「日本巫女史/第三篇/第一章/第二節」を編集中
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そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『<ruby><rb>一二三四</rb><rp>(</rp><rt>ヒフミヨ</rt><rp>)</rp></ruby>南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである(以上「都新聞」記事摘要)。 | そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『<ruby><rb>一二三四</rb><rp>(</rp><rt>ヒフミヨ</rt><rp>)</rp></ruby>南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである(以上「都新聞」記事摘要)。 | ||
呪文の正体(これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて)は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方でえ行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『<ruby><rb>月山羽山</rb><rp>(</rp><rt>ツキヤマハヤマ</rt><rp>)</rp></ruby>、羽黒の大権現、並びに<ruby><rb>稲荷</rb><rp>(</rp><rt>トウカ</rt><rp>)</rp></ruby>の大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して<ruby><rb>怒鳴</rb><rp>(</rp><rt>どな</rt><rp>)</rp></ruby>りさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。[[日本巫女史/第三篇/第二章/第一節|後]]に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。 | |||
'''四 巫女の修行法と田村家の収入''' | '''四 巫女の修行法と田村家の収入''' | ||
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八太夫の記事の一節に | 八太夫の記事の一節に | ||
: <u>いち</u> | : <u>いち</u>子は七つから十五歳まで、諸方ほ神社へ八丁<ruby><rb>舞籠</rb><rp>(</rp><rt>マイコモリ</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>神楽巫女</rb><rp>(</rp><rt>カグラミコ</rt><rp>)</rp></ruby>に差出し(中山曰。これは、神楽<u>みこ</u>と、口寄<u>みこ</u>とを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする)、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領(中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう)とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々の<ruby><rb>訛</rb><rp>(</rp><rt>なま</rt><rp>)</rp></ruby>りを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々(以上「都新聞」記事摘要)。 | ||
とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占(珠数占の事)、六首六張、<ruby><rb>神差帰上</rb><rp>(</rp><rt>ミサキアゲ</rt><rp>)</rp></ruby>(死霊を祀る事)、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、 | とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占(珠数占の事)、六首六張、<ruby><rb>神差帰上</rb><rp>(</rp><rt>ミサキアゲ</rt><rp>)</rp></ruby>(死霊を祀る事)、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、 | ||
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更に常子さんの語る所によると、 | 更に常子さんの語る所によると、 | ||
: | : 亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつでったと記憶しています。 | ||
との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。 | との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。 | ||
''' | '''五 明治石院と田村家の退転''' | ||
明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。 | 明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。 | ||
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此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏(常子さんの良人)の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。 | 此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏(常子さんの良人)の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。 | ||
記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勧右衛門(元の神事舞太夫頭)が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。 | |||
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