日本巫女史/第三篇/第一章/第一節」を編集中

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本篇においては、此の室町期の末葉から江戸期を通じ、更に明治の禁断と、大正の余喘期を述べるのであるが、巫女は堕落し、呪術は胡盧を描くにとどまっているので、少しく不熟の嫌いはあるが、姑らく退化呪法時代と称した所以なのである。
本篇においては、此の室町期の末葉から江戸期を通じ、更に明治の禁断と、大正の余喘期を述べるのであるが、巫女は堕落し、呪術は胡盧を描くにとどまっているので、少しく不熟の嫌いはあるが、姑らく退化呪法時代と称した所以なのである。


市子(口寄系)の流派は、前代を承けて、これを形式から見るときは、紀州熊野系、加賀白山系、稲荷下げ、飯綱遣い、夷子おろしなどが存していたようであるが、その悉くが、殆んど雑糅してしまって、私の浅学では、それを明確に区別することが出来ぬのである。更に呪術の方法においても、梓弓(長短の二種がある)を用いるもの、珠数を用いるもの、例の外法(髑髏)神を用いるものなどが在ったようであるが、これも全く混淆してしまって、同じく私の寡聞では、仔細に判別することが出来ぬのである。換言すれば、熊野系は珠数を用いるとか、白山系は梓弓をたたくとかいう分類が出来ぬのである。
市子(口寄系)の流派は、前代を承けて、これを形式から見るときは、紀州熊野系、加賀白山系、稲荷下げ、飯縄遣い、夷子おろしなどが存していたようであるが、その悉くが、殆んど雑糅してしまって、私の浅学では、それを明確に区別することが出来ぬのである。更に呪術の方法においても、梓弓(長短の二種がある)を用いるもの、珠数を用いるもの、例の外法(髑髏)神を用いるものなどが在ったようであるが、これも全く混淆してしまって、同じく私の寡聞では、仔細に判別することが出来ぬのである。換言すれば、熊野系は珠数を用いるとか、白山系は梓弓をたたくとかいう分類が出来ぬのである。


例えば「丹後宮津府志」巻中に、同国与謝郡宮津町字中ノ町の鉾立山大乗寺の中興開山僧寛印が、下向の途すがら丹波の桂川にて一女に逢い、破戒して之を伴い、同町字波路町に居住するうち、一女を儲けた。後に寛印これを悔い<ruby><rb>枳椇</rb><rp>(</rp><rt>ケンホナシ</rt><rp>)</rp></ruby>の病気に利くと謀りて、婦人を黒崎山に赴かしめ、その身は死せりと偽り、<ruby><rb>鱇魚</rb><rp>(</rp><rt>コノシロ</rt><rp>)</rp></ruby>を焚き、火葬の態をした。婦女帰り来て、此の事を聞き悲しみて、海中に投じて死んで了った。残った娘は、成長して後に巫女となったが、これが我国の梓巫女の始めである。その子孫代々波路町に在りて、巫女を業としていたが、近世に至り、同所は断絶し、但馬国に末孫が残っているそうだ。波路町に<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>屋敷、神子川などの地名が今に在るのは、此の由縁である云々。僧寛印が丹後に赴いたことは「元享釈書」にも載せてあり、その年代は、凡そ一条朝の寛弘八年頃と考えられるが、これの娘が我国の梓巫女の権輿者などとは信じられぬし、更に鱇魚を焚いて、火葬の態をすることは、下野国の室ノ八嶋の故事を附会したものと思われるので、従って、此の記事の学問上の価値は、頗る割引されるのであるが、強いて云えば、何か僧寛印から呪法を学んだ巫女のあったことを意味したもので、所謂、一派をなした巫女があったのではないかと考えられぬでもないが確証なきが如く、概念的には巫女の異流別派を認めるものの、さて具体的には、克明に詮索することが出来ぬのである。これは雑糅されてから余り多くの年代を経たのと、元々、公札の裏の営業であったために、長い間の秘密が、斯うした結果を将来したものと見るより外に致し方がないのである。
例えば「丹後宮津府志」巻中に、同国与謝郡宮津町字中ノ町の鉾立山大乗寺の中興開山僧寛印が、下向の途すがら丹波の桂川にて一女に逢い、破戒して之を伴い、同町字波路町に居住するうち、一女を儲けた。後に寛印これを悔い<ruby><rb>枳椇</rb><rp>(</rp><rt>ケンホナシ</rt><rp>)</rp></ruby>の病気に利くと謀りて、婦人を黒崎山に赴かしめ、その身は死せりと偽り、<ruby><rb>鱇魚</rb><rp>(</rp><rt>コノシロ</rt><rp>)</rp></ruby>を焚き、火葬の態をした。婦女帰り来て、此の事を聞き悲しみて、海中に投じて死んで了った。残った娘は、成長して後に巫女となったが、これが我国の梓巫女の始めである。その子孫代々波路町に在りて、巫女を業としていたが、近世に至り、同所は断絶し、但馬国に末孫が残っているそうだ。波路町に<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>屋敷、神子川などの地名が今に在るのは、此の由縁である云々。僧寛印が丹後に赴いたことは「元享釈書」にも載せてあり、その年代は、凡そ一条朝の寛弘八年頃と考えられるが、これの娘が我国の梓巫女の権輿者などとは信じられぬし、更に鱇魚を焚いて、火葬の態をすることは、下野国の室ノ八嶋の故事を附会したものと思われるので、従って、此の記事の学問上の価値は、頗る割引されるのであるが、強いて云えば、何か僧寛印から呪法を学んだ巫女のあったことを意味したもので、所謂、一派をなした巫女があったのではないかと考えられぬでもないが確証なきが如く、概念的には巫女の異流別派を認めるものの、さて具体的には、克明に詮索することが出来ぬのである。これは雑糅されてから余り多くの年代を経たのと、元々、公札の裏の営業であったために、長い間の秘密が、斯うした結果を将来したものと見るより外に致し方がないのである。
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:                  千代女房へ
:                  千代女房へ


戦国の英雄は、概して迷信が強く、信玄の好敵手であった上杉謙信の如きも、篤く飯綱の邪法に陥り、それが為めに生涯、女色を遠ざけたとまで伝えられている〔二〕。信玄も又その一人であって、常に巫覡の言を信じ、或は利用したものと見え、此の外にも信州戸隠神社の巫女に祈願を命じた文書が残っている〔三〕。而して此の免許状を受けた千代なる巫女は、信州の名族滋野氏の末裔で、此の女が後に小県郡禰津村に土着し、日本一の<ruby><rb>巫女村</rb><rp>(</rp><rt>ミコムラ</rt><rp>)</rp></ruby>を造るようになったのであるが、それに就いては、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後段]]に詳述する考えである。
戦国の英雄は、概して迷信が強く、信玄の好敵手であった上杉謙信の如きも、篤く飯縄の邪法に陥り、それが為めに生涯、女色を遠ざけたとまで伝えられている〔二〕。信玄も又その一人であって、常に巫覡の言を信じ、或は利用したものと見え、此の外にも信州戸隠神社の巫女に祈願を命じた文書が残っている〔三〕。而して此の免許状を受けた千代なる巫女は、信州の名族滋野氏の末裔で、此の女が後に小県郡禰津村に土着し、日本一の<ruby><rb>巫女村</rb><rp>(</rp><rt>ミコムラ</rt><rp>)</rp></ruby>を造るようになったのであるが、それに就いては、[[日本巫女史/第三篇/第二章/第三節|後段]]に詳述する考えである。


江戸幕府は伝統政策として、特殊の職業に対しては、出来るだけ自治を許し、所謂、治めざるを以て治むる方針を執ったのである。盲人に当道派と称する団体を認めて、殺人、放火、姦通の三罪以外には、団体の名を以て刑の執行まで許し〔四〕、修験道にあっては、更に石子詰の極刑まで黙認したと伝えられている〔五〕。従って巫女の如きは「帳外者」として、一切の納税を免除すると同時に、古くはエタ頭弾左衛門の配下とし〔六〕、後には「遊民」として之を取扱った。「続地方落穂集」巻二の「人別四段認様之事」と題せる記事中に、遊民として『陰陽<u>いち</u>御子の類、釜祓、瞽女、虚無僧、鉦打、行人』等を挙げているのが、それである。既に帳外者であり、遊民である以上は、巫女の社会的地位は極めて低級なるものであって、全く普通民とは伍することの出来ぬ境涯に置かれ、院内、算所、願人などと同視されていたのである。されば殆んど全国に亘って巫女を賤め、甲斐のシラカミ筋、中国のミコ筋を始めとして、普通人はこれと通婚する事さえ絶対に拒否したものである。「徳川禁令考」巻四十「神社神職之者評定所着席之例」に『神子女に候得者、下椽』と定め、更に但書にて『巫女と認候ても<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>と読申候』としたのは、即ち神社に附属する神子であって、巫女は神子の名によって、漸く此の資格を得るという有様であった。それであるから、江戸期には神社附属の神子と、町村土着の市子との権限、及び作法を厳重に区別し、前者は悉く吉田家の管下となし、後者は関八州にあっては田村家の配下となし、その他は、国々の触頭ともいうべき者に、支配させたのである。「聞伝叢書」巻四(日本経済大典本)に載せた左の裁許状は、前者の作法を明記したものである。
江戸幕府は伝統政策として、特殊の職業に対しては、出来るだけ自治を許し、所謂、治めざるを以て治むる方針を執ったのである。盲人に当道派と称する団体を認めて、殺人、放火、姦通の三罪以外には、団体の名を以て刑の執行まで許し〔四〕、修験道にあっては、更に石子詰の極刑まで黙認したと伝えられている〔五〕。従って巫女の如きは「帳外者」として、一切の納税を免除すると同時に、古くはエタ頭弾左衛門の配下とし〔六〕、後には「遊民」として之を取扱った。「続地方落穂集」巻二の「人別四段認様之事」と題せる記事中に、遊民として『陰陽<u>いち</u>御子の類、釜祓、瞽女、虚無僧、鉦打、行人』等を挙げているのが、それである。既に帳外者であり、遊民である以上は、巫女の社会的地位は極めて低級なるものであって、全く普通民とは伍することの出来ぬ境涯に置かれ、院内、算所、願人などと同視されていたのである。されば殆んど全国に亘って巫女を賤め、甲斐のシラカミ筋、中国のミコ筋を始めとして、普通人はこれと通婚する事さえ絶対に拒否したものである。「徳川禁令考」巻四十「神社神職之者評定所着席之例」に『神子女に候得者、下椽』と定め、更に但書にて『巫女と認候ても<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>と読申候』としたのは、即ち神社に附属する神子であって、巫女は神子の名によって、漸く此の資格を得るという有様であった。それであるから、江戸期には神社附属の神子と、町村土着の市子との権限、及び作法を厳重に区別し、前者は悉く吉田家の管下となし、後者は関八州にあっては田村家の配下となし、その他は、国々の触頭ともいうべき者に、支配させたのである。「聞伝叢書」巻四(日本経済大典本)に載せた左の裁許状は、前者の作法を明記したものである。
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