日本巫女史/第三篇/第一章/第一節」を編集中

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戦国の英雄は、概して迷信が強く、信玄の好敵手であった上杉謙信の如きも、篤く飯綱の邪法に陥り、それが為めに生涯、女色を遠ざけたとまで伝えられている〔二〕。信玄も又その一人であって、常に巫覡の言を信じ、或は利用したものと見え、此の外にも信州戸隠神社の巫女に祈願を命じた文書が残っている〔三〕。而して此の免許状を受けた千代なる巫女は、信州の名族滋野氏の末裔で、此の女が後に小県郡禰津村に土着し、日本一の<ruby><rb>巫女村</rb><rp>(</rp><rt>ミコムラ</rt><rp>)</rp></ruby>を造るようになったのであるが、それに就いては、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後段]]に詳述する考えである。
戦国の英雄は、概して迷信が強く、信玄の好敵手であった上杉謙信の如きも、篤く飯綱の邪法に陥り、それが為めに生涯、女色を遠ざけたとまで伝えられている〔二〕。信玄も又その一人であって、常に巫覡の言を信じ、或は利用したものと見え、此の外にも信州戸隠神社の巫女に祈願を命じた文書が残っている〔三〕。而して此の免許状を受けた千代なる巫女は、信州の名族滋野氏の末裔で、此の女が後に小県郡禰津村に土着し、日本一の<ruby><rb>巫女村</rb><rp>(</rp><rt>ミコムラ</rt><rp>)</rp></ruby>を造るようになったのであるが、それに就いては、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後段]]に詳述する考えである。


江戸幕府は伝統政策として、特殊の職業に対しては、出来るだけ自治を許し、所謂、治めざるを以て治むる方針を執ったのである。盲人に当道派と称する団体を認めて、殺人、放火、姦通の三罪以外には、団体の名を以て刑の執行まで許し〔四〕、修験道にあっては、更に石子詰の極刑まで黙認したと伝えられている〔五〕。従って巫女の如きは「帳外者」として、一切の納税を免除すると同時に、古くはエタ頭弾左衛門の配下とし〔六〕、後には「遊民」として之を取扱った。「続地方落穂集」巻二の「人別四段認様之事」と題せる記事中に、遊民として『陰陽<u>いち</u>御子の類、釜祓、瞽女、虚無僧、鉦打、行人』等を挙げているのが、それである。既に帳外者であり、遊民である以上は、巫女の社会的地位は極めて低級なるものであって、全く普通民とは伍することの出来ぬ境涯に置かれ、院内、算所、願人などと同視されていたのである。されば殆んど全国に亘って巫女を賤め、甲斐のシラカミ筋、中国のミコ筋を始めとして、普通人はこれと通婚する事さえ絶対に拒否したものである。「徳川禁令考」巻四十「神社神職之者評定所着席之例」に『神子女に候得者、下椽』と定め、更に但書にて『巫女と認候ても<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>と読申候』としたのは、即ち神社に附属する神子であって、巫女は神子の名によって、漸く此の資格を得るという有様であった。それであるから、江戸期には神社附属の神子と、町村土着の市子との権限、及び作法を厳重に区別し、前者は悉く吉田家の管下となし、後者は関八州にあっては田村家の配下となし、その他は、国々の触頭ともいうべき者に、支配させたのである。「聞伝叢書」巻四(日本経済大典本)に載せた左の裁許状は、前者の作法を明記したものである。
江戸幕府は伝統政策として、特殊の職業に対しては、出来るだけ自治を許し、所謂、治めざるを以て治むる方針を執ったのである。盲人に当道派と称する団体を認めて、殺人、放火、姦通の三罪以外には、団体の名を以て刑の執行まで許し〔四〕、修験道にあっては、更に石子詰の極刑まで黙認したと伝えられている〔五〕。従って巫女の如きは「帳外者」として、一切の納税を免除すると同時に、古くはエタ頭弾左衛門の配下とし〔六〕、後には「遊民」として之を取扱った。「続地方落穂集」巻二の「人別四段認様之事」と題せる記事中に、遊民として『陰陽<u>いち</u>御子の類、釜祓、瞽女、虚無僧、鉦打、行人』等を挙げているのが、それである。既に帳外者であり、遊民である以上は、巫女の社会的地位は極めて低級なるものであって、全く普通民とは伍することの出来ぬ境涯に置かれ、院内、算所、願人などと同視されていたのである。されば殆んど全国に亘って巫女を賎め、甲斐のシラカミ筋、中国のミコ筋を始めとして、普通人はこれと通婚する事さえ絶対に拒否したものである。「徳川禁令考」巻四十「神社神職之者評定所着席之例」に『神子女に候得者、下椽』と定め、更に但書にて『巫女と認候ても<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>と読申候』としたのは、即ち神社に附属する神子であって、巫女は神子の名によって、漸く此の資格を得るという有様であった。それであるから、江戸期には神社附属の神子と、町村土着の市子との権限、及び作法を厳重に区別し、前者は悉く吉田家の管下となし、後者は関八州にあっては田村家の配下となし、その他は、国々の触頭ともいうべき者に、支配させたのである。「聞伝叢書」巻四(日本経済大典本)に載せた左の裁許状は、前者の作法を明記したものである。


:     神子之事
:     神子之事
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; 〔註四〕 : 「当道大記録」、「瞽幻書」、「当道式目」等参照せられたい。
; 〔註四〕 : 「当道大記録」、「瞽幻書」、「当道式目」等参照せられたい。
; 〔註五〕 : 「郷土研究」第四巻第六号所載の拙稿「石子詰の刑に就いて」を参照されたい。
; 〔註五〕 : 「郷土研究」第四巻第六号所載の拙稿「石子詰の刑に就いて」を参照されたい。
; 〔註六〕 : 弾左衛門の家に伝えた治承年間源頼朝の下し文のうちに、賤業卑職二十八種を挙げて、支配すべしとあるうちに、巫女がある。勿論、此の文書は、疑いないまでの偽書であるが、然も此の偽書であることを知っていながら、幕府が弾左衛門に支配させたところに、治めざるを以て治むるとした政策が窺われるのである。
; 〔註六〕 : 弾左衛門の家に伝えた治承年間源頼朝の下し文のうちに、賎業卑職二十八種を挙げて、支配すべしとあるうちに、巫女がある。勿論、此の文書は、疑いないまでの偽書であるが、然も此の偽書であることを知っていながら、幕府が弾左衛門に支配させたところに、治めざるを以て治むるとした政策が窺われるのである。


[[Category:中山太郎]]
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