「日本巫女史/第三篇/第一章/第二節」を編集中
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これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子(最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族)は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶<u>がわ</u>で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶<u>がわ</u>の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。 | これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子(最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族)は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶<u>がわ</u>で家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶<u>がわ</u>の中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。 | ||
更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賎業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、 | |||
: 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。 | : 江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。 |