日本巫女史/第三篇/第二章/第一節」を編集中

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市子は口寄せの折には、その対象が、死霊と生霊と神口との別なく、必ず依頼者に、茶碗その他の器物に水を盛らせ、それを巫女の膝の前(又は机の上)に置かせて、死霊の場合には、枯葉(又は樒の葉)で左廻わしに三度水を掻かせ、生霊の場合には、青い木葉(種類は何でもよい)で右廻わしに三度掻かせ、神口の場合には、紙撚り(併しこれも流派によって一定せぬが、大体は先ずこうである)で水を三度掻き廻させる。此の水を手向けることは、巫女が呪術を行うに大切なものとされていて、出て来る霊魂が『よくこそ水を手向けてくれた』と云うほど、重い儀軌?になっているのであるが、さて此の理由に就いては定説を聞かぬ。「松屋筆記」巻八七に、
市子は口寄せの折には、その対象が、死霊と生霊と神口との別なく、必ず依頼者に、茶碗その他の器物に水を盛らせ、それを巫女の膝の前(又は机の上)に置かせて、死霊の場合には、枯葉(又は樒の葉)で左廻わしに三度水を掻かせ、生霊の場合には、青い木葉(種類は何でもよい)で右廻わしに三度掻かせ、神口の場合には、紙撚り(併しこれも流派によって一定せぬが、大体は先ずこうである)で水を三度掻き廻させる。此の水を手向けることは、巫女が呪術を行うに大切なものとされていて、出て来る霊魂が『よくこそ水を手向けてくれた』と云うほど、重い儀軌?になっているのであるが、さて此の理由に就いては定説を聞かぬ。「松屋筆記」巻八七に、


: 塩尻(中山曰。天野信景翁の著書)一ノ巻に或人云、凡そ亡者の霊に水を手向るは仏法に効へるなりと、予按に是我国上古の習俗歟、「日本紀」十六に鮪臣が死せし時、影媛哀傷の倭歌を詠じて「<ruby><rb>玉笥</rb><rp>(</rp><rt>タマケ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>飯盛</rb><rp>(</rp><rt>イヒモリ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>玉椀</rb><rp>(</rp><rt>タマモヒ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>水盛</rb><rp>(</rp><rt>ミヅモリ</rt><rp>)</rp></ruby>」などいひ、其葬の時「<ruby><rb>水喰</rb><rp>(</rp><rt>ミヅクヒ</rt><rp>)</rp></ruby>ごもりみな<ruby><rb>酒</rb><rp>(</rp><rt>ソソ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ」の詞あり、これ我国仏教来らざる以前の事也、仏氏といへども餓鬼の他、仏菩薩等に水手向る事なし(中略)「空華談叢」巻一に亡霊薦水六則あり、可考合。
: 塩尻(中山曰。天野信景翁の著書)一ノ巻に或人云、凡そ亡者の霊に水を手向るは仏法に効へるなりと、予按に是我国上古の習俗歟、「日本紀」一六に鮪臣が死せし時、影媛哀傷の倭歌を詠じて「<ruby><rb>玉笥</rb><rp>(</rp><rt>タマケ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>飯盛</rb><rp>(</rp><rt>イヒモリ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>玉椀</rb><rp>(</rp><rt>タマモヒ</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>水盛</rb><rp>(</rp><rt>ミヅモリ</rt><rp>)</rp></ruby>」などいひ、其葬の時「<ruby><rb>水喰</rb><rp>(</rp><rt>ミヅクヒ</rt><rp>)</rp></ruby>ごもりみな<ruby><rb>酒</rb><rp>(</rp><rt>ソソ</rt><rp>)</rp></ruby>ぎ」の詞あり、これ我国仏教来らざる以前の事也、仏氏といへども餓鬼の他、仏菩薩等に水手向る事なし(中略)「空華談叢」巻一に亡霊薦水六則あり、可考合。


と載せてある。之に由れば、巫女がその霊に水を手向けることは、我が古俗のようにも考えられるのであるが、単に是だけの資料で決定するのは危険である。殊に仏法にも亡霊薦水の法があるというし、且つ故前田太郎氏の研究によると、死者の霊に水を手向ける土俗は、殆んど世界的に遍在していたというから〔二〕、これは我が古俗にも存し、仏法にも在ったもので、巫女のそれは、古俗に仏法を加えたものと見るのが、微温的ではあるが、穏当だと考える。樒ノ葉を用いるに至っては、仏法の影響と見るも〔三〕、蓋し何人も異議のない事と思う。故長塚節氏の力作「土」には、茨城県下の農村における巫女の所作が克明に委曲に描かれているが、生口を寄せる一節に、巫女が『白紙<ruby><rb>手頼</rb><rp>(</rp><rt>タヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り水手頼り、<ruby><rb>紙捻</rb><rp>(</rp><rt>コヨリ</rt><rp>)</rp></ruby>手頼りにい……』と唱えたと記している。此の水の手向けは古くから広く行われていたようである。而して此の手向の水ということが、後には市子に祈祷してもらえと云う意味に転用されるようになり、呼び出される死霊が『水が足らぬ』とか『<ruby><rb>水向</rb><rp>(</rp><rt>ミズムケ</rt><rp>)</rp></ruby>を頼む』と云うのは、即ち市子が死霊の言に託して、自分の収入を謀った狡猾なる手段なのである。
と載せてある。之に由れば、巫女がその霊に水を手向けることは、我が古俗のようにも考えられるのであるが、単に是だけの資料で決定するのは危険である。殊に仏法にも亡霊薦水の法があるというし、且つ故前田太郎氏の研究によると、死者の霊に水を手向ける土俗は、殆んど世界的に偏在していたというから〔二〕、これは我が古俗にも存し、仏法にも在ったもので、巫女のそれは、古俗に仏法を加えたものと見るのが、微温的ではあるが、穏当だと考える。樒ノ葉を用いるに至っては、仏法の影響と見るも〔三〕、蓋し何人も異議のない事と思う。故長塚節氏の力作「土」には、茨城県下の農村における巫女の所作が克明に委曲に描かれているが、生口を寄せる一節に、巫女が『白紙<ruby><rb>手頼</rb><rp>(</rp><rt>たよ</rt><rp>)</rp></ruby>り水手頼り、<ruby><rb>紙捻</rb><rp>(</rp><rt>こより</rt><rp>)</rp></ruby>手頼りにい……』と唱えたと記している。此の水の手向けは古くから広く行われていたようである。而して此の手向の水ということが、後には市子に祈祷してもらえと云う意味に転用されるようになり、呼び出される死霊が『水が足らぬ』とか『<ruby><rb>水向</rb><rp>(</rp><rt>ミズムケ</rt><rp>)</rp></ruby>を頼む』と云うのは、即ち市子が死霊の言に託して、自分の収入を謀った狡猾なる手段なのである。


'''B、巫女の唱えた神降しの呪詞'''
'''B、巫女の唱えた神降しの呪詞'''
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:: 家内安全商売繁昌の御祈祷と
:: 家内安全商売繁昌の御祈祷と
:: 敬ってまをす〔五〕
:: 敬ってまをす〔五〕
:: ○中山曰。小寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。
:: ○中山曰。小野寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。
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: オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄(つまり人形の胴体)を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。
: オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄(つまり人形の胴体)を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。
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「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。
「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。


: 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「<ruby><rb> 神附 </rb><rp>(</rp><rt>カミツケ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の<ruby><rb>荒増</rb><rp>(</rp><rt>あらまし</rt><rp>)</rp></ruby>を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、<ruby><rb>眼</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時には神の附かぬことがある。その時は列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>」をすることである。これは死人あったときの一七日、お<ruby><rb>盆</rb><rp>(</rp><rt>ぼん</rt><rp>)</rp></ruby>又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。
: 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「<ruby><rb> 神附 </rb><rp>(</rp><rt>カミツケ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の<ruby><rb>荒増</rb><rp>(</rp><rt>あらまし</rt><rp>)</rp></ruby>を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、<ruby><rb>眼</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時には列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>」をすることである。これは死人あったときの一七日、お<ruby><rb>盆</rb><rp>(</rp><rt>ぼん</rt><rp>)</rp></ruby>又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。
: 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。古代の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>さにわ</rt><rp>)</rp></ruby>である)と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「<ruby><rb>日忌</rb><rp>(</rp><rt>ヒイミ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等(寄稿者島畑隆治氏)幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。
: 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。古代の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>さにわ</rt><rp>)</rp></ruby>である)と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「<ruby><rb>日忌</rb><rp>(</rp><rt>ヒイミ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等(寄稿者島畑隆治氏)幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。


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: 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん(中山曰。精眼者である)が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た(原註略)。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた(中略)。
: 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん(中山曰。精眼者である)が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た(原註略)。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた(中略)。
: 北小谷(中山曰。北安曇郡)の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知(小谷下流の越後分)から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升に銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった(中略)。
: 北小谷(中山曰。北安曇郡)の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知(小谷下流の越後分)から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升にい銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった(中略)。
: 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に<ruby><rb>靠</rb><rp>(</rp><rt>もた</rt><rp>)</rp></ruby>れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某(嗣子の名等を呼び)は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという(中略)。
: 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に<ruby><rb>靠</rb><rp>(</rp><rt>もた</rt><rp>)</rp></ruby>れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某(嗣子の名等を呼び)は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという(中略)。
: 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか(と話手の老人は云った)、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ(人形)が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭(中山曰。各自銭を出し合うこと)をして包金であやまった事があったと云う云々。
: 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか(と話手の老人は云った)、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ(人形)が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭(中山曰。各自銭を出し合うこと)をして包金であやまった事があったと云う云々。
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