日本巫女史/第一篇/第四章/第四節」を編集中

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古く我国では、鹿も猪も、共にししと称し、これを区別するときには、<ruby><rb>鹿</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>ノしし、<ruby><rb>猪</rb><rp>(</rp><rt>イ</rt><rp>)</rp></ruby>ノししと呼んだ。而して此のししには、<ruby><rb>宍</rb><rp>(</rp><rt>シシ</rt><rp>)</rp></ruby>即ち食し得る肉というほどの意味がある。巫女が呪術に行うに際して、鹿(太占の場合は今は全く省く)および猪を用いたと思われることは、古く<ruby><rb>黄泉</rb><rp>(</rp><rt>ヨミ</rt><rp>)</rp></ruby>の枕辞に「<ruby><rb>宍串呂</rb><rp>(</rp><rt>シジグシロ</rt><rp>)</rp></ruby>」の語を用いたことから察せられるのである。宍串呂の解釈にあっては、賀茂真淵翁は<ruby><rb>繁釧</rb><rp>(</rp><rt>シジクシロ</rt><rp>)</rp></ruby>の意なるべしと云うているが〔二九〕、これは僧仙覚の、串にさして炙たる肉はうまき物なれば味のよしとつづくと云う説こそ〔三〇〕、蓋し上代の民俗に適うたものと考えられるのである。
古く我国では、鹿も猪も、共にししと称し、これを区別するときには、<ruby><rb>鹿</rb><rp>(</rp><rt>カ</rt><rp>)</rp></ruby>ノしし、<ruby><rb>猪</rb><rp>(</rp><rt>イ</rt><rp>)</rp></ruby>ノししと呼んだ。而して此のししには、<ruby><rb>宍</rb><rp>(</rp><rt>シシ</rt><rp>)</rp></ruby>即ち食し得る肉というほどの意味がある。巫女が呪術に行うに際して、鹿(太占の場合は今は全く省く)および猪を用いたと思われることは、古く<ruby><rb>黄泉</rb><rp>(</rp><rt>ヨミ</rt><rp>)</rp></ruby>の枕辞に「<ruby><rb>宍串呂</rb><rp>(</rp><rt>シジグシロ</rt><rp>)</rp></ruby>」の語を用いたことから察せられるのである。宍串呂の解釈にあっては、賀茂真淵翁は<ruby><rb>繁釧</rb><rp>(</rp><rt>シジクシロ</rt><rp>)</rp></ruby>の意なるべしと云うているが〔二九〕、これは僧仙覚の、串にさして炙たる肉はうまき物なれば味のよしとつづくと云う説こそ〔三〇〕、蓋し上代の民俗に適うたものと考えられるのである。


宍串の民俗学的例証は、私の集めただけでも相当に存しているが、その代表的の物は「出雲風土記」意宇郡安来郷に載せた語臣猪麻呂の記事である。天武朝に猪麻呂が娘を鰐のために喰い殺されたのを怒り〔三一〕、天神地祇に祈ったところ、百余の鰐が一頭の鰐を囲み率いて来たので娘の仇を復したが、その時に猪麻呂は『<ruby><rb>和爾</rb><rp>(</rp><rt>ワニ</rt><rp>)</rp></ruby>者殺割而<ruby><rb>挂</rb><rp>(</rp><rt>カケ</rt><rp>)</rp></ruby>串立路之垂也』とあるのがそれであって、現代にその面影を残しているものは、大隅国姶良郡東襲山村大字重久の<ruby><rb>止上</rb><rp>(</rp><rt>トカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社の贄祭である。社伝に、此の祭は、景行帝が熊襲を退治せられたところ、その梟師の悪霊が祟りをなし人民を苦しめるので、毎年旧正月十四日に、氏子が初猟をなし、獲物の肉を三十三本の串に貫き、地に挿し立てて牲となし、熊襲の霊を祀るに始まると言い、今にその祭礼の次第が存している〔三二〕。
宍串の民俗学的例証は、私の集めただけでも相当に存しているが、その代表的の物は「出雲風土記」意宇郡安来郷に載せた語臣猪麻呂の記事である。天武朝に猪麻呂が娘を鰐のために喰い殺されたのを怒り〔三一〕、天神地祇に祈ったところ、百余の鰐が一頭の鰐を囲み率いて来たので娘の仇を復したが、その時に猪麻呂は『<ruby><rb>和爾</rb><rp>(</rp><rt>ワニ</rt><rp>)</rp></ruby>者殺割而<ruby><rb>挂</rb><rp>(</rp><rt>カケ</rt><rp>)</rp></ruby>串立路之垂也』とあるのがそれであって、現代にその面影を残しているものは、大隅国姶良郡東襲山村大字重久の<ruby><rb>止上</rb><rp>(</rp><rt>トカミ</rt><rp>)</rp></ruby>神社の贄祭である。社伝に、此の祭は、景行帝が熊襲を退治せられたところ、その梟師の悪霊が祟りをなし人民を苦しめるので、毎年旧正月一四日に、氏子が初猟をなし、獲物の肉を三十三本の串に貫き、地に挿し立てて牲となし、熊襲の霊を祀るに始まると言い、今にその祭礼の次第が存している〔三二〕。


併し乍ら、此の肉串も原始期に溯ると、独り鹿や猪の肉ばかりでなく、人肉を用いたことも在りはせぬかと思われる点である。即ち前に挙げた枕詞の本歌は「万葉集」巻九菟原処女の墓を見て詠める長歌の一節で、即ち『<ruby><rb>宍串呂</rb><rp>(</rp><rt>シジクシロ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>黃泉</rb><rp>(</rp><rt>ヨミ</rt><rp>)</rp></ruby>に待たむと<ruby><rb>隠沼</rb><rp>(</rp><rt>コモリヌ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>下懸想</rb><rp>(</rp><rt>シタハ</rt><rp>)</rp></ruby>へ置きて、打嘆き妹が<ruby><rb>去</rb><rp>(</rp><rt>ユ</rt><rp>)</rp></ruby>ければ』云々とあるように、死の国である黄泉にかけた冠辞なのである。巫女が屍体を支解する職程を有していたために<ruby><rb>祝</rb><rp>(</rp><rt>ハフリ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したことの詳細は[[日本巫女史/第一篇/第七章/第二節|後章]]に説くが、宍串が人肉であったことも、此の結論から、当然考えられることである。而して是等の宍串を作る役目は、言うまでもなく巫女であったに相違ないのである。
併し乍ら、此の肉串も原始期に溯ると、独り鹿や猪の肉ばかりでなく、人肉を用いたことも在りはせぬかと思われる点である。即ち前に挙げた枕詞の本歌は「万葉集」巻九菟原処女の墓を見て詠める長歌の一節で、即ち『<ruby><rb>宍串呂</rb><rp>(</rp><rt>シジクシロ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>黃泉</rb><rp>(</rp><rt>ヨミ</rt><rp>)</rp></ruby>に待たむと<ruby><rb>隠沼</rb><rp>(</rp><rt>コモリヌ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>下懸想</rb><rp>(</rp><rt>シタハ</rt><rp>)</rp></ruby>へ置きて、打嘆き妹が<ruby><rb>去</rb><rp>(</rp><rt>ユ</rt><rp>)</rp></ruby>ければ』云々とあるように、死の国である黄泉にかけた冠辞なのである。巫女が屍体を支解する職程を有していたために<ruby><rb>祝</rb><rp>(</rp><rt>ハフリ</rt><rp>)</rp></ruby>と称したことの詳細は[[日本巫女史/第一篇/第七章/第二節|後章]]に説くが、宍串が人肉であったことも、此の結論から、当然考えられることである。而して是等の宍串を作る役目は、言うまでもなく巫女であったに相違ないのである。
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