「日本巫女史/第一篇/第四章/第四節」を編集中

ナビゲーションに移動 検索に移動

警告: ログインしていません。編集を行うと、あなたの IP アドレスが公開されます。ログインまたはアカウントを作成すれば、あなたの編集はその利用者名とともに表示されるほか、その他の利点もあります。

この編集を取り消せます。 下記の差分を確認して、本当に取り消していいか検証してください。よろしければ変更を公開して取り消しを完了してください。

最新版 編集中の文章
49行目: 49行目:
: 和名抄に朱櫻、波々迦、一云邇波佐久良、また木具部に、樺ハ木皮ノ名、可以為炬者也、和名<ruby><rb>加波</rb><rp>(</rp><rt>カバ</rt><rp>)</rp></ruby>、又云加仁波、今櫻皮有之とみえ、万葉集に<ruby><rb> 櫻皮 </rb><rp>(</rp><rt>カニバ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>纒作流</rb><rp>(</rp><rt>マキツクレル</rt><rp>)</rp></ruby>舟とよみ、古今集物名に迦爾婆櫻あり(中略)。これを合せて思ふに、此木の本名は波々迦にて、加爾婆は皮名なり、加婆は迦爾婆の約りたるなり。
: 和名抄に朱櫻、波々迦、一云邇波佐久良、また木具部に、樺ハ木皮ノ名、可以為炬者也、和名<ruby><rb>加波</rb><rp>(</rp><rt>カバ</rt><rp>)</rp></ruby>、又云加仁波、今櫻皮有之とみえ、万葉集に<ruby><rb> 櫻皮 </rb><rp>(</rp><rt>カニバ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>纒作流</rb><rp>(</rp><rt>マキツクレル</rt><rp>)</rp></ruby>舟とよみ、古今集物名に迦爾婆櫻あり(中略)。これを合せて思ふに、此木の本名は波々迦にて、加爾婆は皮名なり、加婆は迦爾婆の約りたるなり。


とある樺木説に左袒する者である〔一八〕。延喜の「民部式」下に、信濃国樺ノ皮四囲、上野国樺ノ皮四囲とあるのは、鵜飼の燃料に用いたとの説もあるが〔一九〕、私はこれも太占用として考えたいのである。巫女が樺ノ木を用いたことは、私の寡見には入らぬけれども、東北地方——殊に陸中国の上下閉伊二郡にては旧家名族の別称として<ruby><rb>樺皮</rb><rp>(</rp><rt>カバカワ</rt><rp>)</rp></ruby>の家と云うているそうだが、これは樺の皮に画ける仏像または名号を所有しているためであって〔二〇〕、それを所持することが家格の高いことを意味しているのだと云うことである。而して此の仏像なり名号なりを古く巫女が伝えたことは、同地方における巫女の勢力を知るときは、自然と解決される問題である。
とある樺木説に左袒する者である〔一八〕。延喜の「民部式」下に、信濃国樺ノ皮四囲、上野国樺ノ皮四囲とあるのは、鵜飼の燃料に用いたとの説もあるが〔一九〕、私はこれも太占用として考えたいのである。巫女が樺ノ木を用いたことは、私の寡見には入らぬけれども、東北地方——殊に陸中国の上下閉伊二郡にては旧家名族の別称として<ruby><rb>樺皮</rb><rp>(</rp><rt>カバカワ</rt><rp>)</rp></ruby>の家と云うているそうだが、これは樺の皮に書ける仏像または名号を所有しているためであって〔二〇〕、それを所持することが家格の高いことを意味しているのだと云うことである。而して此の仏像なり名号なりを古く巫女が伝えたことは、同地方における巫女の勢力を知るときは、自然と解決される問題である。


これと同時に、考えなければならぬ問題は、盂蘭盆会の聖霊迎えに樺の火を焚く習俗の各地に存することである。我国の聖霊は、その子孫の者が焚いて呉れる火の光りを目途にして、遠い幽界から降り(或はその火の煙に乗って来るとも云うている)て来るのであると信じられていて、必ず墓地で迎え火を焚くこととなっていた〔二一〕。都会人が墓参もせず、己の門口で炮烙の上で麻殻を焚き、それで迎え火だなどと済しているのは、都会生活の屈托から儀式を簡略化したに過ぎぬものであって、聖霊に戸惑いさせる虞れがないとも限らぬ。前に挙げた陸中の上下両閉伊郡では、今も盆の迎え火は樺を墓前で焚くことになっている〔二二〕。陸奥国東津軽郡の各村々でも、盆の迎え火には樺を焚くが、殊に平内村(西中東の三村を押しくるめて)では、十三日から二十日まで毎夜戸外でこれを焚き、且つ舞踏をつづけるそうである〔二三〕。信濃国の伊那郡北部を中心とした地方でも、同じく盆には墓前で樺を焚くことと、ドンブヤを振ることの二つが、迎え火となっているのである〔二四〕。
これと同時に、考えなければならぬ問題は、盂蘭盆会の聖霊迎えに樺の火を焚く習俗の各地に存することである。我国の聖霊は、その子孫の者が焚いて呉れる火の光りを目途にして、遠い幽界から降り(或はその火の煙に乗って来るとも云うている)て来るのであると信じられていて、必ず墓地で迎え火を焚くこととなっていた〔二一〕。都会人が墓参もせず、己の門口で炮烙の上で麻殻を焚き、それで迎え火だなどと済しているのは、都会生活の屈托から儀式を簡略化したに過ぎぬものであって、聖霊に戸惑いさせる虞れがないとも限らぬ。前に挙げた陸中の上下両閉伊郡では、今も盆の迎え火は樺を墓前で焚くことになっている〔二二〕。陸奥国東津軽郡の各村々でも、盆の迎え火には樺を焚くが、殊に平内村(西中東の三村を押しくるめて)では、十三日から二十日まで毎夜戸外でこれを焚き、且つ舞踏をつづけるそうである〔二三〕。信濃国の伊那郡北部を中心とした地方でも、同じく盆には墓前で樺を焚くことと、ドンブヤを振ることの二つが、迎え火となっているのである〔二四〕。

Docsへの投稿はすべて、他の投稿者によって編集、変更、除去される場合があります。 自分が書いたものが他の人に容赦なく編集されるのを望まない場合は、ここに投稿しないでください。
また、投稿するのは、自分で書いたものか、パブリック ドメインまたはそれに類するフリーな資料からの複製であることを約束してください(詳細はDocs:著作権を参照)。 著作権保護されている作品は、許諾なしに投稿しないでください!

このページを編集するには、下記の数式を計算してその答えを欄に入力してください (ヘルプ):

取り消し 編集の仕方 (新しいウィンドウで開きます)