日本巫女史/第三篇/第二章/第一節」を編集中

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:: 家内安全商売繁昌の御祈祷と
:: 家内安全商売繁昌の御祈祷と
:: 敬ってまをす〔五〕
:: 敬ってまをす〔五〕
:: ○中山曰。小寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。
:: ○中山曰。小野寺氏の記事には、祭文の文句は記して無いのを、私が勝手に中道氏の寄稿から、此の文句ならんと考えて掲げたのである。
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: オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄(つまり人形の胴体)を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。
: オシラ祭文は、オシラ神の由緒を物語る長い叙事詩を歌うので、長者の厩に飼われたせんだん栗毛という名馬が長者の姫に恋をして、結局二人が蚕の神様になるという歌で、イタコは歌いながら、両手に持つ二つの御神体を動かすので、「如何に動かすか」が私の興味なのである。そこでイタコは机に並んだ位置をそのままに、右手で女神左手で男神を持った。センタクの下へ手を入れ、柄(つまり人形の胴体)を持つ、この人形は手足はなく、首と胴と着物のみである。
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「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。
「郷土研究」第三巻第四号に次の如き記事がある。


: 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「<ruby><rb> 神附 </rb><rp>(</rp><rt>カミツケ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の<ruby><rb>荒増</rb><rp>(</rp><rt>あらまし</rt><rp>)</rp></ruby>を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、<ruby><rb>眼</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時には神の附かぬことがある。その時は列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>」をすることである。これは死人あったときの一七日、お<ruby><rb>盆</rb><rp>(</rp><rt>ぼん</rt><rp>)</rp></ruby>又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。
: 陸中国東磐井郡門崎村近傍では、巫女をオカミサマと云う。盲目の女子の仕事である。巫女になるには、七箇年の年季で弟子入りし、其期間は師匠の食料までも自弁する定めである。さて一定の修業が終ると「<ruby><rb> 神附 </rb><rp>(</rp><rt>カミツケ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云う式を行う。是れがオカミン様の卒業式である。至って荘厳な式で、若しも不浄な者が式場に入れば、神が附かぬと云っている。式の<ruby><rb>荒増</rb><rp>(</rp><rt>あらまし</rt><rp>)</rp></ruby>を言えば、先ず舞台を設けて注連縄を張り、真中に神附せらるべき女子その近親に擁せられ、<ruby><rb>眼</rb><rp>(</rp><rt>ママ</rt><rp>)</rp></ruby>を手拭で鉢巻して坐る。その周囲を多数の巫女が取巻いて坐り祈祷するのである。然る後「何神附いた何神附いた」と問うと、真中に坐った女子「八幡様附いた」とか「愛宕様附いた」とか言う。斯うなれば、一人前の巫女となったものとして大なる祝宴をする。時にはには神の附かぬことがある。その時は列座の巫女たち御迎と称して坐を立つ。然る後は、大抵「何神附いた」と言うものである。巫女の業務は「<ruby><rb>口寄</rb><rp>(</rp><rt>クチヨセ</rt><rp>)</rp></ruby>」をすることである。これは死人あったときの一七日、お<ruby><rb>盆</rb><rp>(</rp><rt>ぼん</rt><rp>)</rp></ruby>又は秋の彼岸に、各戸殆どこれを行わぬ者は無い。
: 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。古代の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>さにわ</rt><rp>)</rp></ruby>である)と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「<ruby><rb>日忌</rb><rp>(</rp><rt>ヒイミ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等(寄稿者島畑隆治氏)幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。
: 口寄を行うには、巫女は神降しと称して暫時祈祷をした後、希望せらるる死人となって、希望した人に対して言葉哀れに語り出す。婦女子等は大抵泣いて之を聴く。その聴いているうちに<ruby><rb>問口</rb><rp>(</rp><rt>トイクチ</rt><rp>)</rp></ruby>(中山曰。古代の<ruby><rb>審神</rb><rp>(</rp><rt>さにわ</rt><rp>)</rp></ruby>である)と云うことをする。即ち聞手の方から口寄につれて色々の事を問うので、巫女はこの問口が無いと語り苦しいものだと云っている。又口寄の言うことの中に「<ruby><rb>日忌</rb><rp>(</rp><rt>ヒイミ</rt><rp>)</rp></ruby>」と云うのがある。例えば何月何日何方へ往けば損をするとか、不治の病に罹るとか云う類である。地方では之を信ずること甚だしく、その日は必ず在宅して謹慎する風がある。この迷信の結果、自分等(寄稿者島畑隆治氏)幼少の時までは、学校さえも欠席したものである。今は日忌の風は次第に薄らいで行くが、巫女に口寄させる風に至っては、まだ減退せぬようである云々。


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: 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん(中山曰。精眼者である)が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た(原註略)。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた(中略)。
: 川中島では竃祓いをノノサンと云った。松本の近在から来るという事であったが、出所は明かでない。矢張り婆さん(中山曰。精眼者である)が多かった。千早を着て、髪は御守殿風に結び、提げて来る風呂敷包は、松本のと似ていた。「ごめんなさい」と云って入って来た(原註略)。鈴を振りながら経を誦んだ。口寄せの如く神口をきいた。お神楽を上げるときには、右手に鈴を振り、左手に布紗に包んだ経本の如きものを持ち、経を誦みながら、両手を頭上高く挙げ、やがて、ぴたりと鈴を止め、「我が一代の、守り神であるぞよ……」から初めて、神口をきいた(中略)。
: 北小谷(中山曰。北安曇郡)の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知(小谷下流の越後分)から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升に銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった(中略)。
: 北小谷(中山曰。北安曇郡)の竃祓いは、あの辺ではモリと云った。盲目の巫女が多かった。根知(小谷下流の越後分)から多く来た。四隅をしばった風呂敷包に鈴を持って居り、家の者に挨拶してから祓にかかった。御洗米といって米一升にい銭若干が礼であった。モリは神口もきいた。若い女が多かった(中略)。
: 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に<ruby><rb>靠</rb><rp>(</rp><rt>もた</rt><rp>)</rp></ruby>れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某(嗣子の名等を呼び)は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという(中略)。
: 川中島地方では、別に梓巫をクチヨセと呼んで、竃祓のノノサンと区別していた。「お神楽を上げれば一段上り口寄を寄せると二段下へ下がる」といったから、竃祓の方を位良しとしていたのであろう。針箱位の風呂敷包を背負って、それに傘一本いつけて来た。その箱の中には人形が入っているということであったが、どうしても見せなかった。風呂敷包の箱に<ruby><rb>靠</rb><rp>(</rp><rt>もた</rt><rp>)</rp></ruby>れて、神口、生口、死口をきいて、口寄せをした。神口のときには「神の初めは伊勢明神、越後ぢゃ弥彦の明神よ、信州ぢゃ一は諏訪さんよ……」と節調をつけて、神々を招ぎ降す。死口をきくときには、よく「某(嗣子の名等を呼び)は馬鹿だし、俺も行くところへ行かれぬ、それに水が呑み不足で一足出れば三足戻る……水向けしろや、お線香を立ててくれろや、さうすりゃ俺も助かる」などというので、身内の者などは涙を流して聴き入ったものだという(中略)。
: 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか(と話手の老人は云った)、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ(人形)が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭(中山曰。各自銭を出し合うこと)をして包金であやまった事があったと云う云々。
: 小谷では之をイチコと云った。イチコの箱の中には外法仏が入っている。何か練って拵えたものだという事であったが、誰も見たものは無かった。ところが明治十年頃の事だったろうか(と話手の老人は云った)、イチコの泊っている家に集まって一杯やっていた博労共が、段々酔って来る中に、イチコがぶらりと遊びに出て行ったのを見てとり、その不在に主人の制止するのもきかず、箱の中から外法仏を出して見た。中には土で拵えたキボコ(人形)が入っていた。聖天様の様に男女のキボコが口を吸い合ってからまって居た。後でイチコが帰って来て「俺を勿体ない、いびりものにした」と腹立ち、箱に靠れて外法仏に聞いて、「誰と誰が云い出し、誰が風呂敷を解き誰々が箱を開いて、誰々で見た」と云った。皆の者弁解に窮し、それに薄気味悪くなって、繋銭(中山曰。各自銭を出し合うこと)をして包金であやまった事があったと云う云々。
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