日本巫女史/第三篇/第一章/第二節

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日本巫女史

第三篇 退化呪法時代

第一章 巫道を退化させた当代の世相

第二節 関東の市子頭田村家の消長

江戸期のうち約二百年の長きを通じて、関東八ヶ国と、甲信二ヶ国、及び奥州の一部へかけての市子は、江戸浅草田原町一丁目に住した田村八太夫(代々此の名を通称としたが、家の伝えによると、関八州の支配をしたので八太夫と称したとある)なる者が、代々市子頭として、一切の取締りをして、明治期に至ったのである。従って、田村家の詳細を知ることは、一面江戸期における神子の生活に触れ、一面八太夫配下の市子の呪術の他と異るところを考えさせるものがあるので、茲に私が親しく田村氏の遺族を訪ねて、見聞せるものと、諸書に散見せる記事とを参酌して、出来るだけ委曲を尽したいと思っている。江戸期における或る種の意味の名家であった田村氏も、明治期の大勢に打ち敗られて退転し、遺族も僅に女子一人を残しただけで、他は悉く死に断えてしまったので、今にその事跡を伝えなければ、遂に煙滅に帰してしまうと考えたからである。

一 田村家の由来と舞太夫

田村家の家系は、何でも彼でも無理勿体をつけたがる江戸期の影響を受けていて、かなり粉飾されていると同時に誇張の限りを尽したものである。明治二年に東京府へ書上げたと称する書類の手控に由ると、同家は本国は参河、佐々木源氏の支流で、一時兵乱を避けて、相模国田村郷に住んだので、田村を姓とすることになったが、初代田村直親が、天正十八年小田原征伐のとき、徳川氏に仕えて戦功があったので、釆地二百石を賜り、後に慶長五年関ヶ原の戦役に、又々殊勲あって、三百石を加増され、代々旗下の士として、江戸幕府に仕えて来た。然るに、四代田村道則のときに至り、正徳三年正月、関八州及び甲信奥の十一ヶ国の、神事舞太夫の支配を願い出たところ、

権現様(中山曰。家康)御由緒を以て、職号を習合神道関東一派武官神職と相唱改、国々職掌之者法例取極渡度旨、安藤右京亮殿を以て御許容(中略)、是迄頂戴の高差上、惣支配下より役料と唱壱人別鐚六百孔宛取立度旨相願候処、同十二月中御聞済(中略)、代々各例を以支配一手に御任被遊、御用書物役所と唱、京都に差図を不受、進退共仕候事云々。

と先ずその由来を記し、更に、

天文年中十一ヶ国御免勧化永代御容ノ義、松平左近将監殿奉願候処、御聞済に相成御代々様無滞被下置候事。

と記載してある。而して更に、同家に伝えた別紙の系譜に由ると、田村氏は饒速日命より四十三代(一々神名と人名とが書いてあるが省略する)を経て、印葉太郎物部政雄より分れ、幸松物部直親より四代を経て、前記の初代田村直親になったと記してある。

是等の家系や、由来が、到底、信用すべき限りでない事は、記事そのものが、有力に証示している。私はこれに関する管見を述べる前に、更に十三代目田村甲子太郎氏(即ち最後の田村八太夫)が、大正七年四月二十六日より同年翌月三日まで、前後七回に亘って「都新聞」に連載した記事中から、家系に関する主なる点を抄出して、両者の間に如何程の相違があり、従って同家に伝えた由緒書なるものが、如何にするも無条件では受け容れられぬことを明示したいと思う。即ち、

大阪落城の折に、徳川家康を助けた桶屋の親爺が江戸へ下り、浅草田原町に住し幸松勘太夫と称し、関八州の巫女の取締りとなった。吉田家(陰陽師の家)、土御門、白河、幸松の四家だけで通婚して、他家とは縁組しなかった。関八州の取締となったので八太夫と通称を言うようになり、後に浅草三社権現の祠官となったのである。
田村常子氏

これによれば、最後の八太夫は、流石に家系の奈何がわしいことに気附いていたと見え、饒速日命も、関ヶ原の戦功も語らなかったものと思われる。然るに、現存の田村常子(最後の八太夫の長女で、併も田村氏の血を承けし唯一人の遺族)は、家系と亡父の記事との矛盾を救うために『桶屋の親爺ではなくして、掘井戸用の桶がわで家康を助けたのである』と言っているが、これは要するに、堅白同異の弁であって、家康は桶屋の親爺には勿論のこと、桶がわの中に隠れて助かったことなどは、正史には曾て無いことであるから、何れにするも問題にはならぬのである。

更に田村家が代々五百石の食禄を領し、旗本として何不足なき身でありながら、四代目になって、突如として食禄を返還し、当時の社会感情から言えば、賤業卑職とまで思われていた神事舞太夫や市子頭——よし、それが触頭であったにせよ、取締であったにせよ、好んで人生の逆境に処したとは、如何にするも常識では考えられぬことである。これは何か他に事情が存していたか、それでなければ、家康の由緒書が全く偽造であるか、その二つのうちの一つでなければならぬ。喜多村信節翁は、何によって考えたものか、その著「嬉遊笑覧」巻六において、

江戸神田明神は、昔より神事能としてこれ有しとぞ。北条以後暮松太夫上方より下り、江戸に住んで此の神事能をつとめしが、其者没して宝生太夫これをつとむ。暮松が子孫は大神楽打の頭となれりとなむ。思ふに田村八太夫は暮松の子孫なる歟。

と記している。而して私の愚案を簡単に云うと、田村氏の祖先は、三河院内の作太夫の徒であったのが、家康が江戸に幕府を開いたので、その縁故を言い立てて、神事舞太夫の取締となり、後にずるずるべったりに、巫女の取締まで兼ねるようになったのであると考えている。全体、江戸期における舞々は、帳外者の職業であって、その取締は、例の弾左衛門がして来たものである。その舞々に、少し毛が生えた位の舞太夫を、好んで勤めるほどの八太夫、饒速日命は愚かのこと、作太夫と同じ畑の者と見るのが至当のようである。殊に家系にも幸松の姓が見え、八太夫の記事にも幸松とあるのから推すと、作太夫の徒が幸松の業を学び、江戸に居ついたものと考えても、差支ないようである。

二 習合神道と舞太夫の関係

文化年中に、江戸幕府で、諸国の地誌の編纂を企て、これが資料を覓めて、一二の地誌の脱稿を見るに至ったが、その中に、文化十三年に江戸市内から書上げさせたもので「御府内備考」と云うのがある。此の巻十六浅草田原町の条に、田村家に関する詳細なる書上が載っているので、少しく長文に亘る嫌いもあるが、左に転載して、これに私見の蛇足を添えるとする。

     習合神道神事舞太夫頭田村沢之助
       沢之助幼年に付後見友山求馬書上左之通
一、習合神道神事舞太夫家道之儀は、往古より相立、頼朝公御治世始て支配頭相立、乍恐、御当家に至ては、御入国之砌参州より御供仕、習合神道神事舞太夫頭被仰付、京都神家之不請差図、御公儀御威光を以一派相極め被下置、支配下の神主宮持並社役之者には、頼朝公並北条家之御墨附致所持候もの、又は御府内御免勧化被仰付候者有之候、且支配下へ風折烏帽子装束之許状差出申候。尤右免許之儀者私代替家督被仰付候段、御奉行所於御内寄合に先格之通被仰渡候、且呼名国名等も差免し候事。
一、習合神道一派に三像札御許容有之候。
一、竃神青襖札、古来より年々正・五・九月御府内御免、配札名代のもの巡行為致候事。
一、御免絵馬札配札之儀者、文化十三年子年十一月中、阿部備中守様え友山求馬奉願、同十二月十八日、松平右近将監様於御内寄合に願之通被仰渡、年々正月配札名代のもの御府内致巡行候。且在々えは配下のもの致配札候事。
一、当四月(中山曰。文化十三年)二十五日吹上へ被召出候一件は、吉田殿関東執役宮川弾正より、下総国葛飾郡栗沢村茂侶神社神主友野相模え吉田家配下見廻り役申付候故、同人儀田村沢之助支配下、下総国印旛郡米本村神事舞太夫小林丹波へ呼状相付、装束へ差障候に付、其段友山求馬並本庄内記、鈴木豊後より友野相模相手取奉出訴候処、段々御吟味之上今般熟談、御吟味下げ奉願候は、友野相模儀習合神道之儀者京都神家之不請指図、御公儀御威光を以一派御極め被下置候を不相弁、呼状相付職道へ差障候は重々心得違に付、訴訟方へ相詫、且宮川弾正儀も向後手入ヶ間敷儀致間敷筈にて、規定致し候事。
一、吉田家、白川家配下神主社人どもに許状無之ものは、御奉行所、御評席且御評定所へ被召出候節は、牢人台之御取扱に候得共、私支配下老若男女共に武家に属し致故、御評定所にては上訴訟へ被召出、御評席にては上椽通之御取扱に御座候事(中山曰。以下、浅草三社権現祭礼、天下乞の神楽、観音市、稲荷社の四項を省略す)。
     神事舞太夫由緒
一、神事舞太夫家道之儀は、習合神道にて往古より武家に属、乍恐御公儀様御威光を以、神事舞太夫職は一派御極被下置、職札、法例、烏帽子装束之許状御許容被成下、他之神職相構候義無之、一派之職道相立来候、且又私支配之儀は関八ヶ国並信州甲州、会津表迄散在仕、配下之輩には神主に宮持、社役人之品有之、各社例を以神事祭礼相勧来は、宮々は御朱印地之配当を請、又は御料、私領之内御除地所持仕候者共数多有之、其外総支配下神事舞太夫の義は、宮持社役人未流にて、総応の且中相分習合神道を以家職勧来候。
一、関東に支配頭相勤罷在候起りは、頼朝公御治世鶴若孫藤治と申者、頭役相勤申候御墨附頂戴仕、其子孫今に相州平塚宿に罷在、御除地所持仕、鶴岡八幡宮の社役相勤罷在候、将亦小田原北条家時分天十郎と申もの、関東八ヶ国の頭役相勤御墨附頂戴仕(中山曰。此の事は「新編相模風土記稿」にも載せてある)其子孫今以相州小田原に御除地所持仕罷在候、右両人の子孫私支配下の神職にて、今以相続仕罷在候、此砌より武家に属、一派之神職相立来候。
     神事舞太夫由来
一、私支配下之儀は諸国散在仕神主、社役人之品有之、代々社例を以神事祭礼神楽相勤、御除地之宮社所持仕罷在候、且亦社役人之内には天台真言或は社家本山修験之宮社にて、従古来由緒筋目を以御朱印配当、又は御除地所持仕候もの共数多御座候(中山曰。以下、水戸東照宮、水戸砂金山、浅草三社権現、千葉妙見社、武蔵六所明神、相州高麗大権現の六祭礼の神事舞太夫の記事を省略す)。
一、神事舞太夫帯刀之儀は、宮持社役人平配下之者一統従古来致来申候。去る明和三年戌二月二十四日、土岐美濃守様帯刀之儀御尋御座候に付、古来より支配一統仕来候段、親父八太夫時代書付差上申候。且又席之儀は支配下之者一同願、訴訟御座候節は先々御下通へ罷出申候。此段相違無御座候以上。

此の書上は、同じような事を幾度となく繰返して記しているが、結局は種の無い手品を遣う様なもので、取りとめたものは、一つも無いと云えるのである。元々、舞太夫の由緒に過ぎぬ問題を兎や角と詮議立てするのも大人気ない話ではあるが、「家道は往古遠久」の一点張りで逃げ道を開け、頼朝の墨附があるなどと云うかと思えば、それは田村家ではなくして鶴若家だとは、かなり人を喰った言い分と云わなければならぬ。併し、そんな事は巫女史の上からは、どうでも宜い問題であるから、深く洗い立てせぬとするが、此の書上に附いて見るも、田村氏が市子の取締をしたということは、一言半句も説明していぬ。これは如何なる事情であろうか、私としては此の詮議こそ出来るだけ充分に尽さなければならぬ問題である。以下これに就いての管見を述べるとする。

三 田村家の巫女取締とその呪法

八太夫が関八州の梓巫女ミコの取締となったのは、果して何年頃に如何なる理由に基くのか、少しも判然して居らぬ。前掲の書上にも、神事舞太夫の事は管々しいと思うほど書き列ねてあるが、市子に関しては、遂に一言半句も触れていない。若し、各地の舞太夫の妻女は概して市子であったから、夫の舞太夫を取締るという事は、直ちに妻の巫女を取締ることを意味しているのであると云えば、此の問題も容易に解決する訳ではあるが、それでは舞太夫以外の修験者の妻女である市子や、更に人妻で無い市子(此の数は決して少くなく、恐らく、修験者関係の市子と独身者の巫女の合計は、舞太夫関係の実数よりは、迥かに多かったと思われる)を如何にしたかと云う問題が残されるのである。併し、此の事の真相は、寡見に入っただけの資料では、遂に判然せぬ問題ではあるけれども、兎に角に、田村氏が江戸期の中葉から関八州の市子の取緒をして来たことだけは、否定されぬ事実である。前に引用した「聞伝叢書」巻四に左の如き文書が載せてある。

     神事舞太夫並梓巫女之事
       神事舞太夫次第書
一、神事舞太夫家法之儀は、往古遠久之職道にて国々散在致し、何れも習合之神道之則法を以、且中之諸祈祷相勤来申候、然に社法之儀者天台真言社家、並本山修験等之宮々に順往古より社礼を相勤申候、依之其社々之衣之装束風折烏帽子着用致し相勤申候、且又梓巫女権与之儀者、往古遠久呪歌之伝授にて、梓神子一家之法式にて他家に不伝、習合神道之行法を以諸祈祷等相勤申候、有増加斯御座候事、諸国配下の者共の儀は、乍恐仕候まで十三度に及申候、依之国々に於て社礼之儀、天下泰平御武運御長久御祭礼相勤来申候事。
一、元禄十五年閏八月二十七日西宮神職と争論之節、阿部飛騨守様、永井伊賀守様、本多弾正少弼様御裁許之上にて猶以相極申候、各社役之儀、ママは正徳元年卯正月十八日本多弾正少弼様、森川出羽守様、安藤右京進様御裁許の上にて、梓神子法例文章御吟味之上御極被下置候事。
右は今般家法之儀御尋に付、支配頭田村八太夫之儀御座候得者、難尽筆紙之儀は、猶又御尋も御座候はば、乍恐以口上逐一言上可申上候、以上
        江戸浅草三社権現神主
        田村八太夫支配国役人
宝暦六年子三月            信州北条郡長窪新町 飯嶋与太夫(印)
     梓神子法例
諸国之散在神子如伝来相勤、諸神勧請ママ家法之梓致執行、勿論神差帰上之法式、並荒神鎮座之祓及び幣帛等、以習合神道而壇中之諸祈祷可相勤之者也、若於国々粉敷梓神子於致徘徊者、以此判而相改、堅可停止事。
右書附之趣厳密可相守之矣、若以新法他職而乱家法者於有之者、急度可為越度者也
正徳巳亥暦正月十八日             神事舞太夫 田村八太夫(印)
                             飯嶋 兵庫(印)
                         国役人 丸山 式部(印)

之に由れば、田村家が正徳年中には、既に巫女の取締をやっていた事は明白であるし、更に「高崎誌」巻下に、

下横町に神事舞太夫という者三四人あり(中略)、彼等が妻は多く梓巫なり(中略)、彼等は江戸浅草神事舞太夫田村八太夫と云う者より、職法書を受て三社権現を祭る由云々。

と記してある。猶お少々煩雑に過ぎるようではあるが、前掲の信州長窪町の神事舞太夫である飯嶋与太夫が、妻、妹、娵の三梓巫女のために差出した関所通行の文書があるので、参考までに抄録した。これに由ると、舞太夫の家庭に在る女性は、悉く巫女を営んだようにも思われ、且つその名称などに就いても、多少の資料となると信じたので、鶏助の譏りを知りつつ、敢て此の挙に出た次第である。

     上野国甘楽郡磯沢村御関所梓神子人別帳
信州小県郡長久保宿 飯嶋与太夫(印)
   妻梓神子 注連翁
   妹梓神子 宮 高
   娵梓神子 朝 日
右之通人別帳差上候処、少も相違無御座候、如例年御関所御通被遊可被下候、右神子之内紛敷者壱人も無御座候、若粉敷ものと申もの有之候はば、私共何方迄も罷出急度申訳可仕候、為後日仍如件
  年号月日
         梓神子組頭 飯嶋与太夫
右は長久保宿神事舞太夫蛭子方梓神子有之、宗門帳も別帳に差出候、然る所諸国散在梓神子共、御関所御手判なしに通候抔と所々にて申候由に付、右宿名主前右衛門を無急度内糺し候処、右之通前右衛門を以書付坂本役所へ差出候也(前掲の「聞伝叢書」巻四に拠る)。

斯うした資料がある上に、「甲子夜話」巻七十七にも、「田村氏関東の梓巫女を支配す」と裏書をしているし、且つ代々の八太夫の妻や、娘が、市子を業としていた事から考えても疑いはない。

それでは田村家に伝わった呪術の方法は、如何なるものであったかと云うに、先ずみ歌(この歌詞は教えると飯の種がなくなるとて常子さんも教えてくれなかった)三十六首を基調とし、神占を依頼する人が神前へ入るまでに一首、入って坐った時に一首と云った風に声低く唱え(ここでは単なる和歌ではなくして呪文としてであることは言うまでもない)て往って、呪術を行う市子の膝の前には六張の弓(これを六首六張と云うている)を並べ、菅の葉でこれを掻き鳴らしながら残りの歌を詠むのを、神懸りの作法としていた。そして六張の弓とは、梓の弓、雌竹、雄竹の弓、桑の弓、南天の弓などで、弦は女の髪の毛を麻にまぜて撚り合せたものである。此の弓の故事は、神功皇后が征韓の折に神占をなされたが、弓が無かったので、手頃の木を切って弓となし、弦には畏くも御自身の髪の毛を用いたものだと伝えている(以上「都新聞」記事摘要)。併し、私に言わせると、是等の呪法は、別段に八太夫独特のものではなく、九州の巫女が、十三仏や西国三十三番の詠歌を唱えて(此の事は後段に詳述する)神懸りするのと、全く同じものである上に、更に弓の故事などに至っては、無理勿体をつけて、俗人を嚇すほどのさかしらにしか過ぎぬ。神后の征韓といえば、戦いに赴かれる陣中であるのに、武器である弓が無いとは辻褄の合わぬ話である。

八太夫の血筋を伝えている唯一人の田村常子さんは、本年三十五歳の女盛りのお方であるが、呪術は実母の故菊子刀自(相模国愛甲郡生れ)から学び、更に菊子刀自は、祖父(十二代目の八太夫)に教えられたもので、常子さんは十九歳の娘の時から是れに従事したそうである。私が第一回に訪ねた際には、家に伝えた呪術用の外法箱ゲホウバコ(高さ一尺ほど横八寸ほど幅五寸ほど、外は黒漆塗り内は朱塗り、印籠蓋になっていて、蓋をとると中に深さ一寸位のかけ盒があって、常には玉珠数を入れて置いたという)や、玉珠数(これに就いては後に述べる)その他の秘伝書まで見せてくれ、種々親切に話してくれたが、その折に外法箱に関して語られるには、

この箱はずっと以前には用いたそうですが、母の代からは遣わぬことになっていました。外の梓巫女は、此の箱の中へ犬の頭だとか、又は木偶だとかを入れると聞きましたが、私の家では是等の物は一切用いず、ただ十八柱の神の名(この神名を尋ねたが、常子さんには明確に答えられず、多分、天神七代に地神五代を併せ、その他に六柱を加えたものでしょうとの事であったが、それでは後に載せる常子さんの亡父八太夫の話とは少しく異る点がある)を紙に書いて入れたに過ぎません。

と殆んど弁明的の態度で語られたが、紙に記した神名を納めるには、如何にも箱が深かすぎるので、或は古くは他流の市子と同じく、何か異物を納めたのではあるまいか。

猶お「都新聞」の記事によると、八太夫も後になると、

古風の通り遣っていたのでは、頼む方が笑って相手にせぬので、切り離した珠数(常子さんの話に、此の珠数の珠は我国の数を象って六十六とし、外に親玉として天地を象り二つを加えてある。そして神占のときには、その珠を九々で払って往って、残った数でやるのだという。私は全く周易を真似たようなものだと考えた)一本と、錦襴の布に包んだ女神六柱と、男神六柱の神名を書いたもので、伺いを立てた。

と語っている。そして此の珠数を用いる事を、俗に「珠数占ジュズウラ」と称している。又た同家に伝えた呪術に「九気キュウキ」の法とて、一気天上ノ水、二気虚空ノ火、三気造作ノ木、四気剣鉄ノ金、五気欲界ノ土、六気江河ノ水、七気国土ノ火、八気森林ノ火、九気山中ノ金というがあり、更に「神降カミオロし」の呪文は、神を祭るとき、仏を呼ぶとき、生霊を招ぐとき、病気を治すとき、神占のときなど、事毎に別のものがあるとて、これは教えることを好まぬようであったので、私も深く尋ねることを差控えるとした。併し強いて言えば、九気の法と称するものは、現に一部の迷信者の間に行われている九星と称するものと、さして変っているとも思われぬし、且つ数珠占も、他の市子(大正六年、東京市外亀井戸町の天満宮の裏門の所に市子がいるので、学友ネフスキー氏と携え訪ねた時にも、此の数珠占のことを聴かされた)も用いるので、神降しの呪文も又そうしたものではないかと考えられる。

そして私に斯う考えさせたに就いて一つの旁証がある。余りに非学術的の事ではあるが、巫女が呪文と称して、此の上もなく神秘のものとする正体も、詮索して見ると、想ったよりは価値の無いものだということを説明しているので、筆序に附記するとした。それは、明治初年に、八太夫の弟子巫女で、横浜の福徳稲荷の宮守りをしていたお寅婆というのがあった。占術神の如しというので流行ッ子となり、毎日幾十人となく依頼者があるので、小金を蓄えるようになったが、同家の飯炊き婆が之を見たり聞いたりして羨しがり、別に一戸を構えて巫女の業を始めると、之も不思議と俗信を集め繁昌した。八太夫が或る日、その飯炊き婆の所へ往って見ると、一生懸命に神降しをしていたが、その唱える呪文が『一二三四ヒフミヨ南無阿弥陀仏』を繰り返している。八太夫はその出鱈目に驚いたものの、依頼客の前でそれは間違っているとも云えぬので、客が帰ってから呪文は『一二三四五六七八九十百千万』と唱えるもので、然もこれは天鈿女命が天の岩戸開きの折に唱えた、尊いものであると教えて戻って来ると、十日ほどしてその飯炊き婆が八太夫の許へ来て、正しい呪文より、口なれた呪文の方が、よく神占が当るとて、又元の一二三四南無阿弥陀仏を用いたということである(以上「都新聞」記事摘要)。

呪文の正体(これは後段に幾つかの変ったものを挙げるが、これを押しくるめて)は、蓋しその悉くが、斯かる他愛もないものである。私の郷里である南下野地方でえ行われた寄り祈祷などでも、御幣を持った仲座に神をつける時に用いた呪文は『月山羽山ツキヤマハヤマ、羽黒の大権現、並びに稲荷トウカの大明神』というのを、大勢して、然も高声に、妙な節をつけて、やや急速に唱えるだけであった。私はその時分から、これは大勢が寄ってたかって、異口同音に大声を出して怒鳴どなりさえすれば、仲座は催眠状態に入るのだなと考えていた。に言うが、越後と羽後の国境の三面村に行われた神降しの呪文などは、実に簡単でもあり、且つ意味をなさぬようなものであるのは、私の考えが必ずしも無稽でないことを裏附けていると信じたい。

四 巫女の修行法と田村家の収入

八太夫の記事の一節に

いち子は七つから十五歳まで、諸方ほ神社へ八丁舞籠マイコモリ神楽巫女カグラミコに差出し(中山曰。これは、神楽みこと、口寄みことを混同したように思われるが、今は原文に従うこととする)、十五歳になると身体が汚れるので、早速結婚させ、古くから此の掟を守って来た。市子の修業は、宰領(中山曰。前掲の飯嶋与太夫の文書に「国役人」とあるのと同意であろう)とて、市子二十人位に一人づつ取締を置き、地方では宰領の許に収容して、これが一切の教えをしたものである。若い市子連を、国々へ出張修行させたのは、これは国々のなまりを覚えさせるためで、訛りを知らぬと、口寄せの文句が、誠らしく聞えぬからである云々(以上「都新聞」記事摘要)。

とある。而して常子さんが、私に示してくれた書類によると、此の修行は、九気、玉占(珠数占の事)、六首六張、神差帰上ミサキアゲ(死霊を祀る事)、八方責、神占等の二十六種に分れていたが、果して之だけ教えたものか否か、実際は判然しなかった。而して、常子さんの語る所によると、

自分は修行の方法として、方々の神社仏閣へ毎日のように参詣に遣られたものです。催眠状態に入るには相当の修練を要しますが、馴れて来ると、直ぐに此の状態になることが出来ます。巫女と神様との関係は、親子夫婦よりは親密なもので、覚醒しているときでも、更に常住坐臥ともに、絶えず神様がついているように気持が致します。本来なれば、巫女は亭主は持てぬこと(中山曰。常子さんは岡田光太郎という良人を有し、三人の子供を儲けている上に、私が第二回目に訪ねたときには臨月に近い大きなお腹をしていた)になっていました。そして身体の不浄なときには、神様に近寄らぬようにしますが、永年この神懸りをしていますと、女子でありながら段々男子のようになって(即ち性格変換である)来ます云々。

とのことであった。

更に常子さんの語る所によると、

亡父の話に、徳川時代には、関八州の市子達が、免許状を貰いに来るので、殆んど毎日のように、その人物や修行を試験するので、多忙を極めたそうです。そして是等の市子から、何程の役料を収めたものか知りませんが、明治になってからは、壱年一円二十銭づつでったと記憶しています。

との事であった。併しながら、江戸期における田村家の収入は莫大なもので、免許状の授与料や、年々の役料も相当の金額に達したであろうし、更に此の外に、表芸の神事舞太夫関係の収入や、青襖像の御影の収入もあり、かなり豪奢な生活であったらしい。殊に十一代目の八太夫は中々の遣り手で、妾なども蓄えていたが、重要なる書類や、什具などは、悉く妾に持ち去られたとのことである。

五 明治石院と田村家の退転

明治元年十一月四日に、田村八太夫は東京府へ召出され、『是迄の通り頭役仰付』との辞令を受け、漸く安堵の胸を撫で下したのも束の間で、翌明治二年七月に、左記の如き——八太夫としては殆んど致命的の布達に接し、古来の特権は悉く奪わるることとなった。

神事舞太夫職ノ儀に付、先般配下職業勤方、以箇条書雛形相伺候件々(中山曰。此の伺書は田村家に残っていぬ)ハ、不正ノ節ニ付一切禁止申付候事
一、神事舞太夫頭之名目差止、向後舞夫頭ト唱可申事
一、神社祭礼之節、神楽相勤候儀、是迄之通不苦候事
一、舞夫支配ノ儀ハ是迄之通、東京ヘ居住之輩而己配下ト可相心得事
一、大国主命之像配り候儀禁止之事
一、幣帛ヲ以テ竃土公ヲ祓候儀禁止之事
一、月待日待祈念之時、幣帛ヲ以執行、符字差出候儀禁止之事
一、梓神子之名目差止、向後梓女ト唱可申事
一、玉占之儀不苦候事
一、青襖札ヲ以竃之向ヘ張、竃ヲ祓候儀禁止之事
一、絵馬札配リ候儀禁止之事
右之条堅可相守、配下之輩モ禁止ノ廉無洩相触、急度為相守可申候、此段相達候事(中山曰。句読点は私の加えたものである)
巳七月           東京府
               社寺局印

この布達に由れば、八太夫は、従来の特権の大部分を失い、僅に、(一)東京に居住する舞太夫だけを配下とすること、(二)神楽舞を勤めること、(三)梓女を支配することだけに局限されてしまったのである。田村家の打撃は言うまでもないが、「巫学談弊」を著して、所謂鈴振り神道なるものを極端にまで嫌厭した、平田篤胤翁の学風が海内を吹巻り、併もその学風が、当時の神祇官の方針となっていた明治維新の変革としては、蓋し止む得ぬ結果と見なければならぬのである。

然るに明治初年の混雑は、神道や仏教方面にも多大の影響を来たし、万事を改革するに急なる余り、かなり非常識の事も行われ、神仏分離を励行しながら、神仏習合の神社を拵えるやら、祭神の入れ変えをするやら、社地の誤認をするやら、今から思うと少からぬ手落ちもあった様である。殊に民間信仰の対象となっていた富士講は扶桑教となり、御嶽講は神習教となり、就中、富士講は一先達であった宍野半という人物が、一躍して扶桑教の管長となり、然も道教の管長は宍野家代々の世襲たるべしという両本願寺を真似て、管長を独占してしまった。而して是等の現状を見せつけられた八太夫は、巫女を中心として一種の教会を建設し、これを支配下に置こうと企て、幸い東京府の布達にも梓女を認め、玉占を許しているので、ここに「神道梓女教」なるものを造り、従来の如く、諸方の巫女を集めて呪法を教え、左の如き免許状を出して収入を計り、独立を期したのである。

九気、玉占、六首六張、神差帰上ミサキアゲ、八方責、招魂式、神占、佐々ササ祓祈祷法
右八ヶ課ヲ修行セシ事ヲ正ニ証ス
明治 年月日
           神道梓女教 田村八太夫 印

此の田村氏の運動が、どの位までに成功したか、それは今からは明確に知ることは出来ぬが、私の推測するところでは、余り成功を見ずに終ったようである。現に八太夫の女婿岡田光太郎氏(常子さんの良人)の談に徴するも、岡田氏が八太夫の供となり、江戸時代から田村氏の配下である東京市内及び近郊の市子の許を歴訪した事があったが、今人この道を棄てて泥土の如き譬えに漏れず、心から八太夫を以前の取締または触頭として迎えてくれた者は極めて少数であって、他の多くの市子は冷淡を越えて、寧ろ厄介者扱いにするという態度であったという点からも、こう推測して大過はないようである。而して斯くてある間に、明治六年教部省令を以て、一切の市子の呪術が禁止されることとなり、これに加うるに、文化の向上は市子を信ぜぬようになったので、八太夫の計画も全く壊滅に帰し、田村家最後の八太夫であった甲子太郎氏も、陋巷に老いを嘆ずるようになり、遂に補助ボーイとまで零落して、頽齢に負いきれぬ生活苦と闘いつつあったが、あの大地震のあった大正十二年十一月七日に六十一歳を以て永眠し、ここに江戸以来の或種の名家であった田村家も、男系尽きて断絶することになったのである。

記述後「祠曹雑識」巻三十六を見ると、寛政七年四月に田村家から寺社奉行に差出した書上があって、その一節に宝永四年十二月に幸松勧右衛門(元の神事舞太夫頭)が不埒のため頭役を召放されたので、翌宝永五年に八太夫が頭役を相続したとあるから、家乗の信用されぬことが明白となった。