、是等の嫁ということは、必ずしも今日の新婦とか、花嫁とかいう忌みではなくして、古くヨメとは一般の未婚者を指していた点である。ヨメの語が、嫁の意に固定したので、意地悪の姑のことが加えられたのであるが〔四二〕、此のヨメは家族的の巫女と見るのが正しいのである。


'''九 田植に行う泥掛けの意義'''
'''九 田植に行う泥掛けの意義'''
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此の泥掛けの行事は猶お種々なる<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>で残っている。武蔵国府中町の大国魂神社の田植の神事は、旧五月六日に行われるが、当日は神領の村長等数十名の早乙女とその事に従う。楓の若葉で飾った傘桙というものに白鷺の形を造り立て、神田の辺りに持ち出て、神領の男児等数人が太鼓を打ち、祝言を唱え終ると、田の泥土の中で角力を取ることになっている〔四六〕。常陸国真壁郡大宝村では田植の終りの日に村内の男女が集って田の中で泥まぶれになる角力を取る。平生怨みを負える者は、油断すると悲しき目にあうべく、男たりとも徒党を組める女達につかまれば、手足を逆しまにつるされて、泥中に頭を漬けおかるることもあるべしとのことだ〔四七〕。而してかくの如き蛮習が、何故に工夫され、然もそれが何故に存続していたかといえば、私はこれに対して、泥掛けの起原は、オナリを田の中で泥を打ち掛けて殺したのに由来するものと考えている。(以上「中央史壇」第十一巻第二号所載の拙稿を訂正した。)
此の泥掛けの行事は猶お種々なる<ruby><rb>相</rb><rp>(</rp><rt>すがた</rt><rp>)</rp></ruby>で残っている。武蔵国府中町の大国魂神社の田植の神事は、旧五月六日に行われるが、当日は神領の村長等数十名の早乙女とその事に従う。楓の若葉で飾った傘桙というものに白鷺の形を造り立て、神田の辺りに持ち出て、神領の男児等数人が太鼓を打ち、祝言を唱え終ると、田の泥土の中で角力を取ることになっている〔四六〕。常陸国真壁郡大宝村では田植の終りの日に村内の男女が集って田の中で泥まぶれになる角力を取る。平生怨みを負える者は、油断すると悲しき目にあうべく、男たりとも徒党を組める女達につかまれば、手足を逆しまにつるされて、泥中に頭を漬けおかるることもあるべしとのことだ〔四七〕。而してかくの如き蛮習が、何故に工夫され、然もそれが何故に存続していたかといえば、私はこれに対して、泥掛けの起原は、オナリを田の中で泥を打ち掛けて殺したのに由来するものと考えている。(以上「中央史壇」第十一巻第二号所載の拙稿を訂正した。)


オナリ伝説の考察が意外に長くなってしまったので、此の上に農業と巫女の関係を記すと余りに紙幅を費すので、茲には総てを省略し、不十分の点は、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]において、機会があったら補足することとした。猶お巫女と人身御供との伝説に就いては、これも他の機会で記述したいと思っているので、参照を望む次第である。
オナリ伝説の考察が以外に長くなってしまったので、此の上に農業と巫女の関係を記すと余りに紙幅を費すので、茲には総てを省略し、不十分の点は、[[日本巫女史/第三篇|第三篇]]において、機会があったら補足することとした。猶お巫女と人身御供との伝説に就いては、これも他の機会で記述したいと思っているので、参照を望む次第である。


; 〔註一〕 : 私は稲荷の原始神は狐を祭ったものだと考えている。それが秦氏の繁昌によって、同氏の祖先神と代るようになり更に秦氏の没落後に稲荷神——即ち大気津比売命と入れ代えられたものと信じたい。それでなければ、民間信仰における稲荷神と、狐との関係が、判然せぬのである。更に「開化記」には「日子坐王(中略)又其御母の弟袁祁津比売命に御娶ひて、生みませる御子」云々とある。これより推すと大気津比売の名は、玉依姫のそれと同じように、或は古代の貴女の通称の一ではなかったろうか。後考を俟つ。
; 〔註一〕 : 私は稲荷の原始神は狐を祭ったものだと考えている。それが秦氏の繁昌によって、同氏の祖先神と代るようになり更に秦氏の没落後に稲荷神——即ち大気津比売命と入れ代えられたものと信じたい。それでなければ、民間信仰における稲荷神と、狐との関係が、判然せぬのである。更に「開化記」には「日子坐王(中略)又其御母の弟袁祁津比売命に御娶ひて、生みませる御子」云々とある。これより推すと大気津比売の名は、玉依姫のそれと同じように、或は古代の貴女の通称の一ではなかったろうか。後考を俟つ。
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