日本巫女史/第一篇/第八章/第四節」を編集中

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==第四節 医術者としての巫女==
==第四節 医術者としての巫女==


荒木田久老の「<u>くし</u>考」を読むと、<u>くし</u>は酒の古名であって「仲哀記」に『この御酒は吾が御酒ならず、<u>くし</u>の神、常世にいます、石たたす少名御神の』云々とある<u>くし</u>がそれであって、病人に与えて治癒の効があったので、後にこれを薬(くすり)と云うようになり、且つ少名彦神を医薬の神として崇めたものであると云う意味が記されている。然るに、これに反して、伴信友翁は「方術原論」において、病気を<ruby><rb>禁厭</rb><rp>(</rp><rt>マジナイ</rt><rp>)</rp></ruby>除く術を行うことをクスルと云い、その術によって食う物をクスリと云うと考証している。これを要するに、前の久老翁は、酒薬一元説を主張し、後の伴翁は、医術方術同根論を唱道しているのである。
荒木田久老の「<u>くし</u>考」を読むと、<u>くし</u>は酒の古名であって「仲哀記」に『この御酒は吾が御酒ならず、<u>くし</u>の神、常世にいます、石たゝす少名御神の』云々とある<u>くし</u>がそれであって、病人に与えて治癒の効があったので、後にこれを薬(くすり)と云うようになり、且つ少名彦神を医薬の神として崇めたものであると云う意味が記されている。然るに、これに反して、伴信友翁は「方術原論」において、病気を<ruby><rb>禁厭</rb><rp>(</rp><rt>マジナイ</rt><rp>)</rp></ruby>除く術を行うことをクスルと云い、その術によって食う物をクスリと云うと考証している。これを要するに、前の久老翁は、酒薬一元説を主張し、後の伴翁は、医術方術同根論を唱道しているのである。


薬の語原がその各れであるか、それを究むることは本書の埒外に出るので茲に略すが、兎に角に「迷信は科学の母なり」と西諺にもある如く、古く医術と方術(即ち呪術の意)とが同じ源流から出たことだけは疑う余地はない。そして薬の初めが酒であったことも同断のように考えられる。誰でも知っていることではあるが、「周礼」及び「説文」を見ると、醫の字は古く毉とも書いたもので、これは神々に仕えた巫覡の徒が、専ら療病のことに与っていたので、斯く殹の下に巫を加えて、毉と訓ませたのである。然るに時代が遷り、酒というものが発明されて以来は、これを薬剤として用いるようになったので、今度は殹の下を酉に作ることとなって醫の字となり、茲に呪術と医術とが分離するようになったのである。
薬の語原がその各れであるか、それを究むることは本書の埒外に出るので茲に略すが、兎に角に「迷信は科学の母なり」と西諺にもある如く、古く医術と方術(即ち呪術の意)とが同じ源流から出たことだけは疑う余地はない。そして薬の初めが酒であったことも同断のように考えられる。誰でも知っていることではあるが、「周礼」及び「説文」を見ると、醫の字は古く毉とも書いたもので、これは神々に仕えた巫覡の徒が、専ら療病のことに与っていたので、斯く殹の下に巫を加えて、毉と訓ませたのである。然るに時代が遷り、酒というものが発明されて以来は、これを薬剤として用いるようになったので、今度は殹の下を酉に作ることとなって醫の字となり、茲に呪術と医術とが分離するようになったのである。
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とあるのが、それである。勿論、私は斯う言ったからとて、決して大少二神を男覡であると申すのでは無くして、巫覡の徒が大少二神の定められた療病の法を伝え、これに由って医術的所作を行うたものであると云うのである。それでは、是等二神の定めた医方は、如何なるものであったかというと、私の寡聞のためか判然とこれを知ることが出来ぬのである。尤も坊間に流布している「大同類聚方」と称する書物を見ると、大少二神の遣方というのが、夥しきまでに記載されているけれども、此の書が後人の偽作なることは、既に学界の定説となっているのであるから、此の書を典拠として説を試みることは不可能である。そこで私は、専ら資料を記・紀等の古文献に覓め、これを数項に分類して、巫女が医療として行った呪術に就き略述するとした。
とあるのが、それである。勿論、私は斯う言ったからとて、決して大少二神を男覡であると申すのでは無くして、巫覡の徒が大少二神の定められた療病の法を伝え、これに由って医術的所作を行うたものであると云うのである。それでは、是等二神の定めた医方は、如何なるものであったかというと、私の寡聞のためか判然とこれを知ることが出来ぬのである。尤も坊間に流布している「大同類聚方」と称する書物を見ると、大少二神の遣方というのが、夥しきまでに記載されているけれども、此の書が後人の偽作なることは、既に学界の定説となっているのであるから、此の書を典拠として説を試みることは不可能である。そこで私は、専ら資料を記・紀等の古文献に覓め、これを数項に分類して、巫女が医療として行った呪術に就き略述するとした。


猶おそれを記す以前に、巫女の行うた医療的呪術の概念に就いて述べて置く必要がある。それは外でもなく、巫女の医療的方面は、大別して二つとすることが出来る。即ち第一は、薬剤ともいうべき物を用いずして、単なる祈祷か又は呪術に由るものと、第二は、是等の祈祷を行うと同時に、薬剤とも称すべき物を用いたものとに区別されるのである。而して此の区別は、更に細別するときは、第一の祈祷呪術は、刺傷、封結、驚圧、呪物等に分れ、第二の薬剤は、供物を薬剤に代用せるものと、純薬剤とに分けることが出来ると考えるので、不充分ながらも姑らく此の分類に従うこととした。
猶おそれを記す以前に、巫女の行うた医療的呪術の概念に就いて述べて置く必要がある。それは外でもなく、巫女の医療的方面は、大別して二つとすることが出来る。即ち第一は、薬剤ともいうべき物を用いずして、単なる祈禱か又は呪術に由るものと、第二は、是等の祈禱を行うと同時に、薬剤とも称すべき物を用いたものとに区別されるのである。而して此の区別は、更に細別するときは、第一の祈禱呪術は、刺傷、封結、驚圧、呪物等に分れ、第二の薬剤は、供物を薬剤に代用せるものと、純薬剤とに分けることが出来ると考えるので、不充分ながらも姑らく此の分類に従うこととした。


因に言うが、発病以前に難病を排除する呪術を巫女が行うたことは勿論であるが、これは本節に交渉するところが尠いので除外したことである。
因に言うが、発病以前に難病を排除する呪術を巫女が行うたことは勿論であるが、これは本節に交渉するところが尠いので除外したことである。
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'''一 身体を刺傷する医療的呪術'''
'''一 身体を刺傷する医療的呪術'''


[[画像:頭蓋骨.gif|thumb|顱頂骨を穿孔せる頭蓋骨(人類学雜誌より転載)]]
「人類学雑誌」第四二巻第十号に掲載された、清野謙次、平井隆両氏の「日本石器時代の穿顱頭蓋に就いて」と題する論文は、我国にも顱頂骨を刺傷する施術の行われた事実を科学的に証明したものである。而して穿顱の目的に就いて、清野氏等は、
「人類学雑誌」第四二巻第十号に掲載された、清野謙次、平井隆両氏の「日本石器時代の穿顱頭蓋に就いて」と題する論文は、我国にも顱頂骨を刺傷する施術の行われた事実を科学的に証明したものである。而して穿顱の目的に就いて、清野氏等は、


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と説かれている〔一〕。茲に憑依とは、神がかりとも云うほどの意であろう。而して更に「史苑」第二巻第一第二号に連載された岡田太郎氏の「新石器時代の穿顱術について」と題せる論文には、
と説かれている〔一〕。茲に憑依とは、神がかりとも云うほどの意であろう。而して更に「史苑」第二巻第一第二号に連載された岡田太郎氏の「新石器時代の穿顱術について」と題せる論文には、


: 此の種の外科手術が、先史時代に行われたことについては、種々なる仮説が試みられた。プロカは、癩癇患者に対する治療法として行われたもので、悪霊が頭蓋骨の穿孔から逃げるものと信じられていたと言っている。多くの場合、前頭骨に手術が行われないで、顱頂部に行われる故に、此の迷信が主要原因であったと力説している。ミュニツワ及びマック・ジィは、穿顱術が呪術的起原を有するもので、本来治療的なものではないとまで極言している云々。
: 此の種の外科手術が、先史時代に行われたことについては、種々なる仮説が試みられた。プロカは、癩癇患者に対する治療法として行われたもので、悪霊が頭蓋骨の穿孔から逃げるものと信じられていたと言っている。多くの場合、前頭骨に手術が行われないで、顱頂部に行われる故に、此の迷信が主要原因であったと力説している。ミュニツワ及びマック・デイは、穿顱術が呪術的起原を有するもので、本来治療的なものではないとまで極言している云々。


と説かれている。而して是等の研究に従えば、我国の古代に顱頂骨を穿つことが、医療を目的とした呪術として行われた点は先ず疑いないようであるが、それでは此の施術者は何者であったかという点になると、両論文とも少しもこれに触れていないのである。私は例の独断から、此の施術者こそ巫女であって、然も施術の場合には、神意を窺うて行ったものと想像するのである。妊婦の屍体を開腹するほどの蛮勇(勿論それは神の命ずることとして行ったのであるが)を有していた巫女にとっては、当然有り得べき事実と信じたいのである。
と説かれている。而して是等の研究に従えば、我国の古代に顱頂骨を穿つことが、医療を目的とした呪術として行われた点は先ず疑いないようであるが、それでは此の施術者は何者であったかという点になると、両論文とも少しもこれに触れていないのである。私は例の独断から、此の施術者こそ巫女であって、然も施術の場合には、神意を窺うて行ったものと想像するのである。妊婦の屍体を開腹するほどの蛮勇(勿論それは神の命ずることとして行ったのであるが)を有していた巫女にとっては、当然有り得べき事実と信じたいのである。
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'''三 病魔を驚圧する医療的呪術'''
'''三 病魔を驚圧する医療的呪術'''


古代人は、総ての疾病は、病魔の(古くこれを<ruby><rb>物</rb><rp>(</rp><rt>モノ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>気</rb><rp>(</rp><rt>ケ</rt><rp>)</rp></ruby>というた)の襲うことが原因であると信じていたので、これを回復せんには、その病魔を駆除することが肝要とせられ、此の駆除法には種々なる呪術が行われたようである。例えば、病者の身体や、病室を殴打することや、病魔が嫌いそうな異臭のあるものを病者に食わせたり、又は室内に焚いたりするのや、その他にも様々なものが工夫されていた。而して此の駆除呪術は、斯くして病魔を驚駭させ、圧服するという信仰から出発していることは、言うまでもない。屡記を経た天鈿女命が磐戸の斎庭において「手に茅纒の<ruby><rb>矟</rb><rp>(</rp><rt>ホコ</rt><rp>)</rp></ruby>を持ち」神がかりしたのは、葬宴に際して疎び荒び来る物の気を攘うためであったとも思われる。換言すれば、矟という武器によって、物の気を強圧する手段とも見られるのである。漢字通の後藤朝太郎氏から聴いた話に、支那の弔という字は、葬礼のときに人が弓を携えて往った民俗があったので、それの象形文字だということである。それとこれと、思想上に共通があるか否かは、断言できぬけれども、我国にも葬儀に弓を携えて往く例は、各地に行われている〔四〕。或は此の民俗なども遠くに溯ると、鈿女の矟のように物の気を攘うのが目的であったかも知れぬ。「神楽歌」の採物に、弓、剣、鉾などのあるのも、又この信仰の在ったことを想わせるものがある。
古代人は、総ての疾病は、病魔の(古くこれを<ruby><rb>物</rb><rp>(</rp><rt>モノ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>気</rb><rp>(</rp><rt>ケ</rt><rp>)</rp></ruby>というた)の襲うことが原因であると信じていたので、これを回復せんには、その病魔を駆除することが肝要とせられ、此の駆除法には種々なる呪術が行われたようである。例えば、病者の身体や、病室を殴打することや、病魔が嫌いそうな異臭のあるものを病者に食わせたり、又は室内に焚いたりするのや、その他にも様々なものが工夫されていた。而して此の駆除呪術は、斯くして病魔を驚駭させ、圧服するという信仰から出発していることは、言うまでもない。屢記を経た天鈿女命が磐戸の斎庭において「手に茅纒の<ruby><rb>矟</rb><rp>(</rp><rt>ホコ</rt><rp>)</rp></ruby>を持ち」神がかりしたのは、葬宴に際して疎び荒び来る物の気を攘うためであったとも思われる。換言すれば、矟という武器によって、物の気を強圧する手段とも見られるのである。漢字通の後藤朝太郎氏から聴いた話に、支那の弔という字は、葬礼のときに人が弓を携えて往った民俗があったので、それの象形文字だということである。それとこれと、思想上に共通があるか否かは、断言できぬけれども、我国にも葬儀に弓を携えて往く例は、各地に行われている〔四〕。或は此の民俗なども遠くに溯ると、鈿女の矟のように物の気を攘うのが目的であったかも知れぬ。「神楽歌」の採物に、弓、剣、鉾などのあるのも、又この信仰の在ったことを想わせるものがある。


病魔の嫌う異臭を以て、医療的の呪術を行ったものとしては、「景行紀」にある倭尊の故事を例証として挙げることが出来ようと思う。即ち
病魔の嫌う異臭を以て、医療的の呪術を行ったものとしては、「景行紀」にある倭尊の故事を例証として挙げることが出来ようと思う。即ち
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これは巫女の医療的呪術としては、極めて普通なものであって、別段に取り立てて言うほどの事も無いのであるが少しく心附けるものを記して参考に資せんに、注連縄を張ることは、その一であった。鈴を振る(神の声として)ことはその二であった。社の周囲を匝ること(寛文頃の記録を見ると、宮中では刀自と称する女官が、主上御悩のときに、お千度と称して、内侍所の周りを千度匝ると載せてある)は、その三であった。
これは巫女の医療的呪術としては、極めて普通なものであって、別段に取り立てて言うほどの事も無いのであるが少しく心附けるものを記して参考に資せんに、注連縄を張ることは、その一であった。鈴を振る(神の声として)ことはその二であった。社の周囲を匝ること(寛文頃の記録を見ると、宮中では刀自と称する女官が、主上御悩のときに、お千度と称して、内侍所の周りを千度匝ると載せてある)は、その三であった。


而して猶お此の場合に考えて見たいことは、木花開耶姫命が皇子三柱を産みますときに、産室に火を放って焚き、火中において分娩されたという有名なる神話の医療学的解釈である。勿論、出産は生理的のことであって、病気では無いが、古代においてはさる区別は意識しなかったので、姑らく出産を病気として見ることとしたのである。此の神話は皇孫が妹神に対して『天神の子と雖も、いかが一夜に人をし娠ませんや、はた吾が児にあらざるか』と仰せられたに対して、<ruby><rb>誓</rb><rp>(</rp><rt>ウケヒ</rt><rp>)</rp></ruby>の考えを以て火中に入られたというのが骨子となっているのではあるが、現に琉球の各地方に行われている民俗として、妊婦が産に臨むと、室内に数個の大火鉢に火を焚き、その熱によって産婦に発汗させることを、安産の呪術と信じているのに比較すると、木花開耶媛の場合も、何か斯うした呪術的の民俗が、神話の成立要因となっていたのではあるまいか。敢て後考を俟つとする。
而して猶お此の場合に考えて見たいことは、木花開耶姫命が皇子三柱を産みますときに、産室に火を放って焚き、火中において分娩されたという有名なる神話の医療学的解釈である。勿論、出産は生理的のことであって、病気では無いが、古代においてはさる区別は意識しなかったので、姑らく出産を病気として見ることとしたのである。此の神話は皇孫が妹神に対して『天神の子と雖も、いかゞ一夜に人をし娠ませんや、はた吾が児にあらざるか』と仰せられたに対して、<ruby><rb>誓</rb><rp>(</rp><rt>ウケヒ</rt><rp>)</rp></ruby>の考えを以て火中に入られたというのが骨子となっているのではあるが、現に琉球の各地方に行われている民俗として、妊婦が産に臨むと、室内に数個の大火鉢に火を焚き、その熱によって産婦に発汗させることを、安産の呪術と信じているのに比較すると、木花開耶媛の場合も、何か斯うした呪術的の民俗が、神話の成立要因となっていたのではあるまいか。敢て後考を俟つとする。


以上で私の謂うところの第一の祈祷及び呪術による巫女の医療的職務は大体を尽したのである。これから更に第二の薬剤を用いた医療的呪術に就いて述べるとする。
以上で私の謂うところの第一の祈禱及び呪術による巫女の医療的職務は大体を尽したのである。これから更に第二の薬剤を用いた医療的呪術に就いて述べるとする。


'''五 供物を薬用とした医療的呪術'''
'''五 供物を薬用とした医療的呪術'''
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と教えしものこそ、却って我が古代の民間療法をそのまま伝えたものと信じたいのである。更に此の大国主命が、兄弟の八十神たちのために伯耆の手間の山本にて遭難せることを「古事記」に、
と教えしものこそ、却って我が古代の民間療法をそのまま伝えたものと信じたいのである。更に此の大国主命が、兄弟の八十神たちのために伯耆の手間の山本にて遭難せることを「古事記」に、


: 大穴牟遅神(中略)、その石に焼き著かえて死せたまひき。ここにその御祖命哭き患ひて、天にまゐ上りて、神産巣日之命に請したまふ時に、乃ち<ruby><rb>𧏛貝</rb><rp>(</rp><rt>キサガヒ</rt><rp>)</rp></ruby>比売と<ruby><rb>蛤貝</rb><rp>(</rp><rt>ウムキガヒ</rt><rp>)</rp></ruby>比売とを遣せて、作り活さしめたまふ。かれ𧏛貝比売きさげ集めて、蛤貝比売水を持ちて、<ruby><rb>母</rb><rp>(</rp><rt>オモ</rt><rp>)</rp></ruby>の乳汁と塗りしかば、麗しき壮夫になりて、出で<ruby><rb>遊行</rb><rp>(</rp><rt>ある</rt><rp>)</rp></ruby>きき。
: 大穴牟遅神(中略)、その石に焼き著かえて死せたまひき。こゝにその御祖命哭き患ひて、天にまゐ上りて、神産巣日之命に請したまふ時に、乃ち<ruby><rb>𧏛貝</rb><rp>(</rp><rt>キサガヒ</rt><rp>)</rp></ruby>比売と<ruby><rb>蛤貝</rb><rp>(</rp><rt>ウムキガヒ</rt><rp>)</rp></ruby>比売とを遣せて、作り活さしめたまふ。かれ𧏛貝比売きさげ集めて、蛤貝比売水を持ちて、<ruby><rb>母</rb><rp>(</rp><rt>オモ</rt><rp>)</rp></ruby>の乳汁と塗りしかば、麗しき壮夫になりて、出で<ruby><rb>遊行</rb><rp>(</rp><rt>ある</rt><rp>)</rp></ruby>きき。


と記したのも〔一三〕、また我が古俗の治療法であったと信ずべきである。而して蛤が永く薬剤として用いられたことは、「色葉字類抄」に此の字をクスと訓ませたのでも知られるのである。
と記したのも〔一三〕、また我が古俗の治療法であったと信ずべきである。而して蛤が永く薬剤として用いられたことは、「色葉字類抄」に此の字をクスと訓ませたのでも知られるのである。
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こうして動植物を薬用としたことは猶お此の外にも相当に存している。何の事か私にもよく判然せぬが、「諏訪大明神絵詞」巻下の、十二月二十四日神長官が<u>しんふくら</u>を祭る折に唱うる詞に、
こうして動植物を薬用としたことは猶お此の外にも相当に存している。何の事か私にもよく判然せぬが、「諏訪大明神絵詞」巻下の、十二月二十四日神長官が<u>しんふくら</u>を祭る折に唱うる詞に、


: 陸奥国せんせんつかふしのひとり姫御前、腹をやませ給ふに(中略)、東山信濃諏訪郡武居の御里に、いこもらおはします大明神の御室中にある、<u>しんふくら</u>と云鳥を御薬につかはせ給はば、御腹なほらせ給ふべし。
: 陸奥国せんせんつかふしのひとり姫御前、腹をやませ給ふに(中略)、東山信濃諏訪郡武居の御里に、いこもらおはします大明神の御室中にある、<u>しんふくら</u>と云鳥を御薬につかはせ給はゞ、御腹なほらせ給ふべし。


とあるのは、察するに諏訪社に伝えた鳥薬と思われるのである。後世の書物(延喜頃のものか)ではあるが、「本草和名」を見ると、左の記事がある。
とあるのは、察するに諏訪社に伝えた鳥薬と思われるのである。後世の書物(延喜頃のものか)ではあるが、「本草和名」を見ると、左の記事がある。


: 石斛 一名林蘭(中略)。 石斛者山精也云々。 和名須久奈比古乃久須禰、一名以波久須利。
: 石斛 一名林蘭(中略)。 石斛者山精云々。 和名須久奈比古乃久須禰、一名以波久須利。


是によれば、石斛を少名彦命の遺方として薬用としたことが窺われ、更に同書には、此の外に幾多の呪術から出発した民間療法薬を載せている〔一四〕。而して「医疾令」によれば、医師の外に、呪禁師と呪博士とがあって、古き医呪同根の面影を残し、未見の書ではあるが、伴信友翁の「方術原論」に引用された「医心方」には、一剤毎に一首の呪歌が添えてあるといえば、これも呪術が医薬の先駆をなしたことを示しているのである。そして是等の施術者が巫女であったことは言うまでもなく、然も永い間を——医術と呪術とが全く分離した後までも〔一五〕、此の事に関係を有していたのである。
是によれば、石斛を少名彦命の遺方として薬用としたことが窺われ、更に同書には、此の外に幾多の呪術から出発した民間療法薬を載せている〔一四〕。而して「医疾令」によれば、医師の外に、呪禁師と呪博士とがあって、古き医呪同根の面影を残し、未見の書ではあるが、伴信友翁の「方術原論」に引用された「医心方」には、一剤毎に一首の呪歌が添えてあるといえば、これも呪術が医薬の先駆をなしたことを示しているのである。そして是等の施術者が巫女であったことは言うまでもなく、然も永い間を——医術と呪術とが全く分離した後までも〔一五〕、此の事に関係を有していたのである。
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; 〔註四〕 : 葬儀に、弓を携えて往く民俗は各地に在るが、殊に奇抜なのは、土佐群書類従本「豊永郷葬事略記」にあるものである。即ち同国長岡郡豊永郷では、死人があると、弓持と称する者、竹の弓矢を携えて、棺の後に附添うて往き、墓穴に棺を納めるとき、弓持は棺を覆いし衣物を、弓の先にて取り退け、穴の内に納め、それより弓持は直ちに喪家に立帰り、大音にて「宿かり申そう」と言えば、留守居の者内より「三日跡に人質を取られて宿かすことは出来申さぬ」と答えると、又弓持「然らば艮鬼門の方へ世直り中直りの弓を引く」と云いつつ、矢を番いて、家の棟を射越し、弓も踏み折り、投げ越すとある。更に「年中故事」巻三に肥後米良山の「栃木県河内郡豊郷村郷土誌」に同村の、共に弓を携えて葬礼に行くことが載せてある。
; 〔註四〕 : 葬儀に、弓を携えて往く民俗は各地に在るが、殊に奇抜なのは、土佐群書類従本「豊永郷葬事略記」にあるものである。即ち同国長岡郡豊永郷では、死人があると、弓持と称する者、竹の弓矢を携えて、棺の後に附添うて往き、墓穴に棺を納めるとき、弓持は棺を覆いし衣物を、弓の先にて取り退け、穴の内に納め、それより弓持は直ちに喪家に立帰り、大音にて「宿かり申そう」と言えば、留守居の者内より「三日跡に人質を取られて宿かすことは出来申さぬ」と答えると、又弓持「然らば艮鬼門の方へ世直り中直りの弓を引く」と云いつつ、矢を番いて、家の棟を射越し、弓も踏み折り、投げ越すとある。更に「年中故事」巻三に肥後米良山の「栃木県河内郡豊郷村郷土誌」に同村の、共に弓を携えて葬礼に行くことが載せてある。
; 〔註五〕 : 神話と民俗との関係に就いては、前にも一度記したことがあるも、これは神話に在る事実が先に行われて、後に民俗が生じたのでは無くして、既に民俗が存していたのが神話に反映したのであると解すべきである。
; 〔註五〕 : 神話と民俗との関係に就いては、前にも一度記したことがあるも、これは神話に在る事実が先に行われて、後に民俗が生じたのでは無くして、既に民俗が存していたのが神話に反映したのであると解すべきである。
; 〔註六〕 : 従来、酒を造る者を<u>とうじ</u>と云い、これに杜司の字を当てていたので、<u>とうじ</u>は支那を学んだものであろうなどと、江戸時代の好事家なる者は気楽な考証をしたものであるが、これは橘守部が「神楽歌入文」で創説した如く、刀自即ち巫女である。延喜の「神名式」に「造酒司坐神六座(大四座小二座)大宮売神社四座」とあるのも、更に「文徳実録」斉衡三年九月辛亥の条に「造酒司酒甕神従五位下大邑刀自、小邑刀自等、並預春秋祭」とあるなど、咸な古代の巫女が造酒していることを証明しているのである。<br/>猶お刀自を巫女という証拠は、宮中の内侍所に仕える女官を、古くおさい(御斎)うねめ(采女)、とじ(刀自)、めうぶ(命婦)等に区別しているが、是等の女官が古き御巫の末であることは勿論である。
; 〔註六〕 : 従来、酒を造る者をとうじと云い、これに杜司の字を当てていたので、とうじは支那を学んだものであろうなどと、江戸時代の好事家なる者は気楽な考証をしたものであるが、これは橘守屋が「神楽歌入文」で創説した如く、刀自即ち巫女である。延喜の「神名式」に「造酒司坐神六座(大四座小二座)大宮売神社四座」とあるのも、更に「文徳実録」斉衡三年九月辛亥の条に「造酒司酒甕神従五位下大邑刀自、小邑刀自等、並預春秋祭」とあるなど、咸な古代の巫女が造酒していることを証明しているのである。<br/>猶お刀自を巫女という証拠は、宮中の内侍所に仕える女官を、古くおさい(御斎)うねめ(采女)、とじ(刀自)、めうぶ(命婦)等に区別しているが、是等の女官が古き御巫の末であることは勿論である。
; 〔註七〕 : 僧顕昭の「袖中抄」によると、賀茂社の<u>うれりめ</u>は酒殿に仕えた造酒の巫女である。猶お各地の名神大社の酒殿の巫女に就いては「民族」第四巻第二号に掲載した拙稿「御左口神考」が、多少とも此の問題に触れているので参照を望む。
; 〔註七〕 : 僧顕昭の「袖中抄」によると、賀茂社のうれりめは酒殿に仕えた造酒の巫女である。猶お各地の名神大社の酒殿の巫女に就いては「民族」第四巻第二号に掲載した拙稿「御左口神考」が、多少とも此の問題に触れているので参照を望む。
; 〔註八〕 : 此の事は琉球の古い事を書いた「遺老説伝」等にも見え、又た同地出身の伊波普猷氏からも聴いている。更に同国石垣島の皿浜出身で、横浜高等女学校の教職に在る前泊克子女史の談によると、同地では酒を「んさく」というが、是れも噛み酒の意だということである。
; 〔註八〕 : 此の事は琉球の古い事を書いた「遺老説伝」等にも見え、又た同地出身の伊波普猷氏からも聴いている。更に同国石垣島の皿浜出身で、横浜高等女学校の教職に在る前泊克子女史の談によると、同地では酒を「んさく」というが、是れも噛み酒の意だということである。
; 〔註九〕 : 伊波普猷氏の「古琉球」第□版の附録「混効験集」にある。因に同集は古い同国の辞書である。
; 〔註九〕 : 伊波普猷氏の「古琉球」第□版の附録「混効験集」にある。因に同集は古い同国の辞書である。
; 〔註一〇〕 : 碩学南方熊楠氏の談に、大和の三輪が酒の名所として知られたのは、酒を容れる樽材として、三輪杉が理想的であったばかりでなく、更に古く同地の杉の脂から、酒を製したことがあったためではないかとのことであった。附記して参考に資するとする。
; 〔註一〇〕 : 碩学南方熊楠氏の談に、大和の三輪が酒の□所として知られたのは、酒を容れる樽材として、三輪杉が理想的であったばかりでなく、更に古く同地の杉の脂から、酒を製したことがあったためではないかとのことであった。附記して参考に資するとする。
; 〔註一一〕 : 待ち酒は「万葉集」巻四にも「君が為めかみし待ち酒安の野に、独りや飲まむ友なしにして」とある。
; 〔註一一〕 : 待ち酒は「万葉集」巻四にも「君が為めかみし待ち酒安の野に、独りや飲まむ友なしにして」とある。
; 〔註一二〕 : 祭をマチと云うているところは、今に各地にある。待ち酒の<u>まち</u>は、祭のマチであって、これに待つ人の来るか来ぬかを占う意も含まれていると、折口信夫氏から教えられたことがある。
; 〔註一二〕 : 祭をマチと云うているところは、今に各地にある。待ち酒のまちは、祭のマチであって、これに待つ人の来るか来ぬかを占う意も含まれていると、折口信夫氏から教えられたことがある。
; 〔註一三〕 : 此の一条は、我国における神の復活の信仰を記したものにして見るとき、一段の意義がある。併しそれは姑らく措くとするも、ここに𧏛や蛤を人格と見たのは、その効験から来た事で、古く此の種の貝類や母乳を薬用としたことを暗示していると見るも又た意味が深い。
; 〔註一三〕 : 此の一条は、我国における神の復活の信仰を記したものにして見るとき、一段の意義がある。併しそれは姑らく措くとするも、ここに𧏛や蛤を人格と見たのは、その効験から来た事で、古く此の種の貝類や母乳を薬用としたことを暗示していると見るも又た意味が深い。
; 〔註一四〕 : 私の見た「本草和名」は「日本古典全集」本であるが、その底本となったのは、解題によると、森枳園の書入れ本である。そして此の書入れを見ても、「医心方」を引いたところがあるが、これ等によると、我が古代に種々な動植物及びその他の庶物まで薬用としたことが窺われるのである。
; 〔註一四〕 : 私の見た「本草和名」は「日本古典全集」本であるが、その底本となったのは、解題によると、森枳園の書入れ本である。そして此の書入れを見ても、「医心方」を引いたところがあるが、これ等によると、我が古代に種々な動植物及びその他の庶物まで薬用としたことが窺われるのである。
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