「日本巫女史/第三篇/第三章/第二節」を編集中
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: 一、宝永二年酉ノ五月十五日ニ、戎重織田内匠殿より拾弐貫文之神楽御願被成候所ニ、神楽銭之配当ニ付、八乙女方よりとやかく申ニ付、出入(中山曰。訴訟の意)ニ罷成、南都御番所妻木彦右衛門様御奉行之時対決御座候、彦右衛門様被仰候は、壱貫弐百迄は右之通八乙女方へ遣し、夫より以上ハ<ruby><rb>壱銭</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>ニ而社中不残配分致申候様ニ被出仰候而、同極月二十三日相済候、其<ruby><rb>済高</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>宮ニ有之候、但シ此出入は十八年跡之通ニ被仰付候。十八年以前之対決も此度の対決も同事ニ相済申候、尤此儀神主了簡ニ而壱貫弐百文より以上ハ弐つ割ニ致シ半分は惣社中へ配分、半分は八乙女へ配分也(三輪叢書本。以下同じ)。 | : 一、宝永二年酉ノ五月十五日ニ、戎重織田内匠殿より拾弐貫文之神楽御願被成候所ニ、神楽銭之配当ニ付、八乙女方よりとやかく申ニ付、出入(中山曰。訴訟の意)ニ罷成、南都御番所妻木彦右衛門様御奉行之時対決御座候、彦右衛門様被仰候は、壱貫弐百迄は右之通八乙女方へ遣し、夫より以上ハ<ruby><rb>壱銭</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>ニ而社中不残配分致申候様ニ被出仰候而、同極月二十三日相済候、其<ruby><rb>済高</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>宮ニ有之候、但シ此出入は十八年跡之通ニ被仰付候。十八年以前之対決も此度の対決も同事ニ相済申候、尤此儀神主了簡ニ而壱貫弐百文より以上ハ弐つ割ニ致シ半分は惣社中へ配分、半分は八乙女へ配分也(三輪叢書本。以下同じ)。 | ||
これに由れば、大神々社にて奏する神楽料は壱百二百文を定めとし、此の分配方に就いて、神主側と神子側との間に紛議を生じ、遂に奈良奉行の採決を受けることとなり、定めの壱貫二百文までは、全部神子側の収入とし、それ以上の神楽料を得た場合に限り、その過剰の分は折半して、神主と神子とに分配することとなって、落着を告げたのであるが、然も此の記録に徴すれば、宝永二年に先立つ一八年前——即ち元禄元年にも、此の種の訴訟を見たことがあるというから、神楽銭の配当問題は、長い宿題となっていたことが推察されるのである。大神々社は大和の大社であるから、信徒の奉納する神楽も少くなかったことと思われるが、壱貫二百文の料金は、他の物価に比して軽いものであったと共に、これが八乙女(必ずしも八人ではなかった。その人員が六人であったことは、次の記録でも知れる)の収入の総てであったとすれば、決して多いとは云えぬのである。されば此の少き収入を更に神主側に引き去られたのであるから、生活を維持する点から、対決騒ぎをしたのも道理である。更に正徳三年七月十八日付の「御朱印替ノ覚」の一節に、 | |||
: 泉州踞尾村北村六右衛門方より、神酒五升一樽、並<u>かます</u>少々、神楽料銀十二匁被申上候、右之神楽料八乙女方へ渡し申候、又神酒壱升斗八乙女へ遣し申候、是は此方了簡ニ而遣し申候、重而例ニは無之候 | : 泉州踞尾村北村六右衛門方より、神酒五升一樽、並<u>かます</u>少々、神楽料銀十二匁被申上候、右之神楽料八乙女方へ渡し申候、又神酒壱升斗八乙女へ遣し申候、是は此方了簡ニ而遣し申候、重而例ニは無之候 |